帰還祝いと生還祝い(4)
「――自衛隊の戦闘機パイロットを目指して航空学生の試験を受けた後、俺は大学受験もしたんだ」
唐突に話を始めたジッパーは、ある国立大学の名を口にした。俺は驚いて訊き返した。
「それって……あの、超難関のところですよね!?」
今では質実剛健を体現する自衛官代表とも言えそうなジッパーが、当時大学進学も考えていたというのは意外だった。しかも受験したというのは、俺なんかにしてみたら一体どんな頭の作りをしているのかと驚嘆するレベルの人たちが集う大学だ。
思わず目を丸くした俺に、ジッパーは軽く頷いた。
「俺の親は両方ともそこの大学院を出てる。兄貴も弟も同じ大学を出て、今は官公庁勤めだ。父方の爺さんはどっかの大学の学者先生だったらしいし、母方の方は国の役人をしていたそうだ。そんな家系の中で自衛隊に入りたいなんて言ったらどんな反応されるか、分かるか?」
もちろん反対されるだろう――知的でエリートなホワイトカラーの家庭環境というものには程遠いところで育った俺にも、それくらいは想像できた。
ジッパーは中鉢に盛られたタコと枝豆の梅肉和えを自分の取り皿にスプーンで移しながら、表情を動かすこともなく続けた。
「父親には、『お前が自衛官になったら家の恥だ』とまで言われたよ。親の世代にしてみたら、自衛隊に就職するなんていうのはろくでもない奴という刷り込みが根深いんだろう――仕事もせずに駅前をうろついてるような人間が広報官に声をかけられて引っ張っていかれて、入隊試験の答案用紙に名前さえ書ければ誰でも入れたような時代もあったそうだからな……。『社会の底辺の集まり』みたいなイメージを、俺の両親も当然持ってた。それに何より――自分たちの息子が自衛隊にしか入れないような出来の悪い人間だと周りに思われるのを嫌がってた」
手に取っていた鉢を元あった場所に戻したジッパーの目が、僅かにきつくなった。
「――だから俺は自衛隊に入ってパイロットを目指すために、何が何でもその大学に合格してやると自分の心に決めた。俺がそこに受かってさえいれば、親としても一応の面子が立つわけだ。『うちの子は最難関の大学を蹴って自衛隊に入った』って親戚にも堂々とアピールできるからな」
そう言って、ジッパーは俺を見ると薄く嗤った。
「高1でそう決心してから、寝る間も惜しんで死に物狂いで勉強したよ。筋トレやランニングをしながら暗記物の勉強をしたりもした。最高レベルのその大学に合格して絶対に航空学生に入ってやる、親に文句は言わせない――その一念だった」
「それで……大学は受かったんですか……?」
「ああ」
ジッパーは淡々と頷いた。
「でも結局、入隊する時には勘当同然だった。それでも俺は別に構わなかった。親の希望に対してやるべきことはしてやった。だから『もう俺の人生にこれ以上干渉しないでくれ』と吐き捨てて家を出た」
しばらく沈黙が流れる。
俺はどう相槌を打っていいのか分からなかった。黙って酒を口にし、マグロの醤油漬けに山葵を乗せながら、相手の次の言葉を待った。
やがてジッパーが再び口を開いた。
「……俺は、信念と自律の気概がない人間は嫌いだ。怠惰な人間も嫌いだ。大した努力もせずに人を羨むだけの人間も嫌いだ。ちょっとやってみただけですぐに『できない、自分には向いていない』と投げ出す奴がいるが、俺に言わせればただの根性無しだ。死に物狂いになって努力すれば、大抵のことは何とかなるもんだと信じてる。できないのは、安易な方に逃げようとする自分自身のせいでしかない――」
酔いに任せ、脈絡をつけようともせずに呟かれるジッパーの言葉に、俺はあえて口を挟まず耳を傾けた。
「地元に戻った時に、中学や高校の同級生なんかにたまたま会ったりするだろ。俺が自衛隊で飛行機に乗ってることが分かると、『パイロットなんていいよな、よっぽどいい給料もらってるんだろ』って言う奴が必ずいる――まあ、同じ自衛隊の中にだって、飛行機から離れたところで仕事する職種だとそう考える隊員もいるけどな……。でも、俺たちの仕事の派手に見える部分だけ見て妬むのはお門違いだ。飛行機に乗るために、どれほどの期間どれだけ血の滲むような努力を重ねてきたか知ってるのか。自分は大して努力もしてこなかったのに、表面上のいいところだけを見て他人を羨むのはただの僻みだ。だから俺はそういう人間が好きじゃない。『果たして自分は限界ギリギリまで挑んだか』――その自問なしに人生に妥協することは、単なる甘え以外の何物でもないと思ってる」
宙の一点を注視するようにして低い声で語られる厳格な信念に、俺は酒にだるくなって丸めていた背を無意識のうちに伸ばしていた。
ジッパーはグラスを傾けつつ続ける。
「――そう思って俺は今までずっとやってきた。だから仕事上ではどんなに上の期の先輩であっても、口先だけは偉そうなことを言って実際にやってることは適当だったり、ブレたことばかりする相手には手加減なく意見した。でも、そんなふうに突っかかってばかりだから当然鬱陶しがられる。反抗的で素直じゃないと断じて俺の意見を端から撥ねつける先輩ばかりだった。でもな――」
硬い口調から僅かに力みが抜けた。
「リバーだけは他の先輩と違って、俺の意見を頭ごなしに否定しなかった。じっくり俺の言い分を聞いてから、違うところは違うとはっきりと指摘して、いつも根気よく諭してくれた」
まだ人柄を深く知るほどではないが、リバーならきっとそうだろう――俺はグラスに口をつけながら頷いた。
ジッパーは頬杖をつき、もう片方の手を自分のグラスの縁に掛け、大した意味もない様子でゆっくりと動かしながら、中に半分ほど残った酒が揺れる様に一時目を落としていた。
「……それでも、俺はリバーを侮ってた。ずば抜けたフライトのセンスを――機眼を持っている訳じゃない。皆の先頭に立ってぐいぐい引っ張っていくようなカリスマ性がある訳でもない。お前も今はもう知ってるとおり――いつもあんな感じだからな」
ジッパーはふっと苦笑して目を上げると、廊下の方に視線を向けた。
大人の話が分かっているのかいないのか、座卓の端に座っている勇太郎君が肉じゃがの大きな芋を頬張りながら、好奇心を覗かせた目で俺とジッパーを交互に見上げている。
「――ある時、俺はリバーのウイングマンで上がったことがあった。2対2の格闘戦で、対抗機の内の1機を俺が追いこんでいた時だ。リバーから『抜け!』と指示が出た。でも俺は抜かずに操縦桿を引き続けた。いけると思ったからだ。リバーの指示より自分の腕を信じてた。だから旋回を緩めなかった――でも俺は見えてなかったんだ。次の瞬間、俺の鼻先ぎりぎりのところをもう1機の対抗機が掠めるように横切っていった。F-15の腹が一瞬まるで目の前に覆い被さってくるようにでかでかと見えたほどだ。ほんのコンマ数秒違えば空中衝突になっていたほどの、際どい異常接近事態だった……」
ジッパーは言葉を切ると残っていた酒を一息に飲み干し、手酌で再びグラスを満たした。
「下りてきたら当然大騒ぎだ。先輩たちからは『分かってて指示違反する奴なんかウイングマン失格だ! 信頼できない奴を連れて飛べるか!』なんて散々罵倒されて総スカンを食らった――まあ、当たり前だよな。どう考えたってリーダーの指示と違うことを意図的にやった俺が悪い。さすがに今度ばかりはリバーにも愛想を尽かされると思ったよ。でもそれなのに――リバーは俺を庇ってくれた。もちろん指示違反の件については厳しく指導されたが、周りの先輩たちが俺を糾弾しようといきり立つ中、それでも今までと変わらず俺に対して向き合ってくれた。その時初めて――この人にならついていきたいと心の底から思えるリーダーに出会えた気がしたんだ」
俺は知らず知らずのうちに息を詰めてジッパーの話を聞いていた。
ジッパーが引き起こした異常接近事態がどんなに重大で危険なことだったか、その時、隊の雰囲気がジッパーに対してどんなに刺々しかったか――まるで自分がその場にいたかのようにありありと想像できた。そして、孤立無援の状態の時にたった一人でも自分に気持ちを向けていてくれる人がいるということが、どんなに心強く救いとなるか――そんな事態を経験したことがない俺でさえ、その時のジッパーの心境は分かる気がした。
俺は神妙な心持ちになって、適当な相槌を見つけられないままジッパーを見つめた。
俺の前で、ジッパーは唇を引き結んだまま苦しげに顔をしかめると長く息を吐き、再び言葉を続けた。
「――でも、それから何週間も経たないうちだった、リバーに13教団への異動の辞令が下ったのは。その時の隊長はリバーの教官としての資質を見込んでの人選だったと言っていたが、俺はそうじゃないと思った。俺がわざとやらかしたことで上の人間からリーダーの適性にケチをつけられて、戦闘機部隊から教育集団に左遷されたと思った。リバーは『教育集団への異動は前から希望のひとつとして挙げていたことだし、お前が考えているような理由じゃないから気にするな』と言ってくれてはいたけどな。だから――リバーがどこか他の部隊じゃなく、またこの305に戻ってくると分かった時、俺は本当に嬉しかったんだ。尊敬できる先輩がやっと帰ってくる、これで以前の自分の不始末を償えると……」
噛みしめるような呟きに、俺は無言で頷いた。
廊下の奥から、聡子さんの抑え気味の声と希実ちゃんの甲高い声が入り混じって聞こえてくる。
「まったくもう、正俊さんは……ほら、ちょっと顔でも洗って……」
「パパってばしっかりせんとー!」
わさわさとした気配がして、聡子さんと希実ちゃんとともにリバーがようやく姿を現した。
「悪い悪い、気持ちよく寝ちゃってたよ」
済まなそうな顔で頭を掻きながら、「子どもたちと丸一日外で駆けずりまわって遊んだら、思いのほか酒が早く回るよ」と言いつつ自分の座布団の上に腰を下ろした。何事にもストイックに臨むジッパーの長い独白が生み出していた緊張感が一気に和らぐ。
同時に、俺は自分がもうかなり酔ってきているのを急に実感した。頭がぼんやりしていい気分だ。
ジッパーは気怠そうに頬杖をついて、アルコールに潤んだ目をリバーに向けた。いつもの仏頂面でどことなく拗ねたように言う。
「……俺たちもう結構飲んじゃってますよ、先輩」
「そうか? じゃあ俺も急いで追いつかないといけないな」
リバーはそう答えてにっこりすると、手を伸ばしてクーラーボックスの上に並べてある酒瓶の中から赤ワインのボトルを手に取り、栓抜きを捻じ込んで手際よくコルクを開けた。