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帰還祝いと生還祝い(3)

 リバーがトイレに席を立つと、俺は座卓の隅に置かれていた一升瓶を引き寄せた。305(サンマルゴ)流に瓶底を片方の手のひらだけで支え持ち、底が見えかけていたジッパーのグラスに日本酒をなみなみと注ぎ足す。1本目の瓶がもう空になりそうだ。


 台所では、勇太郎君と希実のぞみちゃんが料理をしている母親にまとわりついてつまみ食いをねだっている。聡子さんは大き目の皿を2枚出すと、台所に余っていたおかずを何種類かそれに盛り付けて子どもたちに手渡した。2人はいそいそと皿を持って居間にやって来ると、座卓の空いているところにちょこんと正座した。見慣れない大人と一緒に食べることになって緊張しているのか、2人で押し合いへし合いしてくっつくようにして座っている。


 その様子を見たジッパーは、酒の入ったグラスを置くと肘をついて視線を下げ、2人に笑みを向けた。


「勇太郎君、これも食べる? 希実ちゃんは?」


 ジッパーが指差したおにぎりを見て勇太郎君が「うん」と頷くと、希実ちゃんも続いて頷いた。

 子どもたちにおにぎりを取り分けてやりながら、ジッパーは色々と話しかけている。


「勇太郎君は新しい小学校にはもう慣れた?」

「うーん……少し慣れよう。でも勉強で習っとらんところとかありよるけぇ、そういうのが分からん」

「ああ、教科書が違うからね。先生は教えてくれないの?」

「休み時間に教えてくれようよ。でも、みんなと遊べんくなるけぇ、つまらん」


 北九州地方の方言混じりに答える勇太郎君に「転校したてはそうなんだよなぁ」と頷きながら、ジッパーは妹の方にも声をかけた。


「希実ちゃん、前住んでたところはどうだった? 楽しかった?」

「うん……いろんなことしよったよ」


 恥ずかしそうに小声でそう答えた希実ちゃんは、そう言った途端に芦屋あしやでの楽しかったことを思い出したのか、みるみる目を輝かせると元気づいたようにお喋りを始めた。


「海のところでお祭りがありよって、幼稚園の先生とお友達と、お砂ででっかいクジラ作りよった。お城とか、人魚姫とかもおったん」


 ジッパーは希実ちゃんの拙い説明を根気よく理解しようとするように目を細めて耳を傾けつつ、相槌を打つ。


「ああ……芦屋はすぐ近くに砂浜があるからね。おじちゃんも昔芦屋にいたことがあるけど、今はそういうお祭りをやってるんだ」


 そう言えば――俺は日本酒を口にしながらふと思い出した――自分が芦屋基地にいた頃、町が音頭を取って『砂浜の美術展』というイベントをやっていた。滑走路のすぐ先に広がる松の防砂林の向こうの砂浜で、色々な団体が砂像を作って展示するのだ。休日に同期数人で観に行った覚えがある。


 今となってみると、20(はたち)過ぎの男どもだけでそんなイベントに繰り出すのは何とも哀しく思えるが、その頃は日々の訓練の合間の貴重な楽しみだったのだ。


 それにしても、驚いたことにジッパーはすっかり利根兄妹きょうだいを懐かせてしまったようだ。勇太郎君も希実ちゃんも競うように話しかけている。

 いつもの厳めしい態度からは想像もできないほどソフトな様子の鬼先輩の姿があまりに意外で、俺はジッパーのグラスに酒を注ぎながらついしげしげと見てしまった。


「――何だ、イナゾー。その顔は」

「いやっ……なんかその、ジッパー先輩の新たな一面が……」


 横目でじろりと睨まれて、思わず俺はしどろもどろになりながら答えた。

 ジッパーはぐびりと酒を飲み下すと、新しい一升瓶の封を開けながら普段の物言いに戻ってつっけんどんに言う。


「当たり前だろ。子ども相手にいつもの調子でやったら泣かれるだろうが」


 先輩、一応自覚はあるのか……。


 ジッパーからの酌を受けつつ、俺は妙に納得した。


 2人の兄妹は俺に対しても緊張が解けてきたようだ。

 希実ちゃんが果汁で手をべたべたにしながらようやく皮を剥き終えた巨峰を頬張りつつ、「おじちゃんもパパとおんなじ飛行機乗りよっとぉ?」と俺に訊いてきた。「おじちゃん」という呼びかけに軽く衝撃を受け、思わず酒を変に飲み込んでむせそうになる。

 「希実、『お兄さん』でしょ!」と台所からすかさず聡子さんが訂正していたが、こんな小さな子からしたら俺だって立派なおじさんの部類だろう。でもさすがにちょっとまだ……「お兄さん」でいたい。


 しかし希実ちゃんは構うことなく、パパが芦屋で乗っていた飛行機の話や家でのパパの様子などを子どもらしい甲高い声で明け透けに話して聞かせてくれていたが、急に立ち上がると廊下の方に駆けていってしまった。姿は見えなくなったが、すぐに奥から切羽詰まったように母親を呼ぶ不機嫌そうな声がする。


「ママァ! パパがトイレで寝よるー!」


 リバーがなかなか戻って来ないと思っていたら、どうりでそのはずだ。

 聡子さんがびっくりしたように廊下の方を覗きこむ。


「ええっ、本当!? もう、お客さんをほったらかしにして……。すみません、私ちょっと見てきますね」


 俺たちに申し訳なさそうにそう断ると、料理の手を止めて慌てたようにパタパタと居間を出ていった。やがて、「正俊まさとしさん! またこんなところで寝て! まだお話の最中でしょ、ほら起きて!」と呆れたような声が向こうから聞こえてきた。 


 ジッパーは廊下の奥に目をやると、薄い唇を曲げるようにして笑みを浮かべた。「――相変わらずだな、リバーは」と呟き、一升瓶を手にして俺のグラスに酒を重ねる。


「先輩とリバーさんて、1期違いでしたよね? 航学の頃から今みたいに親しかったんですか?」

「いや。あの頃は対番区隊でもなかったし、名前をうっすら知ってるくらいだった」

「じゃあ、お互いをよく知るようになったのって、305に来てからなんですか」

「ああ」


 ジッパーはいつになく機嫌がいいように見えた。今なら色々と話を聞かせてもらえるかもしれない。

 大根おろしを溶いた天つゆにかき揚げをくぐらせているジッパーに話を振ってみた。


「先輩は本当にリバーさんを尊敬してますよね」

「ああ――」


 俺の問いかけにジッパーが頷く。


「――俺はリバーに育ててもらったんだ」


 昔を振り返るような口調でそう言って、天ぷらを口にした。


 どうしたらあの丸い性格の人からジッパーのような鋭利な印象の戦闘機乗り(ファイター)が育つんだろう――飛行隊でいつも目にするリバーとジッパーのやり取りの様子を思い出し、その度に感じる疑問が今もまた浮かんでくる。


 ジッパーは少しの間何か思いを巡らせているような顔つきで黙々と料理をつまみながら酒を喉に流し込んでいたが、おもむろに口を開くと淡々とした様子で話し始めた――。





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