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帰還祝いと生還祝い(2)

 

「今日は我が家に来てくれてありがとう。まずは、イナゾーが絶体絶命の危機的状況から見事に無事生還したことに――」


 リバーがグラスを掲げる。


「そして、先輩の3年ぶりの305(サンマルゴ)への帰還に――」


 ジッパーがそう続け、俺もグラスを掲げた。


「乾杯!」


 冷えたビールを一気に飲み干し、それぞれ唸りながら満ち足りたような息を吐く。胃袋の中がアルコールでカーッと熱くなっていくのを感じる。


 リバーは小鉢に入った豆腐とイクラを箸で掬いながら、改めて俺を見ると感慨深そうに言った。


「いやぁ、本当に無事で何よりだったよなぁ。最低高度が100フィート切ってたって? 恐ろしいなぁ」

「ジッパー先輩に呼ばれてなかったら、多分そのまま海に突っ込んでいたと思います」

「俺もさすがにあそこまで叫んだことはなかったな」


 ジッパーがマグロの醤油漬けを自分の皿に取り分けながら、深々と溜め息をついて付け加えた。


 あのフライトの後、ジッパーの乗っていた機体に備え付けられていた記録用のビデオテープを再生し、その時の状況を確認してみた。

 俺がGロックに入ったのと同時刻、HUDヘッドアップディスプレイの向こうに対抗機の姿を捉え続けている画面の端を一瞬だけ灰色の機体が横切るのが小さく映っていた。まるで緩く放り投げられた小石のように何の意志も感じられない動きだった。それと同時に十数秒にわたりジッパーの叫び声が――罵声の入り混じった絶叫が録音されていたのだった。


「100フィートって、そんなに怖く感じるものなんですか?」


 聡子さんがまた新しい料理を運んできてテーブルに並べながら、素朴な疑問を俺に向けた。


「そうですね……100フィート――だいたい30メートルくらいですけど、F-15だと洋上では普通そんな高度まで下りることは絶対にないですし――」


 以前、まだ自分がTRだった頃に、F-1戦闘機からF-15に機種転換した大先輩について飛んだことがあったのを思い出す。今の航空機に比べて性能に劣る前世代のF-1で鍛えた操縦者の常として、その先輩も航空機の性能不足を職人技的な緻密な操縦技術で補う技量のある人だった。


 『俺は下を行くけど、お前がやると危ないから絶対に100フィート以下には下りるなよ』――そう念を押して、その先輩はよりレーダーに捉えられにくい海面すれすれのところを恐ろしいほどのスピードでまさに舐めるように進んでいった。俺はその後ろ斜め上で高度計が100フィートより下にならないように神経を張り詰めながら、必死になってリーダーについていった。

 先輩よりも高い高度を取っているとはいえ、それでも海面がコクピットの両脇にせり上がってくるような錯覚に囚われる。一瞬毎に視界の後ろに飛び去ってゆくうねりと波飛沫しぶきに強い圧迫感を覚えて、その時俺はずっと背筋をざわつかせながら操縦桿を引き気味に握りしめていたのだった。


 あの時も心臓が縮みそうな空恐ろしさを感じたが、今回のように気づいたらすぐ目の前に海面があるという状況に陥った時の恐怖感はその時とは比べようにならない。


 俺はその怖さをどう表現したらフライト経験のない相手に伝わるだろうかと考えつつ、言葉を続けた。


「――あえて例えるなら、道幅が狭くてカーブの多い首都高速を車の性能限界目一杯までぶっ飛ばして走っている最中についうたた寝をして、はっと目を開けたらあと数センチで壁にこすって大破する寸前……っていう瞬間の感覚に近いかもしれないです」


 そう説明すると、聡子さんはひどく顔をしかめた。


「うわぁ……それは怖いでしょうねぇ……。でも、本当に何事もなくて良かったですねぇ」

「だからまたこうやって酒が飲めて、美味しい家庭料理が食べられて……生きていられるって素晴らしいなぁ……って改めて実感します」


 心からそう言って、俺は塗りの重箱に手を伸ばすとおにぎりをひとつ取った。大根葉としらすと鰹節で作ったふりかけ入りだ。きっとリバーの奥さんはいつもきちんと栄養バランスと健康のことまで気を遣って料理を作っているのだろう。


 口に入れると、細かく刻まれた大根葉の茎の歯ごたえがしゃくしゃくとして心地よく、砂糖醤油の甘辛い味付けと鰹節のうまみがじんわりと口に広がり、どこか懐かしいような、幸せな気分になってくる。実家を出てから数年、いつの間にか家庭の味に飢えていたんじゃないかとすら思えてくる。


「おいしいなぁ……手で握ったおにぎりなんて何年ぶりだろう……」


 しみじみと手料理の温かさを噛みしめている俺を見て、聡子さんはクスクス笑いながら「どうぞたくさん召し上がれ」と言ってまた台所に戻っていった。

 そんな俺を見ながら、リバーは酒に赤くなりはじめた顔で「結婚はいいもんだぞぉ、結婚は」と悟りめかして言うと、自分のその言葉で思い出したようにジッパーに顔を向けた。


「そう言えばお前、もう彼女くらいできたか? 聡子なんか、芦屋にいる間もずーっとそれが気になって仕方なかったみたいだぞ」


 リバーの言葉に、揚げ物をしている聡子さんが台所から笑顔を向ける。ジッパーは苦り切った笑みを浮かべて首を振った。


「いや、全然で……」

「相変わらず堅いんだよなぁ、お前は。相手に完璧を求めてたら、いつまでたっても嫁さんをもらえないぞ」


 半ば真顔でジッパーにそう忠告したリバーの目が、今度は俺の方に向く。


「イナゾー、お前は?」

「いえ、自分も全然……。そもそも出会いもないですし、今はそういうことに気を回す余裕がなくて」


 俺も首を竦めながらそう答えると、リバーは何度か頷いてグラスのビールを飲み干した。そして日本酒の一升瓶を開けて自分の前に並べた3個の新しいグラスに注ぐと、それを俺とジッパーに渡しながら言った。


「まあ、そうだよなぁ。俺もお前くらいの時は一番余裕なかったもんな」

「本当にそうだったよねぇ」


 竹のざるにきれいに盛り付けた天ぷらを運んできた聡子さんが、含みのありそうな言い方で夫に笑いかけた。「まあ、聡子には色々と苦労かけてるよな」と、リバーがもごもごと言葉を濁す。


「主人が2機編隊長錬成訓練(ELP)に入っていた時、ちょうど上の子を妊娠したことが分かったんです。仕事から帰ってきた主人にそのことを話したら、『俺、何にも手伝えないけど……』って虚ろな目で言われました」

「非道ですね、先輩! そういう時はもっと喜びの発言があるもんでしょうが」


 ジッパーがもう半分以上中身が減った日本酒のグラスを片手に、呆れた視線をリバーに注ぐ。リバーは情けないような顔になって、言い訳めいて唸った。


「とにかくあの時は毎日がフライトのことでいっぱいいっぱいだったんだよ――お前たちも分かるだろ?」

「それで、聡子さんは何て答えたんですか?」

「『うん、分かってる』って――もうそう言うしかない状態ですよね」


 そう言って聡子さんは苦笑した。


「出産の時だって、ね? 緊急帝王切開することになって同意書に主人のサインが必要になったんですけど、この人は空の上で全然連絡がつかないし……待っていられないから結局私が代筆して済ませたんですよ。――もうね、あてにしていると何にもできないんです」

「――いやあ……大変ですね」


 いつぞやの宴会の時に、家族サービスする時間のない夫にいかった奥さんが子どもを連れて家を出て行った話を、ポーチがモッちゃんに愚痴っていた。結局は丸く収まったようだったが。


 自分の今の生活に妻や子どもがいたらどんなだろう? ――少し想像しただけでも、構ってやれる余裕なんて1秒もない気がする。


 自分ひとりのことだけでは済まない夫。そして夫に頼らずひとりで家を切り盛りしなければならない妻。


 考えてみれば、災害や動乱が起こった時――一番側にいて欲しい時に夫は家族を置いて出かけてゆく。家族ではなく、国民を守るために。そして夫不在の間、残された家族を守るのは妻なのだ。


 『銃後の守り』――戦時中に掲げられていたスローガンが思い浮かんだ。夫が戦場に出て不在の間、後顧の憂いとならないように妻がしっかりと家族を守るという、まさにそれだ。イクメンだとかマイホームパパだとかいう名前がもてはやされる今の時代にあっても、軍務に携わる者の家族に求められるものは大して変わっていないのかもしれない。


 俺は思わず呟いていた。


「よく我慢していられるなぁ……」

「もうね、仕方ないんです」


 諦めたような笑顔であっけらかんとそう言う聡子さんに悲壮感はない。

 その様子を見ていると、万が一の時にも「いってらっしゃい、頑張って」と明るく送り出してくれそうな、そんな、どんと構えた頼もしさがあった。


「男の人って、多かれ少なかれいつまでも少年の部分があるんでしょうね――戦闘機なんかに乗っている人は特にそうなんじゃないかしら。『俺が俺が』って、自分のことに夢中になったら脇目も振らずにまっしぐらで。永遠の少年なんだろうな、って思います」


 そう言って聡子さんはまた朗らかに笑った。


 頭を掻きながらばつが悪そうにしているリバーの横で、俺とジッパーも思わず目を見交わして体を縮めた。確かに聡子さんの見解は当たっているかもしれない。


 大らかにそう言われると、やらかした悪さを母親に見つかって、それでもなぜか笑って見逃してもらえた時のような複雑な気分だ。温かい眼差しで見守るお釈迦様の手のひらの上で、意気がって威勢よく騒いでいるちっちゃな自分たち――何だかそんな気がしてきた。


「まあ、あれだ」


 リバーが慌てたように話をまとめようとする。


「肝心な時に側にいてやれない分、余裕がある時にはできるだけ家族のことを考えてな、ちゃんとフォローしとくんだ。俺たちの仕事は特に妻の理解とサポートが欠かせないからな。お前たちも結婚相手を決める時は、よーく見極めるんだぞ」


 日頃苦労をかけている妻へのリップサービスも含んでか、もごもごとそんなことを口にしながらそそくさと立ち上がった。


「ちょっとトイレ」


 そう言って、リバーは穏やかな笑みを浮かべている聡子さんの視線から逃げるように廊下に出ていった。




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