帰還祝いと生還祝い(1)
「イナゾー、今度の土曜にリバーのところで飲み会やるからお前も来い」
改めて思い出してもぞっとする意識消失体験の翌朝、駆け足に行こうとジャージに着替えて更衣室を出た時だった。ジッパーに呼び止められ、飲みの話に誘われた――と言うより、有無を言わせぬ口調でそう告げられた。ジッパーの後ろにいるリバーは、およそ誘いとは思えない命令口調に苦笑している。
「リバーさんのお宅って……自分もお邪魔していいんですか?」
改めてリバーの方にそう訊ねると、人の善い先輩はいつものようにのんびりとした笑顔で頷いた。
「もちろん。お前の生還祝いと俺の帰還祝いをしようと思ってな」
俺は先輩2人の提案に礼を言ってから、ふと引っかかって付け加えた。
「でも帰還祝いは普通、迎える側が催すものですよ」
一応注釈をつけた俺に、リバーは「細かいことは気にするな」というように手を振る。
「いいんだよ。うちの嫁も、肩で風を切ってる若手組の熱い語りを久しぶりに聞きたいって言ってるから。それにな――俺もジッパーが気に入ってる後輩と一緒にじっくり飲んでみたいんだ」
何気なく言われたそのセリフに驚いて、俺は思わずジッパーに目をやった。まさかこの不愛想で厳格な先輩が他人との間で話題にするほど自分の事を買ってくれていたとは。
にこにこしているリバーの横で、ジッパーは素知らぬふりを決め込んでいる。
――そんな経緯から、俺は土曜の夕方が来ると基地の正門前にタクシーを呼んでリバーの住む官舎に向かった。日中のうちにスーパーに出かけて買っておいた日本酒の一升瓶を1本と、ちょうど旬の時期で出回っている巨峰1箱が手土産代わりだ。ジッパーはワインを見繕ってくることになっていた。
タクシーの運転手には途中のアパートに寄るように頼んでおいて、そこでジッパーと合流した。
基地から20分ほど車で走ると官舎地区が見えてきた。ビニールトンネルの畝が続くニラ畑と雑木林に囲まれた殺風景な敷地に、無機質な5階建ての建物が7棟ほど等間隔に並んでいる。
そのうちの1棟の前でタクシーを降りると、ジッパーについて一番端の列の階段を昇っていった。日没を少し過ぎたこの時間、階段ホールは薄暗くなっていた。それぞれの階の踊り場に取り付けられた剥き出しの蛍光灯の青白い光が、経年変化で灰色っぽくくすんだ吹きつけの壁や、各階2戸ずつ向き合わせに造りつけられた部屋の素っ気ない鋼板製の玄関ドアを照らしていた。
「ここだ」
3階まで上ったところでジッパーは足を止めた。
玄関のドアに手作りの表札が掛けられていた。ペンキを塗った板に小さな色タイルを貼り付けて、平仮名で「とね」と書いてある。子どもが幼稚園か小学校で作ってきたのかもしれない。タイルで「ね」の形を作るのは難しかったんだろうと分かる出来栄えなのが何となく微笑ましい。
チャイムを押すと、ドアの向こうから「わーっ」という歓声と「パパ、来よった! 来よったよ!」と騒ぐ子どもの声とともに、バタバタと走りまわる音が伝わってきた。
「ほーい」という返事ともに大きくドアが開いて、中からサンダル履きのリバーの姿が現れた。ゆったりとしたネルシャツにチノパンを履いて寛いだ格好をしている。上がり框のところで、男の子が興奮気味に俺とジッパーを見つめていた。人懐こそうな顔はリバーにそっくりだ。
「よく来たな。まあ入ってくれ」
そう促され、ジッパーに続いて広いとは言えない玄関に入る。奥の方から小走りに駆けてくる足音が聞こえ、奥さんがエプロンで手を拭いながら出てきた。その後ろにくっついた小さな女の子が隠れるようにしてこちらを覗いている。
ジッパーを見て奥さんが懐かしそうに声をかけた。
「須田さん、お久しぶりですねぇ!」
「どうもご無沙汰しています。聡子さんもお元気そうで」
ジッパーも笑顔を見せて頭を下げた。
リバーが俺の肩を叩きながら奥さんに向かって言う。
「聡子、こいつがジッパー期待の若手のイナゾー――稲津だ」
「初めまして、稲津です。今日はお邪魔します」
「ジッパー期待の若手の」という大袈裟な修飾語をこそばゆく感じながら挨拶すると、奥さんは朗らかな笑顔を俺に向けて丁寧にお辞儀した。
「妻の聡子です。いつも主人がお世話になっています」
「とんでもない、こちらこそ」
リバーが自分の隣にいる息子の頭に手を置いて示した。
「それと、これが息子の勇太郎で――向こうは娘の希実だ。二人とも挨拶は?」
「こんにちは!」
勇太郎君が物怖じしない元気な挨拶をすると、母親の後ろに半ば隠れたままの妹の希実ちゃんも恥ずかしそうな顔をしながら小さな声で挨拶した。2人の言葉のアクセントは標準語とは少し違っていた。これまで3年間住んでいた、芦屋基地のある北九州地方の方言が混ざっているのだろう。
「勇太郎はジッパーのおじちゃん覚えてないか? ちっちゃい時よく遊んでもらったろ」
「覚えとらーん」
ちょっと首を傾げた後でにこにこしたままあっけらかんとそう答えた勇太郎君に目を当てながら、ジッパーがしみじみと言った。
「確かあの時は2歳とか3歳くらいでしたもんね。大きくなったなぁ……もう小学生ですか?」
「うん、1年生だ。まあほら、上がってくれよ」
部屋の中は美味しそうな料理のにおいであふれていた。
台所と一続きになっている6畳ほどの居間に通され、持参した日本酒と赤ワインをリバーに渡した。恐縮するリバーに「こっちは、良かったらお子さんたちに」と付け加えながら、俺は巨峰が入った化粧箱を勇太郎君に差し出した。勇太郎君は薄紙に包まれた巨峰を見ると、「わーい、おっきいぶどう! ママ、食べてええと?」と箱を抱えて奥の台所に駆けて行った。
フローリング張りの部屋の真ん中にはラグが敷かれ、座卓と座布団が用意されていた。
開けっ放しになっている続きの洋間は子どもの遊び部屋になっているようだった。可愛らしい絵柄のプレイマットの上にカラフルなおもちゃやブロックが賑やかに散らかっていたが、部屋の隅には引っ越し業者のロゴの入った段ボール箱がまだ開けられていないまま幾つか積まれているのが見えた。
「酒はここにあるから好きに飲んでくれ。ビールはこの中だから」
座布団に座った俺たちに、リバーは座卓の横に置かれた大きなクーラーボックスを示した。その横に置かれた折り畳み式の小さな円卓の上には、幾つか違う銘柄の日本酒が数本、赤と白のワインに焼酎、水と氷とマドラー、それにグラスが幾つも重ねて準備されていた。
「305では日本酒ばっかりだったけど、九州に行って初めて焼酎のうまさも分かったよ。ここにある米焼酎な、飲みやすいから後で飲んでみてくれよ」
リバーはそう言いながらクーラーボックスから缶ビールを何本か取り出して、グラスを俺たちに配った。
聡子さんが箸や小鉢を乗せたお盆を持って台所から出てきた。俺たち3人の前に慣れた手つきで箸置きと箸を並べ、おしぼりを配る。銘々に出された小鉢には、寄せ豆腐の上にイクラと分葱が上品に盛り付けられていた。
俺たちが互いにビールを注ぐ間に聡子さんは何度か台所と居間を往復し、こぼさないよう緊張気味にお皿を持って運んでくる勇太郎君と希実ちゃんの手伝いもあって、座卓の上はあっという間に料理でいっぱいになった――晒し玉葱のポン酢かけ、スライストマト、肉じゃが、マグロの醤油漬け、鶏手羽の照り焼き、枝豆とタコを梅肉と醤油で和えたもの……。漆塗りの重箱には、大根葉としらすの手作りふりかけが混ぜ込まれた一口サイズのおにぎりが詰めてある。
よくよく考えてみると、家庭料理を食べるのは本当に久しぶりだ。営内暮らしで平日は基地の食堂で出される料理を短時間で胃に流し込み、週末はコンビニ弁当か居酒屋料理という日常からすると、手料理を食べられるというのは特別なことだ。俺はなんだかワクワクしながら目の前の料理を眺めた。
「それじゃあ、とりあえず乾杯といくか」
リバーが俺とジッパーを交互に見て、にこやかにビールのグラスを手にした。