引っかかる日(4)
『……きろっー! イナゾー! 起きろ!……』
遠くの方から繰り返し耳元に聞こえてくる声。凄まじい剣幕で怒鳴っている。
気持ちよく寝ているところを強引に叩き起こされるような煩わしさ。だんだん腹立たしくなってくる。
『起きろ、イナゾー! 機首を起こせ! 起きろ、馬鹿野郎!!』
……機首を起こせ――?
ジッパーが喉も裂けんばかりの勢いで叫んでいる言葉に、俺ははっと目を開けた。
ベッドの中ではない。今はコクピットの中だ。
飛沫のような雨粒が数えきれないほどの細かい筋を作ってキャノピーの外面を伝い、高速で後ろに流れ飛んでゆく。その向こうに鉛色の暗い海が――空ではなく海が、視界いっぱいに迫っていた。白く泡立つ波頭の形まではっきりと見て取れる。
目の前の光景を認識した瞬間、全身が総毛立った。息が止まる。叫び声すら出ない。頭の中が真っ白になる。
が、とっさに体は動いていた。
背面になりかけた姿勢のまま落ちていく機体をそのモーションに逆らわず一気に捩じこんで水平に戻し、スロットルを押し出すと同時に渾身の力で操縦桿を引く。
再び速度を得た機体は一度海面を舐めるようにしてから瞬時に上昇態勢に移った。F-15の圧倒的なスピードとパワーで、重苦しく垂れこめた低い雲の層を瞬く間に突き抜ける。
強烈なGに呻く俺の耳に過荷重警報システムのアラーム音が聞こえてきた。
ポーポーポポポー……。
『オーバーG、オーバーG……』
システムが至って冷静な女性の声で制限値以上のGがかかっていることを警告している。俺は無我夢中で引き絞っていた操縦桿を慌てて緩めた。一度機体を捻って背面にし、上昇を止めてGを抜く。
再び雲海の上の明るい世界に戻ると、パワーを絞って水平飛行に移った。心臓が今まで経験したことがないほど激しく早鐘を打っている。
落ち着け、落ち着け――自分に言い聞かせつつ何度も深くマスクの酸素を吸い込みながら、まだ呆然とした心持ちのまま僚機の機影を探す。数マイルほど離れた場所から、俺の姿を見つけたジッパーがマルコを連れてこちらに向かってくるのが見えた。
俺はそのまま真っ直ぐに機体を飛ばしながら、からからに乾いた口の中で何度も唾を飲み下し、防空指令所を呼び出した。
「バレル、こちらイナゾー」
たっぷり数秒間の沈黙があった。
『――こ……こちらバレル。どうぞ――』
無線越しの要撃管制官の声は完全に上ずっていた。新人管制官のバレルだけでなく、無線交信をモニターしていたDCの誰もがジッパーの絶叫に最悪の事態を予期し、コンソールの画面上に示された高度表示の数値が急激に落ちてゆく様を慄然と見つめていたことだろう。
「意識消失により下限高度以下まで降下。姿勢回復時にオーバーGしたため、訓練を中止し帰投する」
努めて平静に喋っているつもりだが、傍からすれば交信相手のバレルと同じくらい動揺して聞こえているかもしれない。
ジッパーが機体を滑らせるようにして俺の機の横に寄せてきた。少し掠れた声が無線を通じて聞こえてきた。
『イナゾー、体調に問題があるか』
「いえ、大丈夫です」
『訓練は中止し、以後は自分がリードを取る。イナゾーは2番機、マルコは3番機の位置につけ』
ジッパーは続けて飛行班の飛行指揮所を呼び出すと、状況を説明し帰投する旨を伝えていた。俺は自分の機体をジッパーの斜め後ろに持って行きながら、改めて大きく息を吐き出した。
まだ動悸が収まっていなかった。全身がぐっしょりと嫌な汗で濡れているのが分かる。手袋の中で掌はじっとりと汗ばみ、操縦桿を握ってはいても未だに強張って細かく震えている。
海面の波頭を上空からあんなにはっきりと目にしたことはなかった。飛沫が上がる様子まではっきりと見て取れたほどだ。一体あの瞬間の高度が何フィートだったのか、想像するのも恐ろしくて今は突き詰めて考えてみようとさえ思わない。
とにかく、俺はこうして無事にまた飛んでいる。事故に至らなかったのはラッキーと言う他ない。
基地に近づくにつれて高度を落とし、灰色の雲を抜けて下りてゆく。途端に雨粒がキャノピーを弾き始めた。視程が悪く、景色の奥に霞むように見え始めた飛行場には灯火が点けられていた。晴れていれば白っぽく見える広々とした駐機場や蒲鉾型をした薄緑色の格納庫の屋根も、今は雨に濡れて暗く沈んでいる。
水滴を弾き飛ばして広い翼の周りを白く煙らせているジッパー機に従い、滑走路上空に進入した。次のピリオドに備えて出番を待つ各部隊のF-4やF-15が数機、駐機場で雨に打たれている。その周囲では雨よけのヤッケを着た整備員たちが飛行前の点検作業に勤しんでいるのが見て取れた。バンクを取って緩く旋回しながらその様子を見下ろしつつ、俺は思わずひとつ溜め息をついた。
……皆川3曹に謝っておかないとなぁ――愛機をピカピカに磨き上げて達成感に満ちた顔をしていた真面目な機付長のことが思い浮かんだ――それから、整補群の方にも缶ジュースの箱をいくつも持って頭を下げに行かないといけないかもしれないなぁ……。
オーバーG――つまり制限値以上のGをかけてしまうと、機体に亀裂や破損などの不具合が発生していないかどうかを確認するために整備補給群の各部隊で総点検することになる場合もあるのだ。定期点検に入る機体を毎月きっちり予定に組んで整備作業をこなしている現場に急患よろしく総点検のオーダーが割り込むのだから、整補群の人間にしてみれば迷惑なことこの上ないに違いない。
濡れた滑走路に水飛沫を巻き上げながら着陸すると、3機それぞれを受け持っている整備員たちが待機室から外へと駆け出してくるのが誘導路の奥に見えた。首に掛けていたイヤーマフを耳に当て、こちらに向かって両腕を掲げてスタンバイしている。
駐機場に入ると、誘導に従って機体をゆっくりと定位置につけ、コクピットを開きエンジンをカットした。皆川3曹が梯子を掛けて登ってくる。
予定外に早く戻ってきた3機のF-15に戸惑いの表情を浮かべている機付長に、俺は開口一番で頭を下げた。
「皆川3曹、すんません。オーバーGしちゃった……」
「だから早かったんですね――ちょっとメーターいいですか?」
皆川3曹は梯子から身を乗り出してコンソールのGメーターを覗きこんだ。
アナログのメーターについた3本の白い針のうちのひとつが9Gの位置を指している。
「あー……」とさすがに声には出さないものの、皆川3曹は何とも言いようのない切なそうな顔つきになって、コクピットの縁にかけていた手で無意識のように機体をさすった。
「……これだと多分ドック行きですねぇ……」
「申し訳ない……」
恐縮しながらコクピットから降りた俺は翼の下に入って雨を避けつつ、渡された整備記録にチェックをつけていった。
向こうから航空靴の硬い踵がコンクリートを踏む音が足早に近づいてきた。顔を上げると、モスグリーンのヘルメットバッグを片手に持ったジッパーが大股でこちらにやって来るのが見えた。目深に被った部隊識別帽の下の顔はここから見ても分かるほど強張って蒼白になっている。
ジッパーは俺の前に立つと、雨が降りかかるのを気に留める様子もなく険しい眼差しで俺の顔をまじまじと見つめた後、絞り出すようにして呻いた。
「……てっきりもう駄目かと思ったぞ」
「すみません! Gがかかった状態で喋ろうとしたらむせてしまって……」
情けない思いに顔をしかめつつそう言うと、ジッパーは一気に拍子抜けしたように空を仰いだ。
「むせたって……おい! 本当にもう勘弁してくれよ!」
いつも冷静沈着なこの先輩にしては珍しいほど狼狽していた。
「お前が落ちていくのを見て、俺は10年くらい寿命が縮まったぞ」
機体が急旋回を止めたと思った途端、すうっと惰性で落ちていき厚い雲の中に突っ込んで見えなくなった。これは堕ちたと血の気が引くと、今度は数秒後に雲海の離れた場所からすぽんと飛び出してきた――一部始終を目撃していたジッパーによると、どうもそういうことらしい。
「かくれんぼしてる訳じゃないんだからな!」
ジッパーがその時の衝撃を一息に吐き出すようにそう言ったところに、マルコが水溜りの水を跳ね飛ばしながら駆け寄ってきた。
「かくれんぼって言うよりモグラ叩きみたいだったっすよ! 『あっ、消えた』と思ったら全然違うところからぴょこんと出てくるんすから! いやあ、でもほんとに無事で何よりっす! 俺まだ先輩の葬式に出たくないですもん」
マルコは興奮したようにひとしきりまくし立てると飛行隊の建物に駆け込んでいった。どうせ大事故未遂の目撃談をさっそく言いふらすのだろう。
その後姿を見送りながら、いつもはうるさく思うマルコの調子の良さも今日ばかりはありがたいとしみじみ感じた。軽口を叩けるのも生きて帰ってこられてこそだ。堕ちれば大事故、戻れば笑い話になるのが俺たちの世界だ。
とにかく験の悪い日だった。もしかしたら今日は厄日か――?
苦々しくそう思いながら、それでも今日これまでの自分の心理状態を改めて振り返ってみると、ずっとせかせかとして落ち着きがなかったことは確かだった。これは自分自身で厄を「引き寄せて」しまっていたのかもしれない。これからは要注意だ。
ジッパーと共に駐機場から飛行班に戻ると、わっとばかりに俺の周りに人だかりができた。
「イナゾー! 生還おめでとう!」
「よくぞ生きて戻った!」
「先輩、強運すごすぎです!」
俺を取り囲んだ先輩後輩たちからさんざん小突き回され、口々に無事生還を喜ぶ言葉をかけられながら揉みくちゃにされた。
その後、隊長のリッチと飛行班長のパールからは「大事故に繋がる事案なのでくれぐれも注意するように」と厳しく指導され――とは言え、「むせちまったらどうしようもないよな」とパールは呆れていたが――総括班長のピグモからは、「お前、次の安全教育でやるヒヤリ・ハット事例のブリーフィング担当な」とさっそく指名されてしまった。
ともかく、今日は散々「引っかかった」が、最悪の事態だけはギリギリのところで辛うじてかわすことができた。できればこんな経験はもう二度と御免こうむりたい。