引っかかる日(3)
(イメージ画像:Ginran様)
鹿島灘沖は低い雲が密になって眼下一帯を埋めていた。海面はまったく見えない。この様子だと下は雨になっているだろう。
訓練空域に入ると、俺は体と機体をGに慣らすための機動を行う旨を無線でジッパーとマルコに指示した。
「Gウォーミングアップを実施する。左旋回、4G」
操縦桿を左に倒す。姿勢が90度傾く寸前で素早くセンターの位置に戻し、続けて手前に引く。機体は遅れることなく反応し、直ちに水平旋回に入った。同様にして、ジッパー、マルコの順で後に続く。
旋回を始めた途端、体が座席に押しつけられ、操縦桿やスロットルを操作する腕や床を踏ん張っている脚にもずっしりと負荷がかかり重くなる。しかし4Gくらいではまだ序の口だ。
続いて右旋回で7G。「ポーポーポー……」と高G域に入ったことを知らせる過荷重警報システムのアラームが鳴り始める。
このくらいになってくるとさすがにきつい。Gに引きずられて下半身に落ちていく血液を頭に押し上げるために腹筋を使ってできる限り息を詰めておき、マスクの中の酸素を吸い込む時は瞬間的に行う。そうでないとあっという間に頭が貧血状態になって上空で失神するなんてことになりかねない。
3機で旋回機動を終え、互いに目視で外部点検を行い異常のない事を確かめると、俺は防空指令所の担当要撃管制官<バレル>を呼び出した。
「バレル、イナゾー。ウォームアップ完了。訓練を開始する」
『訓練開始、了解』
電話でやり取りした時と同じ、幾分緊張感の混じった声が届く。多少管制に不慣れであっても今回はそんなに差し支えはないだろう。このフライトでは格闘戦がメインになる。一度戦闘に入れば、基本的に要撃管制官は状況を見守るだけになる。経験不足でまごつくような状況判断が必要になることは恐らくないはずだ。
対抗機役のマルコが編隊を離れ遠ざかってゆく。その排気ノズルから長く雲が伸びていた。コクピットからそれを目にして、思わず俺はマスクの下で息をついた――今日の訓練が近接戦で良かった。要撃をメインにした訓練だったとしたら、雲を曳くような気象条件に加えて機体までピカピカ光っていては、「どうぞ見つけてください」と言わんばかりの状況になっていたはずだ。
少ししてバレルから無線が入った。
『対抗機、正面20マイル』
曇りなく磨かれたキャノピーを通して前方に広く意識を分散させる。抜けるような深い藍色の空を背景にして、ほんの僅かな染みのような存在を視界に捉えた。その一点に焦点を合わせる。マルコのF-15だ。
『現在10マイル』
バレルの通報のとおり、灰色の機影がよりはっきりと見え始めた。雲を曳いたその姿はみるみる大きさを増してくる。
会敵してから旋回に入るタイミングは早過ぎても遅過ぎても不利になる。より迅速に相手の後ろに付くためにはぎりぎりの一瞬を狙う必要があった。
操縦桿を握りなおし、その瞬間を捉えるために集中する。
「……ブレイク――」
こちらより少し高い高度を取り、マッハに近い速度で接近してくる対抗機。その鼻先とすれ違う直前――。
「ナウ!」
ウイングマンに合図すると同時に操縦桿を右に倒した。機体は一気に深く傾き、視界の先で空と雲海の際が直角近くまで立ち上がる。すぐさま中央に戻した操縦桿を続けて手前に引きつけた。相手が曳いた雲の筋の下をくぐり抜け、同じく旋回を開始した対抗機の背後を目指して追尾に入る。
ウイングマンのジッパーは俺の合図でぐんと上昇姿勢に移り、高度を取ると今度はループで急降下しながら俺とは逆方向の旋回に入った。
俺が後ろを追い、ウイングマンがタイミングを計って対抗機の腹を狙いに行く。
1周回、2周回……時にきついGに耐え、時に旋回を緩めながら、先を行く対抗機の動きに合わせて細かく機体をコントロールする。ウイングマンと互いの位置を確認し合い、詰将棋のように少しずつ少しずつ相手の機動範囲を奪ってゆくのだ。
排気ノズルの後ろから発生する雲の帯が、位置をずらしながら空の中で何重もの大きな螺旋を形作ってゆく。その円周の一点に接するような機動で旋回を続けながら、ジッパー機もまた湾曲した白い弧を描いている。
じりじりと相手との距離を詰め、4周回目に入ろうとする頃、対抗機は内側を取ろうとする俺と外側から狙いに来るウイングマンに対して交互に回避行動を取るうちに徐々に身動きが取れなくなってきていた。どう動いても俺かウイングマンのどちらかに捕まる状況になりつつあった。
再び外側後方から食い込もうとするウイングマンから逃げようと、対抗機は苦し紛れに機首を引いて一気に水平旋回の半径を狭めた。
逃がすか――!
相手と同じタイミングでこの瞬間に操縦桿を引けば、相手の前に飛び出してしまう。
俺はとっさに操縦桿を前に押し、ラダーペダルを蹴り込んだ。Gが抜け、フッと一瞬体が浮き上がる。対抗機の姿は90度バンクを取っている自分の頭上だ。ほんの一呼吸ラグを置き、相手の尻についた2つの排気ノズルが視界に入った時――今度こそ力任せに操縦桿を手前に引き絞った。
急激な旋回で再び対抗機の後ろに出ると、半ば背面になりつつ高度を落としスピードを増し始めた相手を追って降下に移る。
ポーポーポポポ――。
高Gを告げるアラームがコクピットに鳴り響く。血の気が引いていき、視界の色が褪せて白黒に変わり始める。歯を食いしばり、下半身に下がっていく血液を押し戻すために腹筋を使って最大限に息を詰め、短い呼吸を繰り返す。体にのしかかってくるGに耐えながら、目を皿のようにして相手の姿を追い続ける。
HUDに表示された照準点は細かくぶれながらも対抗機の機影に追いすがっている。あと少しでロックオンだ……! 反対方向からはジッパーが追い込んでくる。
俺たちを振りきろうと、機体を捻って翼端から細く雲を曳きながら更に降下しようとする対抗機。ロックオンまであとわずか――。
「ジッパー、前に出て相手を押さえろ!」
詰めていた息を押し出すようにしてとっさにウイングマンに指示を飛ばす。そして次の言葉を継ごうと再び短くマスクの酸素を吸い込んだ時。
突然、俺は激しくむせ返った。気管に唾が転がり込んだのだ。力みが解けて一気に頭から血が下がる。その瞬間がまるでスローモーションのように空恐ろしいほどありありと感じ取れた。
――しまった……!
反射的にそう思うのと、目の前が一瞬で真っ暗になるのは同時だった――。