引っかかる日(2)
駐機場に出て自分にアサインされた機の前まで来た俺は、口を開けたまま機体を見上げて言葉もなく立ち竦んでいた。その横で、機付長の皆川3曹と磯貝士長、もうひとりの新入り整備員が期待を込めた眼差しで俺を見つめている。
目の前の巨大なF-15が光り輝いていた。
――文字どおり、曇天の中でもまさに輝いているのだ。全体がキャノピーかと思われるくらい光っている。
恐る恐る空気取り入れ口の側面に手を当ててみる。手袋をはめた掌の下で機体の表面がつるりと滑った。
「皆川3曹、これ……」
「はい! この土日を利用して、ワックスを使って完璧に磨き上げておきました」
「……ワックス……」
俺は愕然としたまま何度か唾を飲み込んだ。頭を必死にフル回転させようと頑張る。愛機を隅から隅まで磨き上げて充実感と達成感に満ち満ちている熱心な整備員たちに、一体どううまく伝えたらいいだろう?
俺はつっかえつっかえ、唸るように言葉を捻り出した。
「……ここまで綺麗にしてくれたのにこんなこと言うのは本当に申し訳ないんだけど、ワックスだけは……やらないでおいてもらえるとありがたいんだ」
「えっ……?」
3人の整備員の表情が固まった。
「上空で光っちゃうと、その分遠くからでも相手に見つかりやすくなるから……できる限り光らせないでおいて欲しいんだ」
機付長の顔が一瞬にして青くなった。
「そ、そうだったんですね……いや、そうですよね! す、すみませんっ! あの……今から落とせる分だけでもワックス落としましょうか!?」
「いや、時間もないし今回は訓練に使うだけだから――今日のところはもうこれでいいから。次から、よろしく頼みます」
「すみません!」
真面目な機付長はすっかり動転して平謝りしている。
この表面積のある機体を隅々までピカピカに仕上げるのに、一体どれだけの時間と何缶のワックスを使ったことだろう。ワックスを買うのだって当然自腹のはずだ。休日返上で肌寒い格納庫に籠って自分の愛機を一生懸命に磨いている姿を想像すると、彼らの熱意にひたすら頭が下がる思いがする。
ただ、戦闘機であることを考えると、やはり光ってしまってはどうしても都合が悪いのだ。
うろたえている機付長をなだめつつ、時間も迫っているので俺は急いでコクピットに乗り込んだ。
下ではイヤーマフをつけた新人整備員の1士が駆けてきて、機体の正面に立った。今日は彼がノーズ・ポジションを担当するらしい。初めてのことなのか、まだほとんど経験がないのか、緊張した面持ちで待機している。今一つ自信がなさそうな様子だ。いつもなら後輩たちにしっかり目を配っている機付長も、さっきの今ではさすがにまだワックス・ショックから立ち直ってはいないだろうから、なおさら今日は心許なく感じられる。
それでも俺は気を取り直し、コクピットの外に手を出して指を1本立てて示すと、エンジン・マスタースイッチとジェット燃料スタータのスイッチをオンにした。次に指を2本に変え、スロットルについたフィンガーリフトを上げる。スタータのけたたましい回転音が響き始めた。やがてメインエンジンに火が入り、F-15特有のこもったような唸りが次第に高まってゆく。
左右のエンジンを始動させ、コンソールの計器類のひとつひとつに目を走らせる。各システムの作動は正常。航法機器の調整完了。
計器類の動作確認に続き、フラップや垂直尾翼、水平尾翼などのチェックへと続く。案の定、新米1士はチェック項目の順番を間違えてまごつくことが何度かあった――が、俺はそんな些細なことでイラついたりは決してしない。努めて平常心、平常心だ……。
ジッパーとマルコに地上滑走前のチェックが終わっていることを無線で確認すると、俺は軽く掲げた左手を前に押し出すように動かし、整備員たちにタクシーアウトを合図した。新人整備員が両腕を上げ、それをまだ慣れない様子で規則的に動かしながら後ずさって道を開ける。
踏み込んでいたブレーキペダルを僅かに緩めると、機体はゆっくりと動き出した。敬礼で自分たちの愛機と操縦者を送り出す機付整備員たちに答礼し、ジッパーとマルコの機を後ろに従えて滑走路へと向かう。
滑走路手前で整備員による最終確認――ラスト・チャンスを終えると、管制塔からの許可を受けて滑走路に進入した。その後にジッパーが続く。俺の斜め後方に位置を取るのを待つ間、ふと気配を感じて振り向いた。
誘導路上で待機しているマルコがコクピットの中から俺に向かって手を振っている。そしてこちらに向けたひとさし指をぐるりと大きく回し、次に両手を頭の脇でひらひらさせながら指も一緒に動かした。ヘルメットのバイザーを下げているのでその表情はまったく見えなかったが、それでもニヤニヤと笑っている様が明らかに伝わってきた。どうせ、「先輩、見事にピカピカ光ってますよ!」とでも言いたいのだろう。
マルコの奴め――苦々しく思いながら顔を戻すと、左右のスロットルをアフターバーナー無しの最大出力まで交互に押し出し、計器が指示する数値に異常がないか確認する。
離陸準備完了のコールを管制塔に告げようとした時、一息早く管制塔から呼び出された。
『エンジョイ19、離陸スタンバイ。フォロミー車、滑走路内に鳥駆除入ります』
俺は緩めようとしていたブレーキを再び強く踏み込んだ。運動会のリレーでフライングしかけた子どものように機体ががくんと前にのめる。何となく出鼻を挫かれた気分だ。
ああ、もう……。
俺は思わず心の中で悪態をついた。
突然のフライトアサイン、光り輝く戦闘機、離陸直前のスタンバイ――こういう、なにかにつけて「引っかかる日」というのがたまにある。ひとつひとつの物事が流れるように進まないのだ。
げんなりしながら自分の目の前にまっすぐに伸びている滑走路の上空に目をやると、デパーチャーエンドのあたりの高いところをトンビが1羽悠然と円を描きながら舞っていた。ちょうど離陸して急上昇に移るあたりで派手にぶつかりそうな位置だ。
これがカラスなら問題ない。頭のいいカラスはちゃんと周りを見ているので、飛行機が来れば素早くよける。
それに対してトンビは獲物を探して下ばかり向いて飛んでいるので、巨大な金属の塊が轟音とともに近づいてきてもまったく気づかないまま、一瞬でお陀仏になってしまうのだ。飛行機に比べたら大した大きさではないが、高速でぶつかればF-15の機体の表面をぼっこり凹ませるだけの威力はある。エンジンに吸い込もうものなら大変だ。衝撃でファンブレードが何枚も折れ曲がったエンジンから焦げ臭いにおいを立ち昇らせ、空気取り入れ口のあちこちに羽根と血と肉をこびりつかせて戻ってきた機体を整備員たちが苦り切った顔で出迎えるなんていうこともたまにある。
正面を見ていると、滑走路の奥に1台の車が勢いよく走りこんできた。ルーフに赤色灯を点けたオリーブグリーン色のランドクルーザーは飛行場勤務隊の誘導車だ。車は過走帯に停まると、中から猟銃を持った隊員が飛び出してきた。長い銃身をトンビに向け、派手な音の出る鳥威弾を撃っている。数発目でようやくトンビは気がついたと見えて、羽ばたきしながら慌てて飛び去っていった。
鳥の駆除を終えたランドクルーザーが大急ぎで誘導路に出るや否や、管制塔から再び無線が入る。
『エンジョイ19、離陸許可する。風は40度方向より7ノット』
「エンジョイ19、離陸許可了解」
管制指示を復唱し、今度こそブレーキを離した。同時にスロットルを80パーセントの位置まで押し進め、更に出力を上げる。ドン、という衝撃とともにアフターバーナーに着火。機体はみるみる加速してゆく。
空気を容赦なく引き裂くような爆音と共に機は離陸した。空一面を覆っている灰色の乱層雲を一瞬で突き抜けると、そこは一切の濁りのない青空が広がっている。濃いスモークのかかったバイザーを下ろしていても、強烈な日差しが目を射ってくる。
後続で上がったジッパー機が雲海を抜けて姿を現した。急上昇させていた機体を翻して一度背面にし、緩くかかっていたGを抜いて高度を抑えると、旋回しながら待機していた俺の斜め後ろについた。
続いてマルコが上がってくる。
『21、離陸完了。ジョインアップする』
マルコは無線でそう伝えてくると、俺の後方上空に位置を取った。
俺たちの編隊は百里管制塔の管制を離れると、雲海を見下ろしながら3機でまとまって洋上の訓練空域に向かった。