着隊
「先輩、お願いしておいた電子戦の資料、まとめておいてもらえました?」
「あっ」
その短い一言で「やってません」ということを図らずも暴露した相手を前に、声をかけたジッパーは盛大に顔をしかめて「ああ、やっぱり……!」と唸るとがっくりとうなだれた。
ジッパーを呻かせた人物、それが数日前に305飛行隊に着隊した「リバー」――利根1尉だった。
机に向かっていたリバーは、何かの書類に記入していた手を止めると気まずいような顔になって頭を掻きつつ、横に立っているジッパーを申し訳なさそうに見上げた。
「ごめん、忘れてた……」
「もう頼みますよ、先輩! 来て早々のお願いなのは申し訳ないとは思いますけど」
「ジッパー、やっておいてくれてもいいよ?」
気合の入らない笑顔をジッパーに向けて、とぼけた声でリバーが言う。ジッパーは苦り切った表情のまま切羽詰まったように早口で畳みかけた。
「俺ができるならやりますけどね、先輩しか詳しいことは分からないんですから! 去年担当していた若い奴は入校中でいないし! 3日後にはブリーフィングしなくちゃならないんですから、絶対に明後日の朝までにはお願いしますよ!」
「うん、分かった分かった、やっとくよ」
「今度は本当に忘れないで下さいよ!」
リバーは「大丈夫大丈夫、今度はちゃんとやっとくから」と請け合いながらニコニコしている。俺の5期上ということだったから、まだ31歳かそこらのはずだ。それなのに、この何日間かのジッパーとのやり取りを見ていると、何と言うか――「のんびりとひなたぼっこをしている人の善さそうなおじいちゃん」といった感じがして仕方ないのだ。
平素の態度からは考えられないほどジッパーが慕い、俺もまた着隊を待ち望んでいた師匠というのは、とにかく万事こんな具合だった。
『本日付で第13飛行教育団よりこの第7航空団に着隊しました利根1尉です。第305飛行隊には今回で2度目の配置となります。古巣に戻り心機一転、任務遂行に邁進する所存ですので、よろしくお願いします』
司令部と飛行群、整備補給群、基地業務群から成る7空団に所属する隊員たちが一堂に集まって行う団朝礼で、転入幹部紹介の時に利根1尉はそれなりに歯切れよく挨拶してはいた。
しかし、飛行隊に戻ってきて、飛行班の隊員たちの前で改めて紹介されると、どうも印象が違っていた。
『リバーは生粋の305育ちだ。若い者たちは色々刺激を受けることができるだろう。リバー、うちの若い奴らをよく引っ張ってやってくれ』
絶大な信頼を感じさせる口調で飛行班長のパールが皆の前でそう紹介するのを、俺はイメージギャップに当惑しながら聞いていた。班長に期待感あふれる言葉をかけられて照れくさそうに苦笑しているリバーを見ていると、「生粋の305育ち」という割には雰囲気がほのぼのと――というより、のほほんとしているように感じるのだ。
いやでも、もしかしたら――実は以前はとてつもない切れ者だったのかもしれない。それが3年間も教育集団という「ぬるま湯」に浸かっていたことですっかりなまくらになってしまったとか……?
あのジッパーが敬愛するくらいだから、研ぎ澄まされた日本刀のような切れと鋭さのある人物かと勝手に想像を巡らせていたが、刃物なんかに例えるよりも、心地良いリラックス感を約束する低反発クッションに例えたほうがよっぽどぴったりくる気がする。
それでも、そんな緩い雰囲気のリバーを前にしても、ジッパーはいつもどおりの不愛想な態度を装いつつも目を爛々と光らせて嬉しそうにしていたし、班長は「お前が戻ってきてくれて何よりだ。これで305も安泰だな」と節の太い掌でリバーの背中を力強く叩いていた。
それなら――見た目はヤワでも、ひょっとしたらよっぽどフライトが凄いのかもしれないと俺は考えなおし、すっかり肩透かしをくらってがっかりしそうになる気分をどうにか奮い立たせた。
フライトのセンスは一緒に飛べばすぐに分かるが、長く教育集団にいて練習機にしか乗っていなかったリバーはまだF-15の技量回復訓練中だ。俺が取り組んでいる2機編隊長練成訓練に入ることはできない。
でも、それとなくディブリの様子などを窺ってみても、リバーが素晴らしい技量を持っているようには見えないのだ。
「ここが甘いです――この時の旋回に入るのが遅すぎます――ここはもっと引かないと駄目です。この動きだとウイングマンがもたついてうまく入れません」
ディブリーフィングではジッパーから容赦ないダメ出しを受けている。リバーは顰めっ面で自分自身に対するもどかしさを滲ませながら、ジッパーの講評を神妙に聞いている。
「うう……情けないなぁ」
ジッパーからの指摘が一通り終わると、リバーは手にしていた鉛筆を机の上に放りやってぼそぼそと頭を掻いた。
「久しぶり過ぎてGはキツいし、頭では分かってるのになぁ。すっかりなまっちゃって体が言うことを聞いてくれないよ……」
がっくりと肩を落としてそう嘆く。
その向かいの席で、アクリル板の上に書き殴った機動図を水で濡らしたスポンジできれいに拭き取りながら、ジッパーが事もなさそうにきっぱりと応じた。
「大丈夫です、先輩。すぐに勘は戻りますよ。俺が鍛え直してあげますから」
そう言う後輩を嬉しそうに見やり、リバーは困った顔をしながらもどこかのんびりとした様子で、「頼もしいなぁ、ジッパー」と安心しきっているような感想を述べた。
ううむ――俺は唸るしかなかった。
分からない。どうにも分からない。
リバーというこの先輩、ジッパーなら真っ先に見切りをつけて見下しそうなタイプだ。
何事にもストイックなまでに厳格さを求めるジッパーが、あんなにちゃらんぽらんそうな――というのはさすがに口には出せないが――リバーを尊敬するというのがどうしても理解できない。
確かに人柄は悪くなさそうだ。ジッパーに対してだけでなく、飛行班の他の同僚に対しても同じように人当たりはいいし、フライトの時にはリバーの姿を見つけた整備小隊の整備員たちが駆け寄って来て、「リバーさん、お帰りなさい! 待ってましたよ!」と口々に言って帰還を喜ぶ光景が見られた。
ジッパーのリバー愛とは比べ物にはならないものの、他の人間もこの教育集団帰りのパイロットを慕っているようだ。
人は善いのだろう――が、戦闘機乗りとしての鋭さとか勢いとかいった、気迫のようなものが決定的に足りないような気がしてならない。
だから俺は、ジッパーと更衣室で一緒になった時に思い切って尋ねてみた。
「どうも腑に落ちないんですけど……」
遠慮がちに切り出してみる。
「ジッパー先輩がどうしてリバーさんをそこまで慕っているのかが不思議で――」
フライトを終えて汗に濡れたシャツを着替えようと自分のロッカーの中を探っていたジッパーは、驚いたようにその手を止めて俺を見ると目を見開いた。
「お前、リバーの凄さが分からないのか?」
「はい。よく分からないです」
俺は素直に頷いた。
ジッパーは唇を引き結んだまま眼光鋭いその目をしばらくじいっと俺に当てていたが、結局何も言わずにふいと視線を外すと再び手を動かして新しいシャツを引っ張り出した。そしてそっけなく言う。
「まあ、まだ仕方ないだろうな。でも何を凄いと考えるかは人それぞれ違うからな。俺はお前にリバーの凄さを説いて無理に尊敬しろと言うつもりはない」
あっさりはぐらかされた。
結局、自分で見極めろということか。ううむ……。