リバー
昼時を迎えた飛行場は、いつものように騒々しかった。高く澄んだ空に耳をつんざくような轟音が響き渡っている。
滑走路上では、訓練空域から帰投してきた偵察航空隊のRF-4が次々に連続離着陸訓練を始めたところだった。見るからにタフそうな寸胴の機体はいったん接地してからすぐさままた機首を引き起こし、離陸の態勢を取って前輪を宙に浮かせる。再び出力を上げた迷彩柄の偵察戦闘機は空気を引き裂くようなエンジン音を轟かせ、秋晴れの空に向かって飛び立っていった。
一方、飛行場地区の一番北側にある救難隊の駐機場奥では、救助ヘリのUH-60が吊り上げ訓練を行っているようだった。同じ位置に静止してホバリングしているのだろう、ローターが空気を叩くバラバラという重いフラップ音が音の高さを変えることなくずっと基地に響き渡っている。
午後からのサードピリオドに今日2回目のフライトが入っている俺は、朝一発目を飛び終えて上空から戻ってくるとすぐに自転車を飛ばして幹部食堂に乗りつけた。足早に入口の階段を駆け上がり食堂のドアを開ける。食欲をそそる甘辛いにおいが中から一気にあふれてきた。
11時を少し過ぎたばかりのこの時間、広い食堂の中に人はまだまばらだった。それでも、勤務の都合で早飯をしなければならない隊員のために既に食事の準備はしっかり整えられている。
白衣を着た給養班の隊員たちが料理ごとに盛りつけて配膳カウンターの向こうから差し出す皿を一通り自分のトレーの上に乗せると、手近な席に着き大急ぎで昼飯をかきこむ。
今日のメニューは皿からはみ出している大きさの豚肉生姜焼き3枚に付け合わせの山盛り千切りキャベツ、酢の物と小豆入りのカボチャの煮物、そしててんこ盛りにしたご飯に味噌汁だった。これを10分とかからず胃に収める。
早食いが美徳とされている自衛隊、のんびり優雅にランチタイムを楽しもうとすれば冷たい視線に晒される。毎食こんな慌ただしい食べ方をしていると、食事は「楽しむもの」というより「栄養を摂取するためのもの」という感覚に近くなってくる。
航空機の搭乗員や救難隊の救難員に追加で支給される加給食――今日はバランス栄養食のクリームサンドクッキーが1袋だった――は後で小腹が空いた時に食べることにしてポケットにねじ込むと、俺は再び自転車を走らせ急いで飛行隊の建物に戻った。サードピリオドで上がる前に、ファーストで行ったフライトの機動解析だけでも先に終わらせておきたい。
1回目のフライトの画像と音声を記録したビデオテープを片手に、自分の机の上を漁ってノートと筆記用具を探していた時だった。
俺の2つ向こうの席で、業務連絡や一般命令、日日命令などの文書を回覧するバインダーに目を落としていたジッパーがふと呟いた。
「……リバーが帰ってくる――」
つい漏れたような独り言に何気なく顔を上げた俺は、目を疑って思わずもう一度見返してしまった。いつも真横に引き結ばれているジッパーの薄い唇の端が微かに上がっている。常日頃不愛想な顔をしているジッパーにしては、何というかとても――嬉しそうな顔をしていたのだ。
俺の姿に気づくと、ジッパーは普段の表情に戻ってこちらを一瞥した。そして、バインダーに添えられた回覧済みの印を押す紙片にさっと目を通して俺の欄にサインがないのを確認すると、「ほら」と言ってそれを俺に突き出した。
「お前、入間の航空祭の地上展示支援メンバーにアサインされてたぞ」
俺が回覧を受け取るとジッパーは席を立ち、そのまま総括班に入っていった。
バインダーの一番上には、ジッパーが言っていた航空祭の支援に関する一般命令が綴じられていた。『入間基地航空祭における地上展示機支援要員に命ずる』として俺とアディーの名前が挙がっていた。
地上展示の支援なら気を遣わなくていい。飛行展示をするわけではないから事前の打ち合わせも予行も必要ない。埼玉にある入間基地ならすぐ近くだし、前日にF-15を入間まで持って行って整備員に渡し、イベントの最中はぶらぶら過ごして航空祭が終わったら持って帰ってくればいいだけだから気楽なものだ。
そんなことより――俺は何枚か一緒に挟まれている書類をめくっていった――ジッパーの嬉しげな表情の理由が何だったのか気になる。
数枚の書類のうちの一枚、余白が目立つA4の紙に2行ほどの文が短く書かれた文書で手を止めた。ジッパーが見ていたものだ。人事異動の個別命令だった。
『10月15日付で第7航空団第305飛行隊勤務を命ずる (第13飛行教育団 飛行教育群) 1等空尉 利根正俊』
利根1尉――ジッパーが呟いた「リバー」というのがこの人のタックネームなのだろう。航学の5期か6期上くらいの先輩でそんな名前を聞いたことがあったような気もしたが、面識はない人だ。
13教団といえば、福岡県にある、日本海は玄界灘に面した芦屋基地に入っている部隊だ。T-1ジェット練習機を使って操縦学生の訓練を担当している。
1尉の階級で飛行操縦課程の教官の経験をしているということは、きっとマルRだ。
現場の部隊にいる2尉や1尉の若手が2年間程度の期限付きで教育部隊に行かされることを「マルR」と言っている。飛行操縦学生たちに、第一線の部隊で任務にあたっている歳の近い先輩たちに触れさせることでプラスの刺激を与えようという意図があるらしい。
ジッパーの呟きから考えると、今度の異動でやってくる人物は教育部隊で数年間教官を務めた後、元々所属していた部隊であるこの305に戻ってくるということに違いない。俺がここに配属された3年前にはもう姿はなかったので、何かの事情で普通よりも長く教育集団にいたのだろう。
それにしても、この辞令を見てから不愛想なジッパーが気味の悪いほどソワソワしだしたように思える。
それとなく窺っていると、総括班から持ち出したテプラを自分の机に据えて何か作業をしはじめた。大小様々な大きさの「RIV」というシールを作り、フライト現況板やロッカーなどに貼り付けるマグネットシートを作っているのだ。
飛行隊では各々の名前を表示する時にタックネームをアルファベット3文字に略したものを頻繁に使う。俺のタックネームのイナゾーだと「INZ」と書かれるし、アディーの場合なら「ADY」という訳だ。
今、ジッパーは「RIV」と印字された何枚ものシールをせっせとマグネットシートに貼り付けて慎重にカッターで切り取っていた。
ネームプレートを作り終えてからも、ジッパーは総括班に出入りしては新たな着隊者を迎える準備に余念がない。雑多な書類置き場と化していた空き机の上を片付け、引き出しの中まできれいに水拭きしてリバーの席を準備したり、官舎の手配状況を確認したり、部屋の鍵の預かり役を買って出ている。
いつもであれば総括班の人間や下っ端組がやる仕事にひとりで黙々と取り組んでいる。あまりに細々と雑用をやっているものだから、俺は機動解析をしつつも、ジッパーが横を通りかかった時に一応声をかけてみた。
「先輩、何か手伝いましょうか?」
「いいからお前は自分のことをやっとけ」
煩わしそうにそう言われ、無下に断られた。リバーを迎える準備をとにかく自分の手で粛々と整えたいようだった。その様子から推察するに、ジッパーは今度来る人物のことを相当慕っているようだ。
スカッと晴れた秋空から突然雹が降ってくるのではないかとつい窓の外を確認してしまいそうになる。気象隊に行って天気を確認してきた方がいいのではないかと思うほど、ジッパーにしては奇特で意外な行動だった。
たとえ相手が自分の先輩であったとしても、尊敬できなければそれをあからさまに態度にも出し、納得がいかなかったら躊躇なく真顔で言い負かしにかかるのがジッパーだ。それこそがタックネームの由来でもある。
そもそも、ウイングマン時代は「チャック」と呼ばれていたそうだ。というのも、まだペーペーの曹長で305に配属されてすぐの頃に、何かと後輩たちに厄介事を押し付けておいて自分では泥を被ろうとしなかった9期も上の先輩に食ってかかり、正論を述べ立てて論破したらしい。その時に相手の先輩が「お前いちいちうるせぇんだよ! 口にチャックでもして黙っとけ!」と吐き捨てたセリフから最初のタックネームが採用されたという伝説的なエピソードの持ち主だ。
その後、2機編隊長の資格を取り一人前とみなされるようになった時、あえてチャックの別名である「ジッパー」をタックネームとして自ら選んだということだ。
この話はジッパー本人から直接聞いた訳ではなく、宴会の時に周りの先輩たちが諦めと呆れ顔で語っていたことなのだが――リーダーになって自分で決めたタックネームを披露する時の、偏屈で一匹狼然としたジッパーのニヤリ笑いが浮かぶようだ。
諸先輩にしてみたら、こんな可愛げのない後輩はいないだろう。もし俺の下にジッパーのような後輩がいたら扱いに頭を悩ませることは間違いない。誰だって「先輩、先輩」と懐いて声をかけてくる後輩の方が可愛く思えるに決まっている。
しかも、ジッパーは一度「こいつはダメだ」と見限った人間に対しては、それが先輩であろうが後輩であろうが憚ることなく見下した態度を取るものだから、当然周りからの受けはよろしくない。
フライトのセンスは抜群に優れていて、F-15でそんな機動ができるのかというような驚異的な動きを格闘戦の最中に見せることもあるが、こと社交性の話になると「ジッパー? あいつはなぁ……」と上の期の人たちは難しい顔をするし、後輩たちは「ジッパー先輩はちょっと……苦手っす」と首を竦めて遠慮がちにもそう言う方が断然に多い。
人間関係にそつがなく――この間のマダム騒動の件は別にして――フライトのセンスもあるアディーのことさえ、ジッパーは気に食わないらしい。「真剣味が足りない軟派な奴」と思っているような節がある。それが相手にも伝わるから、あまり他人に対してマイナスの評価を口にしないアディーでさえも、「あの先輩と組むと緊張する」と控え目な表現ながらもちらりとこぼしたことがあるくらいだった。
自分に対しても他人に対しても妥協のない厳しさを求めるそのジッパーが一目置き、ここまで305への帰還を待ち望むほどの人物というのは、いったいどんな素晴らしい人格者なんだろう。どれだけ凄いフライトの技術を持っているんだろうか。
ジッパーが師と仰ぐ相手なら俺もぜひ弟弟子として大師匠の下で修業を積み、一癖も二癖もある気難しい人間からこんなにも慕われるリーダーの技を盗みたい――そう思って着隊を心待ちにしていた。
そう。
ジッパー同様、俺も期待に満ち満ちて、まだ見ぬ「リバー」がこの305に帰還するのを待っていたのだった――が……。