騒動の後(2)
静まり返った真っ暗な部屋の中で、枕元に置いた目覚まし時計の秒針の音が妙に大きく聞こえていた。
毛布から手を出して、時計の頭についたスイッチをそっと押す。文字盤を小さなライトが照らし、時刻は真夜中の2時を過ぎていることが分かった。
目が冴えて未だに眠れない。朝からまたフライトが入っているのに、これでは寝不足決定だ。頭が働かずにヘマをやらかして、また先輩たちにけちょんけちょんにこき下ろされるのは間違いない。ディブリのことまで考えて、ついつい大きな溜め息が出た。
アディーのベッドがある向かいの壁際の方から、時折寝返りを打つ気配が伝わってきた。きっとアディーもまだ眠れずにいるのだろう。
気持ちがだんだんと鎮まってきてから、俺は一連の騒動を最初から思い返していた。
「女に恨みがあるんじゃないか」と腹立ちまぎれの勢いに任せて俺がそう言い放った時の、アディーの強張った険しい顔が頭に浮かんだ。
同期60人、入隊してから寝食を共にしつつ訓練に励む中で色々といざこざは起こったし、険悪な雰囲気になったこともあった。でも、そういう時でさえアディーがあんな厳しい顔つきをしたのは見たことがない。
今までずっと繰り返してきた浮ついた女遊び、見切りをつけた女に対するあそこまで冷淡な態度――仕事の面だけについて言えば至って緻密かつ几帳面でフライトのセンスもあるアディーだが、女関係のことになると「もうちょっと真っ当になれよ……」と呆れて思わず説教したくなるような素行は、あいつと知り合ってからだけでも数知れずだ。
――その原因となっているものを、俺のさっきの言葉がまさに言い当てていたとしたら? 女に対するあいつの無責任で突き放した考え方が、何か、あいつの人生にずっと影を落とすような重苦しい思い出に因るものだったとしたら……?
何気なくそう思い至った途端、毛布にくるまったままの俺は自分の胃の中が冷たくなるのを感じた――もしや、俺はまたやらかしてしまったのかも……。
しつこくくすぶっていた憤りは一瞬で跡形もなく消え去った。
あの時、俺は触れてはいけないことを口にしてしまったのかもしれない。言い過ぎないように自分なりに自制心を働かせたつもりだったが、そんなものはただの虚しい自己満足でしかなかったのかも……。
きっと何かあったんだ。あいつにとっては触れられたくない記憶を、俺は無遠慮にほじくり返してしまったんだ……。
一度口にしてしまったことはどんなに憂えても後の祭りだ。今更ながら後悔に歯噛みする思いだ。いっそのこと自分を殴りたい。
もしこの最悪の雰囲気のまま、万が一にどちらかが事故でも起こして死に別れるようなことがあったらどうする? 俺とアディーのどちらが残ったとしても、死んだ同期に対する後ろめたさと解消しようのない後悔を引きずったままその後の人生を送っていかなければならないのだ。俺はそんな後悔のある人生なんて真っ平だし、色々と世話になってきたアディーに後腐れのある思いを遺して死ぬのも嫌だ。
そんなことをひたすら堂々巡りで考えながら、何時間過ぎたことだろう。
外はまだ暗いようだったが、「チュイッ、チュイッ……」とスズメの囀りが聞こえていた。山鳩もどこか近くで低い声を転がすように鳴いている。時計を見ると目覚ましをセットした6時にはまだ少し早かった。
アディーはもう起き出して支度を始めたらしい。部屋の灯りは点いていなかったが、動き回る気配がしていた。
夜通し何時間も悶々とした末、俺はとうとう意を決した。ガバッっと毛布を蹴って跳ね起きた。
「おはよう!」
「……おはよう」
自分のロッカーの前でフライトスーツの袖に腕を通していたアディーは無表情でちらりとこちらを見たが、冷淡にぼそりと挨拶を返して寄越すとすぐに目を逸らせた。
だが俺は構わなかった。ベッドに腰かけてしゃんと背を伸ばすと、素っ気ない態度の同期に向かって言った。
「アディー、昨日は悪かった」
自分の気持ちを間違いなくそのまま伝えられるよう、考え考え言葉を続けた。
「余計なことまで言っちまったかもしれないけど――お前のことを本気で心配してる人間がいるってことだけ、ほんの少しでもいいから気に留めといて欲しいんだ」
アディーは着替えをする手を止めてじっと俺を見ていたが、やがて小さく頷いて口を開いた。
「……俺も昨日、お前に言われたことを色々と考えたよ――確かに不義理だったよ。自分でもよく分かってるんだけどな……」
ワックスがかけられて鈍く光っているリノリウム張りの床に目を落としながら、自戒めいて呟くようにそう言ったアディーは、顔を上げると俺に目を向けて申し訳なさそうに小さく笑った。
「心配かけてごめん」
「頼むから、後ろから刺されたなんてことにだけはならないでくれよ」
俺は真顔を作って大袈裟にそう念を押した。アディーはいつものように屈託のない笑顔を見せると、「気をつけるよ」と請け合った。
よし! これで仲直りだ。
俺は寝不足にもかかわらず晴れ晴れとした気分でベッドから立ち上がった。やっぱり、いつまでもぎすぎすしているのは気分も悪いし性に合わない。
昨日の夜に机に叩きつけていたノートやファイルをヘルメットバッグにしまって出勤準備をしているアディーの様子にも、一晩中続いた緊張状態が解けてほっとしているような雰囲気が窺えた。
アディーの女性関係は、これから少しは変わるだろうか……?
何とはなしにそんなことを考えながら自分のロッカーを開ける。ハンガーに掛かったフライトスーツを取り出した俺の頭に、突如名案が閃いた。
自分でも上出来と思えるくらいの意外な発想だ。灯台下暗しとはこのことだった!
俺は嬉々として後ろを振り返った。
「今思いついたんだけど」
アディーが何事かと手を止めて怪訝そうに顔を上げる。
「お前、マダムからは足を洗って、モッちゃんなんてどうだ?」
「モッちゃん?!」
アディーは素っ頓狂な声を上げた。俺は自信を見せて大きく頷いた。
「あの肝っ玉母ちゃん的な懐の深さなら、きっと迷えるお前をがっちり受け止めてくれるはずだと思うぞ。胸は小さそうだけど」
アディーは俺をまじまじと見た後、何とも言えない曖昧な表情になって額に手をやり、そのまま無造作に髪を掻きむしった。
「まったく――ほんとに得な性格してるよな、お前は」
「そうか?」
何を褒められたのか良くは分からないが、とにかくこの思いつきは我ながら名案だと思う。いつも髪と年齢のことで応酬しているアディーとモッちゃんだ。『喧嘩するほど仲がいい』と言うではないか。なかなかぴったりな取り合わせに違いない。よし、これからはこの線で押していこう。
「余計なことしないでくれよ」と困り顔で呟くアディーに一応は頷いておいて、俺は大きなあくびをひとつするとうんと伸びをしながら喚いた。
「ああもう、昨日はおかげで一睡もできなかったぞ!」
「その割には、いびきが聞こえてきた時もあったけど?」
「とにかく酷い寝不足だ」
「俺も」
アディーは苦笑しながら同意し、改めて気を取り直したように続けた。
「今日一日、気をつけていこうぜ」
「おう!」
起床ラッパが鳴り響くと同時にけたたましく鳴り始めた目覚まし時計を止めて、支度を整えた俺とアディーは連れ立って早々と部屋を出た。そしてうっすらと朝焼けの残る空の下、まだ人もまばらな基地の大通りを幹部食堂へ向かって自転車を走らせたのだった。
(第2章 了)