マダム来襲(3)
マダムは何度かよろめいてブリーフィング用の回転椅子にぶつかりながら、アディーを見据えて猛然と突進してきた。
酒に酔って突如職場に乱入してきた自分の彼女に、アディーはさぞや大慌てで取り乱すに違いない――そう確信していた俺の予想は、しかし完全に裏切られた。
女を認めたアディーの顔から、いつもの人当たりのいい表情が消えた。そして、知った女に対する気安さも、その逆に戸惑いや焦りといった感情も一切ない、冷めた声で短く言った。
「何しに来たの。今、仕事中だけど」
その声に表れているのは、プライベートとは完全に区切りをつけている職場に押しかけられたことに対する不愉快さだけだった。彼女とはまったく繋がりのない俺でさえ、傍で聞いていて「ちょっとくらいリアクション見せてやれよ」と思ってしまうほど突き放した言い方だった。
マダムは血走った大きな目を更に見開いた。眉間に皺が寄り、きれいに描かれた眉がいっそう吊り上がる。わなわなと全身を震わせて一歩足を踏み出した彼女の右手が、不意に大きく宙を切った。
パンッ!
乾いた派手な音がオペレーションルームに響いた。
アディーの頬を平手打ちしたマダムが、食いつきそうな勢いで叫んだ。
「このゲス男! 人を何だと思ってるのよ! 自分勝手に散々都合よく遊ぶだけ遊んでおいて、馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ! あんたなんか――あんたなんか、飛行機ごと落っこちて死ねばいい!」
その場にいた飛行班員全員の表情が一瞬凍りつき、オペレーションルームがしんと静まり返った。たとえ冗談であったとしても、それは絶対に口にしてはいけない言葉だった。
しかし、アディーだけは顔色を変えなかった。
「何でもいいけど――」
怒り出すわけでも宥めすかすわけでもなく、冷ややかな態度のままマダムを見下ろしている。
「『都合よく』っていうのは、お互い様じゃないかな。それに――職場なんかに来たら関係ない人にまで迷惑をかけるって、考えなかった?」
アディーの奴! 空気読め! そんなこと言ったら火に油を注ぐようなもんだろ!
俺はハラハラして心の中で突っ込みながら、アディーとマダムを交互に見つめた。
叩かれても詰られても平然としたままのアディーの態度に気をのまれたように、マダムは蒼白な顔で立ち尽くしていた。しかし、やがて一層激しくぶるぶると体を震わせ始めると、白かった顔に一気に血が昇り、今度は赤と白の斑のような顔色になった。目尻は更に吊り上がり、それはもう恐ろしい形相になっている。
これはいよいよナイフでも振りかざすか――俺は緊張して身構えた。
突然マダムが奇声を上げたかと思うと、一切のプライドをかなぐり捨てたように喚き叫びながらアディーに掴みかかった。
二人の周りで固唾を飲んで成り行きを見守っていた隊長や総括班長、モッちゃん、俺、そして他の人間も、わっとばかりにマダムに殺到する。
聞くに堪えないような罵り文句を喚きながら、マダムは手にしたバッグをめちゃくちゃに振りまわし、何としてでもアディーに詰め寄ろうとする。
マニキュアを塗った長い爪が力任せに俺の手の甲をひっかいた。バッグが勢いよく飛んできて、被せについた金具に鼻を直撃されて目から火花が散る。
手加減なしに渾身の力で暴れるマダムの一撃を食らって、押さえにかかっている男たちの間から「ぐえっ!」「イタタ……」と呻く声が上がる。
「アディー、いいからお前は向こうに行ってろ!」
上を下への大騒ぎの中で、飛行班長の濁声が飛ぶ。
怒鳴り声と金切り声が入り乱れ、凶暴な酔っ払い女ひとりを相手に何人もの男たちが団子状態になって揉みあっていた。
が――突然マダムが目を剥いて喘ぐように口をパクパクさせたかと思うと、いきなり体を硬直させて痙攣しながら後ろに倒れかかった。背後にいた隊長が慌てて抱きとめる。
昏倒したマダムを抱えて床に寝かせようと屈みこんだ隊長は、電話の近くで拳を握りしめ身を乗り出すようにして見物しているハスキーに怒鳴った。
「おい、救急車だ! ハスキー、衛生隊に連絡しろ!」
「了解! 合点承知の助!」
こんな非常事態だというのに――もとい――こんな非常事態だからこそ、ゴシップ好きのハスキーは威勢のいい返事と共に嬉々として電話に飛びついた。
「もしもし、衛生隊? 305飛行隊の久保沢3佐です。至急アンビを! 女性客が隊員を殴りつけて倒れたんです――違う違う、倒れたのは女の方、酒に酔ってまして! いやいや、そうじゃなくて――とにかく早く来てくださいよ、飛行班の建物の方ですから!」
多分、電話を受けた衛生隊の当直は状況をまともに理解できなかっただろう。
少しして救急車がサイレンを響かせて飛行隊前に到着し、処置具の入ったバッグを抱えた衛生員と白衣姿の医官が駆け込んできた。
防衛医科大学を卒業したばかりなような若い医官は、人だかりの中央に寝かされた酒臭い部外者の女性患者に面食らっていた。それでも医者らしく血圧や脈拍を測ってから興奮による過呼吸と診断をつけると、「気休め程度の処置ですが……」と言いながら生理食塩水の点滴を施した。アルコールの血中濃度を下げるためらしい。俺も今度飲み過ぎた時にぜひやってもらいたいと思う。
この面倒な訪問客をどうするかについて隊長と医官とでしばらく検討していたが、結局、一般人で泥酔しているということもあり、とりあえず最寄りの町立病院に運び、そこで警察に連絡して引き渡し保護してもらおうという話になった。
衛生隊から病院に連絡を入れて調整をつけた後、ヒステリーによる過呼吸で目を回したマダムはモッちゃんと総括班長の付き添いの下、オリーブグリーン色をした衛生隊の救急車に乗せられて基地の外へと運ばれていった。
わさわさとして落ち着かない雰囲気の中で、当事者のアディーだけはむっつりとした煩わしそうな顔で、ストレッチャーに乗せられて運び出される自分の彼女を見送っていた。
「お前、いったい何をしたんだよ」
騒ぎが一段落したとはいえ、まだ興奮冷めやらない面々から口々に問いかけられ、アディーは「すみません、ご迷惑をおかけしました」と頭を下げて回っていた。
「アディー、これだぞ、これ!」と、ハスキーはオペレーションルームの入り口に掲げてある305飛行隊の信条『強・速・美・誠実』の「誠実」の文字をもっともらしく指さした。
怒り狂った女の凄まじさを目の前で見せつけられてすっかり怖気づいていたライズは、「アディー先輩、自分は先輩がもしかしたら刺されるんじゃないかと本気で思いました……」と青ざめた顔色で言い、飛行班長のパールは「聖人君子になれとは言わん。だが、恨まれるような人間にはなるな」と真顔で諫めていた。
俺はまさに荒れ狂う暴風雨をやり過ごした後のような脱力感と疲労感にどっぷりと浸かりつつ、変にテンションの上がった周りの人間がアディーを小突き回す様子をぼんやりと眺めていた。
アディーが刺されるかもしれないという心配は取り越し苦労だったかもしれないが、人が刺されるなんてことは――しかも長い付き合いの同期が目の前で刺されるなんていう事態は、想像であってさえ嫌なものだ。いくら自分たちが武器を手にして戦うことを目的とした集団であっても、人の命にかかわることに一般の人間より鈍感という訳では決してない。
ともかく――流血騒ぎにならなかったことだけは本当に何よりだ。マダムの爪に引っかかれた俺の手の甲には3本の筋になって血が滲んでいる。バッグの一撃を食らった鼻骨もズキズキと疼いて痛い。でもまあ、こんな程度で終わってつくづく良かった。
その後、アディーは隊長室で夜遅くまで説教を――というより、人の道について隊長からこんこんと諭されているようだった。
そして俺は、こんな騒ぎにまでなったからには同期としてひと言忠告しておいてやらねばなるまいと、アディーが宿舎に戻ってくるのを自分たちの居室で待ち構えていた。