マダム来襲(2)
ブランド物なのか、出入り口に現れたマダムは見るからに仕立ての良さそうな服を着ている。襟ぐりの大きく開いたタイトなワンピースにカーディガンを羽織り、どうやったらそんなので歩けるのかと思うほど細くて高さのあるヒールのパンプスを履いていた。片手には高級そうな小ぶりのバッグをだるそうな様子でぶら下げている。
きっと毎日念入りに手入れをしているのだろう、真っ直ぐでつやつやとした長い髪が、勝ち気そうに見える顔立ちを一層強調していた。
よくよく見れば30半ばは過ぎている感じだが、身綺麗にしているのでもっと若く見える。
さすが、アディーと付き合うだけあって美人で華があるな――。
ただ、今はどうしようもないほど酔っているうえに、顏はむっつりと強張り、目は完全に据わっていた。
マダムは支えようとするモッちゃんの手を払いのけながら、隊長と総括班長に促されて廊下を歩いてくる。本人はしゃんとしているつもりのようだが、高いヒールの靴を履いた足はおぼつかず、時折ガクッとなって足首を捩じりそうになっている。
夜とはいえまだ8時。平日のこんな時間にもうここまで酔っぱらっているというのは、一体どんな飲み方をしたんだ?
航空祭や基地のイベントなどが何もない今日この時間帯に、一般人の姿を――しかも酔っている女の姿をここで目にするのはとてつもない違和感があった。
そのマダムが俺の目の前を通り過ぎる。途端にムッとするような酒臭さと同時にきつい香水のにおいが鼻を衝いた。金曜の課業が終わると出かけていって日曜の午後に宿舎に戻ってくるアディーがここ最近一緒に連れて帰ってくるにおいだ。
4人はどやどやと隊長室に入っていった。と思うと、またすぐに隊長とモッちゃんが廊下に出てきた。
「中森3曹、濃い緑茶を持ってきてくれ。それから、アディーが戻ってきたら救装に足止めしておいて欲しい」
それだけ言って隊長は再び部屋に戻った。
救装、つまり救命装備室にいろということは、「姿を見せるな」ということだ。
俺はお茶の用意をしにラウンジに駆け込んできたモッちゃんを捕まえて尋ねた。
「一体何、あれは?」
「――いやあ……」
茶さじに山盛りにした茶葉を急須の中に放り込みながら歯切れ悪く言葉を濁すと、モッちゃんは一層困り顔になって大きな溜め息と一緒に呟いた。
「あの様子だと穏やかに済みそうにはないです」
抹茶のような色のお茶を珍客に出しに行った後、彼女はお盆を片付けると急いで自分の仕事場に戻っていった。後は帰ってくるアディーを引き止めておく大役が待っている。
隊長室の中では、隊長と総括班長がマダムの対応にあたっていた。部屋のドアは半開きのままだ。女性と密室に閉じこもる訳にもいかないので、隊長が敢えて開けたままにしておくようにモッちゃんに言ったのだろう。ラウンジにいても、中の声がそれなりに聞こえてくる。
最初のうちは普通にやりとりしているようだった。
しかしそのうちに、マダムの話し声のテンションが加速度的に上がり始めたかと思うと、ついに爆発したように怒鳴り始めた。
「だから、あんたたちに用はないの! 晃を出しなさいよ、晃を!」
「ですから、お話ししたとおり村上は今はまだフライト中ですので――」
「じゃあすぐに下ろしてここに呼んで! あんた隊長なんでしょ? 『下りてこい』って命令すればいいことでしょうが!」
「そういうものではないんです。とにかく、今すぐにここに呼ぶことはできないので、まずは事情をお聞かせいただきたいと――」
「これだから自衛隊は! 寄ってたかって都合の悪いことを隠そうとしてるんでしょ! 隠蔽体質なのよ、隠蔽体質! 裁判所に訴えてやる!」
「と、とにかく落ち着いてください。どうぞお茶でも飲んで……」
「あたしはね! お茶なんか飲みに来たんじゃないの! 晃と話しに来たの! グダグダ言ってないでさっさと晃を出しなさい!」
努めて冷静に穏やかな口調で取りなす隊長の声と、酔っ払い女の勢いに飲まれて押され気味の総括班長の上ずった声、そして男二人の言葉を掻き消す勢いで叫ぶヒステリックな金切り声が丸聞こえだ。
フライトがなくオペレーションルームに残っていた飛行班員たちも、喚き叫ぶ女の声を聞きつけて、互いに顔を見合わせながらこちらを窺っている。
「何だか……凄まじいですね……。女の人があんなに喚くの、初めて見ました……」
たまたまラウンジに居合わせた下っ端組数人の中で、真面目なライズが圧倒されたように隊長室のドアに目を向けたまま呟いた。
二十歳過ぎにしては初々しい発言だ。俺はライズを振り返った。
「お前、姉ちゃんか妹はいなかったっけ?」
「はい。弟だけです」
「それじゃあ知るはずないか――いいか、覚えとけ。女は敵に回すもんじゃないぞ」
何かにつけてキーキー喚いていた妹の優美の姿を思い浮かべながら、俺は男が知っておくべき重要な心得を教えてやった。
そう。女は絶対に敵に回してはいけない。
付き合った経験はないが、それだけは確かだ。
中学生になった優美が、夕食の時間に俺と母親に向かって話していたことを思い出す――「うちらの担任、いっつも女子にばっかりうるさく言ってきてさ、あたしたちみんなでちょっとやり返してやったんだ。ざまぁみろって感じだったよ」なんていうことを得々と語っていたことがあった。
満足そうな顔でご飯をほおばる優美を見て、女っておっかねぇ……と慄いたものだ。
もっとも、優美の話に出てきた「やり返し」というのは、それでもまあ幼いものだった――教卓の上の天井に緩く絞った雑巾を貼り付けておいて、テープが剥がれたら先生の頭に命中するように細工をしたとかどうとか。
しかし――どうやらアディーに恨みがあるらしいこのマダムは、いい大人の行動にしては狂気じみてさすがに度を越している。
俺はひっきりなしに聞こえてくる罵声にたじろぐ下っ端組を呼び寄せると、真剣な顔で言い含めた。
「おい、お前らいいか。もしあの女がナイフでも出してアディーに切りかかるようなことがあったら、全員で跳びかかるからな。気持ちの準備だけはしておけよ!」
「うえぇ……!?」
「は……はい!」
物騒な可能性を聞かされた後輩たちは皆一様に戸惑いつつ、それでもこくこくと頷いた。
少し前から、目の前の駐機場に帰りついた何機ものF-15が発する掠れたエンジン音が隊舎の中にまで騒々しく聞こえていた。
俺はラウンジの時計に目をやった。先に着陸したメンバーはそろそろ戻ってくる頃だ。
そう思って廊下に出た時――。
「あっ、アディー先輩! ちょうどよかった、航空祭の時の会計報告の書き方で訊きたいことがあるんすけど!」
正門通りに面した出入り口から、能天気な大声が飛んだ。
反射的に顔を向けた俺の目に、厚いバインダーファイルを抱えたマルコの姿が飛び込んできた。
俺はとっさにオペレーションルームを振り返った。駐機場から入ってすぐのドア口に、耐Gスーツを身に着け、手袋をはめたままヘルメットバッグとビデオテープを持ち、頬にはくっきりとマスクの跡を残した、今まさに戻ってきたばかりのアディーが立っていた。
駐機場から響いてくるエンジン音に負けないように、何も知らないアディーが声を張り上げてマルコに答える。
「分かった。装具を置いたらすぐに行くから――」
電話を受けていたモッちゃんがその声を聞いてぎょっとしたように振り返り、受話器を手にしたままカウンターの中から身を乗り出して慌てて遮った。
「アディーさん、ちょっと静かに……! いいから救装に入って――」
アディーが怪訝そうな面持ちでモッちゃんを見る。
と、その時。
俺のまさに鼻先で隊長室のドアが激しく開き、血相を変えたマダムが飛び出してきた。