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スクランブル(3)

 晴天の夜空に浮かぶ満月の光に照らし出されながら、ロシアのTu-95は相変わらず列島に沿って南下を続けていた。


 あの細長い銀色の胴体の中では、ロシア人のレーダー監視員や無線通信員たちが自分の持ち場の狭い卓に向かい、機内の薄明かりの中でレーダーモニターを凝視していたり、こちらの無線交信に耳を澄ませていたりするのだろう。自分たちの航空機がどこの位置に来たら自衛隊機がスクランブルで上がってくるとか、何分で到達するかとか、こちらのレーダーの性能や使っている無線周波数など、こまごまと情報を集めているに違いない。ご苦労なことだ。そうやって集めたものを手掛かりにして日本の防衛能力の現状を推し量っているのだ。


 ツポレフに追随する俺の右手には、細かい粒のように灯る陸地の明かりの中にあって目立つ小さな白い光が見えていた。遥か向こうの眼下でゆっくりと瞬いている。台風がやってくると必ずニュースで取り上げられる潮岬しおのみさきの灯台だ。ロシア機と共に、俺たちは和歌山県の南端沖まで下って来ていた。


『エンジョイ01フライト、テイルジャック』


 入間防空指令所テイルジャックから無線が入った。


『以後の監視は5空団に引き継がれる。後続機、間もなく空域に到達予定』

『01了解』


 短く応答するジッパーの声を聞きながら、レーダーを長距離モードに切り替えてみる。黒いスコープ上には、宮崎県の新田原にゅうたばる基地から上がった2機のF-4戦闘機の輝点が現れていた。こちらよりも高く高度を取って向かってくる。

 目を上げてその方角を意識していると、やがて、機体についている赤と青の航行灯の点滅や尾翼の白いストロボライトの鋭い光が夜空の奥に微かに見えてきた。


『エンジョイ01フライト、監視を終了し現在の高度で右旋回後、速やかに帰投せよ』

『01了解。帰投する』


 要撃管制官の指示に、それまでずっとツポレフの横に陣取っていたジッパーは翼を機敏に傾けると滑るようにロシア機から離れていった。少し間を置いて俺もリーダーに続く。俺たちと入れ替わりに進入してくる301飛行隊のF-4の航跡がレーダー画面に映っていた。


 スロットルを押し出し、プロペラ機の速度に合わせてだいぶ抑えていたエンジンの出力を一気に上げる。F-15本来の性能に最適な巡行速度まで加速すると百里基地を目指した。


 Tu-95の監視が西日本の防空を担う部隊のひとつである第5航空団の手に移ったとはいえ、これで自分たちの任務が完全に終わった訳ではない。このツポレフが沖縄本島の南を通り日本海側に抜けて北上するにせよ、このまま太平洋側のどこかで気まぐれに折り返して戻ってくるにせよ、再び俺たちにスクランブル指令がかかる可能性は大いにあるのだ。


 レーダーでリーダー機に追従して編隊位置を取り、基地に向かって洋上を進む。茨城の潮来いたこの辺りで内陸に入った。

 鹿島臨海工業地域の一帯だけが周囲からは際立ってまばゆく輝いている。百里進入管制ラプコンの誘導に加え、その光の塊も目印にして進路を変えた。それと同時に徐々に高度を落としてゆく。


 黒い湖面に満月の光を映している霞ケ浦の上空を過ぎる頃、前方に百里基地の飛行場の灯火が見えてきた。大量のライトがふんだんに使われている民間の空港のように、敷地の形がくっきりと浮かび上がって見えるほどではない。それでも白と青の光がパラパラと散らばる中で、滑走路の手前に長く伸びている「来い来いライト」――滑走路進入灯の手招きするような発光パターンを目にすると、無事に帰ってきたと思えて毎回ほっとするのだ。


 着陸すると、待ち構えていた整備員たちがまだ熱を帯びた機体に取り付いて、すぐに次の発進に備えての機体整備作業ターン・アラウンドが始められた。格納庫前に横付けされた燃料班の給油車から数人がかりで太いホースを長く引っ張り出し、F-15の給油口に繋げていた。


 機付長が差し出した整備記録にサインすると、俺は機体を彼らに任せて格納庫を後にし、ロシア機を撮影したカメラを持ってジッパーと共に待機室に戻った。


「お疲れさまでした!」


 モッちゃんやポーチ、アディーの声が俺たちを出迎える。


 いつもは何とも感じない殺風景な部屋の中が不思議と明るく思えた。

 ジッパーと俺がスクランブル指令を受けて上がると同時に即時待機に繰り上がっていたポーチとアディーは、耐Gスーツを身に着けいつでも発進できる準備を整えてスタンバイしていた。モッちゃんはカウンターの向こうでレターケースから何かの書類を引き出してバインダーに綴じている。


 仲間の見慣れた顔を見た時、俺は初めて自分が今の今まで緊張していたことを実感した。股の間のモノが縮んでいるのを認識してからは緊張も和らいだと思い込んでいたが、実際はそうでもなかったようだ。ここに戻って来てようやく本当に、体からも気持ちの上でも無駄な力みが抜けたような気がした。


 部屋には見知らぬ隊員も1人いた。帰ってきた俺たちの姿を見ると、浅く腰かけていたソファーから立ち上がって挨拶してきた。団司令部の識別帽を手にしている。


 ジッパーが自分の機のデジカメからメモリーカードを取り出してその隊員に渡していた。どうやら写真班の人間らしい。一応作業服姿だったが、風呂から上がったばかりなのか石鹸の匂いがした。隊員浴場から帰ってきて営内で洗濯機でも回していたところに呼集がかかって駆けつけたといった感じだ。


 俺もジッパーと同じようにカードを手渡すと、士長の階級章を左腕につけた写真員は「お預かりします」と言って足早に待機室を出て行った。この後すぐに画像を処理して上級部隊に送るのだろう。


 部屋の奥の冷蔵庫から取り出したジンジャーエールを喉に流し込んでいるジッパーに、ポーチが声をかけた。


「上にいたの、どの国のですか」

「ロシア機だ。クマが1頭。95の方だった」

「珍しい。あの痩せのクマじいちゃんですかぁ」

「ご丁寧に領空ギリギリに沿って飛んでくれたよ。今は新田原ニュウタが引き継いでる」

「それならまた戻ってくるかもしれないですねぇ」


 ポーチは軽く頷きながらそう言うと、今度は俺に顔を向けた。


「で、初のスクランブルはどうだった?」


 俺はポーチの質問に背筋を伸ばした。


「自分が戦闘機に乗る意義を初めてはっきりと自覚できた気がします」

「おお、そうか。そりゃあ何よりだ――で? 縮んだか?」


 き込むようにそう訊ねるポーチの期待に満ち満ちた顔に、戦闘機乗りの使命を実感して奮い立っていた俺は一気に脱力した。

 ポーチとしては初スクランブルを終えた後輩が己の職責と使命に改めて目覚めた話よりも、とにかくそっちが気になって仕方ないようだ。


 すっかり意気を削がれた俺はがっくりとして頷いた。


「はい。しっかり縮みました――でもポーチ先輩の言うとおり、触ってみて緊張してるのが分かったら腹が据わりました」

「だろ!?」

「まあ、何事も経験だな」


 ジュースを飲みながら俺とポーチのやり取りを聞いていたジッパーが、炭酸の刺激に顔をしかめつつ、おもむろにそう付け加えた。


 結局その後、ロシア機は日本海側へ抜けたということで、俺たちの上番中に再びスクランブルがかかることはなかった。


 縮んだ話で再び勢いづいたポーチの下ネタ話がとどまることなく盛り上がり、俺たちはモッちゃんのすっかり諦めきった冷たい視線を感じながら残りの勤務時間を過ごしたのだった。





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