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スクランブル(2)

 コクピットのレーダースコープ上で、国籍不明機の輝点に対してジッパー機のシンボルが手前で迂回するように進み始めた。相手の側面方向から入って行きその鼻先を押さえるように接近していく。

 刻々と位置を変える目標に対していかに時間のロスなく最短のコースで要撃機を向かわせるか、要撃管制官の腕の見せ所だ。


 対象機との距離は1秒ごとに近づいている。あと10マイルほど。F-15のマッハに近いスピードなら1分ちょっとで到達する距離だ。昼間であればもう十分に目視で相手の姿を捉えられるはずだが、さすがに夜間になると発見が格段に難しくなる。


 と、先を行くジッパーからの無線が入った。


目標視認タリホー、10時方向』


 その情報に、俺もキャノピーの外、自機の左手斜め前方の夜空に視線を投げた。じっと一点を注視することはしない。広い範囲を視界に入れ、視野全体を均等に意識する。すると、ほんの小さな存在であったとしても、その場に馴染まない異質なものが浮き上がってくるのだ。


 濃紺の夜空に鋭く輝く星、眩しいほどに煌々と光を放つ満月。動かない景色。


 ふっと、視界の隅に気配を感じた。

 即座に目を移し、そして今度こそ、その一点を凝視する。


 視線の先で、自然のものではない微かな鈍い光がゆっくりと動いていた。


 ジッパーは要撃管制官に誘導を一時スタンバイさせ、後は目視で徐々に目標機の高度まで下りていく。俺もまだ小豆粒くらいの大きさにしか見えない機影を見失わないように注意しながらエンジンのパワーを絞り、リーダーに従った。


 こちらよりも少し低い高度で飛ぶ航空機の姿が次第に大きく見えてきた時――俺は思わずマスクの下で唸っていた。


「――デカい……!」


 満月の明かりを受けている背面が、ぬらりとした艶のない銀色に光っている。

 細長く鉛筆のような胴体。長さはあるが面積が狭く、細いブーメランを背中に取り付けたような形をした後退翼。片翼に2機ずつあるプロペラのついたエンジンポッド――一見華奢にも思えるその航空機は、しかし驚くほど大きかった。


 何度も資料を読みこんで写真では知っていた、ロシアのTu-95――ツポレフ95だった。


 航空自衛隊が持っている航空機で大きいものと言えば、ジャンボジェットの政府専用機を別にすると、輸送機のC-130だろうか。国際貢献で中東に派遣される水色の大型輸送機、あれで確か全長が30メートルくらいのはずだ。


 記憶が正しければ、このTu-95は50メートルもの長さがあったと思う。C-130とは20メートルも長さが違うのだ。全幅も10メートルほど広かったはずだ。細い身体つきをしているとはいえ、空自の航空機を見慣れた目には一瞬圧倒されてしまいそうになる大きさだった。

 もともとは給油無しでも太平洋を横断しロシアとアメリカの間を往復できるという長距離戦略爆撃機だ。西側諸国では「ベア」のニックネームで呼ばれている。冷戦時代には偵察機として「東京急行」と呼ばれるほど定期的に防空識別圏に入りこんできていたという。


 それが今、自分の目の前を悠然と飛んでいた。


 もうずいぶん古い航空機のはずなのに、未だに現役なのか。


 驚きを感じつつ、更に速度を落としてツポレフの斜め後方につく。

 攻撃機ではないとはいえ、機体の最後尾には銃座を備えている。腹の中にじんわりと緊張感が湧いてくる。


 俺はスロットルから左手を離すと、アラート機のコクピット内に必ず備え付けてある一眼レフのカメラを手探りで取り出した。


 目視確認できた際には記録が科せられている。この距離と暗さの中では被写体が映るかどうかさえ怪しいが、その方向に向かってカメラを構えた。シャッターボタンを何度か押し、後方から見た画像を記録する。


 ジッパーが偵察機に自機を寄せ、相手の斜め前に遷移するのが見えた。

 どの航空機も例外なく必ず受信できるように設定されているはずの国際緊急周波数で、防空指令所から通告が行われる。


『こちらは日本国航空自衛隊。貴機は日本領空に接近中である。ただちに進路を変更せよ』


 英語とロシア語で通告が繰り返される。ジッパー機も相手のコクピットから見える位置で左右の翼を振って『我に従え』の機体信号を送ったが、ツポレフからの目立った反応は見えない。


 当然と言えば当然だ。こちらの言うとおりにすぐに引き返すようなら、最初からわざわざ飛んできたりはしないだろう。


 ツポレフは刻々と領空に迫っている。防空指令所とリーダー機の間で忙しなく状況報告と指示が交わされ、当該機への通告も頻回になり始めた。


 あと数マイル――まさか本気で領空侵犯するつもりか……?


 俄かに緊張が高まり、手袋の中の汗ばんだ手で操縦桿を握りなおした時、Tu-95がその長細い翼を緩く傾けて進路を変えた。今度は太平洋岸に沿って領空のすぐ外側を舐めるように飛び始める。


 防空識別圏内を飛んでいるだけなら、こちらもそれに追随し動向を監視するだけだ。突発的な摩擦に繋がる不用意なことはしないよう、細心の注意を払って行動の監視を続ける。


 ジッパーは偵察機に対して領空側に自機の位置を取り、「ここより先は立ち入ることまかりならん」という無言の通告を示すかのように並走していた。


 しかし偵察機にこちらの存在を気にする様子は見られなかった。房総半島沖合をゆっくりと下った後、真南に進路を変えていったん列島を離れたが、三宅島と八丈島の間の領空の隙間をするりと抜けると再び本州に近づき、領空の手前をなぞるように飛び続けた。


 陸地に灯る明かりが筋のようになって小さく見えている。それを右手の向こうに眺め下ろしながら、満月の光が細かい波紋を照らし出す黒々とした海面上空を、俺と、ジッパーと、ロシアの軍用機が進む。海の上にぽつぽつと浮かぶ漁火が眼下を流れていく。


 ――こいつは一体どこまで行くつもりだ?


 日本列島をぐるっと一周するのか、途中で折り返して太平洋上をまた北上し戻って行くのかは分からないが、領空に近いところを悠々と飛行する偵察機に付き合ううちに、俺はだんだんと腹が立ってきた。


 まるで人の家の庭先をうろうろとして、しつこく家の中を窺っているのと同じじゃないか。


 ひと思いに追っ払ってやりたくなるが、もちろんそんな挑発的なことはご法度だ。俺たちの行動は「専守防衛」――相手が仕掛けてこない限り、決して実力行使してはならない。例え領空侵犯されたとしても、俺たちは警告を続けることだけしかできない。国際的な慣例として、領空に入りこんできた軍用機は撃墜できることになっている。しかし今の日本ではそれができない。もし実際に爆弾やミサイルを搭載した他国の軍用機が明確な意図を持って日本の領空に入りこんできたとしたら――そこからは完全に政治的なレベルでの判断だ。自分たち自衛官が決断することはできない。


 しかし――万が一にそういった脅威に晒されるような事態が起こった時、それに対処し得るのは俺たちだけなのだ。


 ある日突然頭上に他の国の爆撃機が飛んで来たとしたら、人々に何ができるだろう。忙しなくオフィス街を行き交うサラリーマン、商店街で威勢のいい呼び声を上げる八百屋や鮮魚店の主人、穏やかな日差しの下で洗濯物を干す主婦、学校の校庭を走り回る子どもたち――この国の人々の穏やかな日常を害しようという存在が現実に姿を現した時、彼らに一体何ができるだろうか。


 俺たちしか、その脅威に立ち向かうことはできないのだ。


 抑止力として、いかなる時でも――たとえ未曽有の災害に襲われようとも――この国は精強な力が守っているのだ、手出しは決して許さないという強い意志を周辺諸国に知らしめるために。そして、人々の日々の生活を暴力的に破壊しようとする存在が空から現れた時、それを水際で必ず食い止めるために。


 どんな事態が起ころうとも粛々と対処できる能力を保ち、それを示し続けること。

 それが俺たち航空自衛隊の戦闘機乗りの使命なんだ――。





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