アラート(1)
夜の9時近くになり、夜間飛行訓練で上がっていた航空機はもうすべて下りたようで、今はエンジン音も途切れて飛行場は静けさを取り戻していた。
格納庫の上に取り付けられた投光器の光の中で整備員たちが機体の整備格納作業を続けているのだろうが、このアラート待機所は各飛行部隊の駐機場からは離れているので、その気配はここまで伝わってこない。
今日は5分待機にジッパーと俺、バックアップ要員にポーチとアディーが就いていた。
7空団では305と204の二つの飛行隊が交代で24時間切れ目なく、国籍不明機に対して防空警戒態勢を敷いている。いざ緊急発進指令がかかれば、5分以内に離陸できる準備を機体・人員共に常に整えていた。
もし万が一5分で上がれなければ始末書モノだ。もちろん領空侵犯を許すわけにはいかないので、そういった点では当然シビアな勤務なのだ。
かといって待機中ずっと気を張り詰めていたのでは身がもたない。状況に変化がない限り、勤務中は適度にリラックスして過ごすように心がけている。
日本上空で平穏な時間が過ぎている今、俺を含めた4人の搭乗員と1人の飛行管理員がいるだけのアラート待機室にはまったりとした空気が流れていた。
今回のシフトで飛行管理職の待機要員であるモッちゃんは、電話が幾つか並んでいるカウンター近くの窓辺に立って、引かれた遮光カーテンの隙間からずっと外を眺めている。ジッパーはF-15の緊急事態時の手順や操作説明が英文で書かれた分厚い技術指令書を読み耽っていた。
アラート待機中の長い時間をどう過ごすかはメンバー内の最先任、つまり一番のベテランによって決まる。今回はジッパーだった。
例えばそれが俺様的なハスキーだったりすると、一晩中カード勝負に付き合わされるなんていうこともある。自分の負けに納得できず、「もう1回やるぞ!」と血走った目でメンバーを睨みまわすハスキーを前に、後輩たちは唯我独尊気質の先輩が勝つまで何度もカードを切る羽目になるのだ。
それに比べれば今日は気楽だ。
待機に入る時に、ジッパーが技術指令書をヘルメットバッグから取り出して「俺はこれをやるから、お前らは好きにしとけ」と言ったものだから、俺とアディーとポーチの3人はリクライニングソファーに腰を落ち着かせて気ままにテレビを見ていた。
『密着! 航空自衛隊――大空の守り手たち』という、いかにもありそうなタイトルのドキュメンタリー番組だ。取材先は石川県にある小松基地の戦闘機部隊、第306飛行隊だった。
こういう番組を改まって観ることはしないが、今日のような暇な時に見てみるとそれはそれで面白い。
俺たち3人それぞれが映像の中に知り合いの姿を見つけては、「おっ、あいつ小松に異動になったんだ」とか「うわっ、ちょっと見ない間に随分オヤジくさくなったな」と感想の呟きを漏らし、カメラを意識しての真面目くさった態度に冷やかしの声を上げる。
それにしても――さっきから妙に気合の入った大袈裟なナレーションのセリフにはどうしても笑ってしまうのだが……。
『――アラートの待機中は、領空侵犯機の出現に備えて片時も気が休まることはない。パイロットたちにとっては過酷な任務だ――』
「そんなずっと緊張して過ごしてたらくたびれちまうって」
ソファーの背に凭れかかりフットレストに航空靴を履いたままの足を乗せたポーチが、腕組みして番組を見ながらいちいち真顔でナレーションにツッコミを入れている。
『――突如、スクランブルのサイレンが鳴り響き、パイロットと整備員たちが一斉に搭乗機へと駆け出す』
「あっちこっちの山の上で防空監視所がちゃんと24時間頑張って見張ってんだから、大体は前情報が来るって。いきなりスクランブルがかかるなんてこと、あんまりねぇよ」
2枚の垂直尾翼に黄金の鷲のエンブレムをペイントした306飛行隊のF-15がアフターバーナーを全開にして飛び立っていく。その映像のBGMは、「戦闘機映画といえばこれ」とほぼ間違いなくそのタイトルが挙がるハリウッド映画のオープニング曲だ。ビートの効いたメロディーが流れ出す。
ポーチが不満そうな顔で俺とアディーを振り返った。
「こういうシーンになると絶対この曲が流れるよな。あれ、どうにかならないんかな」
「まあ、雰囲気がそれらしくて、一般の視聴者に対してアピールしやすいんでしょうね」
アディーが至って真っ当で冷静な答えを返した。
しかしポーチはまだ不服そうに「納得いかねぇなぁ」とぶつぶつ言っている。「実際、こんなBGM付きでカッコつけて上がるようなもんじゃねぇんだから」と再びテレビに向かって文句を言った。
改めて思い返すと、戦闘機が出てくる映画は俺たちからするとツッコミどころ満載だ。
空中戦にしても、ワンカットで自分も相手もお互いが大きく見えるほどの近距離では行わないし、必ず登場するナイスバディーな美人と熱烈な恋に落ちることなんて言わずもがなだ。そもそも俺たちの周りにはセクシー美女の気配すらない。
でも考えてみれば、派手に脚色でもしなければこの日常を映画になんてできないだろう。俺たちのやっていることをそのまま撮ったとしたら、何とも地味で面白味のないものになるに決まっている。とにかく画にならないとは思う。
まあ、今ではそんな身も蓋もないことを言ってはいても、中学や高校時代の俺は戦闘機が出てくる映画が封切られる度に節約して貯めておいた小遣いを握りしめて映画館に足を運び、買ってきたパンフレットを毎晩布団の中でうっとりと眺め、夢と憧れと情熱を無限大に膨らませていたのだった。
その頃のことを考えると、この世界に身を置いてすっかり現実的になってしまった自分が何となく寂しくも感じる。
「アディー、お前、スクランブルで上がったことはあったか?」
ポーチの質問に、アディーは「自分は一度だけ」と答えた。次にポーチの目が俺に向く。
「イナゾー、お前は?」
「まだないです」
「おお、まだ未経験か」
ポーチは「初めての時は緊張するぞ。なあ?」ともったいぶったように言って、アディーに同意を求めて頷いて見せた。
「いいことを教えてやるよ。上空で震えがきてどうしようもなくなったらな、ここを触ってみろ。落ち着くから」
そう言って、ポーチはモッちゃんもいる場で自分の股間に手を当ててムニムニと揉む真似をした。
俺は思わずカウンターの方に目をやった。窓際にいるモッちゃんは流し目をこちらに向けながら、呆れ顔で小さく首を振っている。
自信たっぷりなポーチの言葉に、俺は半信半疑で訊き返した。
「そんなことで本当に落ち着けるんですか?」
「そうさ。ここが縮こまってるのが分かるから、『ああ、自分は今めちゃくちゃ緊張してるんだな』って認識できて逆に落ち着くんだよ」
「ポーチ先輩が初めて上がったのって、いつだったんですか?」
「ARになってすぐぐらいだったかなぁ」
見習いパイロット扱いのTRという資格から、アラート待機に就くことのできる技量を持つと認められたARに昇格してすぐにスクランブルを体験したということは、きっと相当緊張したことだろう。
「で、ポーチ先輩のソレは縮んだんですか?」
「おう。緊張しまくって、触ってみたらなくなったかと思うくらいだったよ」
へえぇ!――と俺は変に感銘を受けて、「お前もそうだった?」とアディーを見た。アディーは苦笑しながら頭を振った。
「いや、俺は触ってみようなんて思いつかなかった」
とうとうたまりかねたようにモッちゃんが体ごとこちらを振り返った。そして遠慮なく俺たち3人をぴしゃりと一喝した。
「――縮んだ話はもういいですから! 一応、私も女なんですけど?」
「ハイッ……」
思わず裏返ったような声で返事をして、俺たちは首を竦めた。「縮んだ話」はそこでやむなく打ち切りとなった。
スクランブル未経験とはいえ、俺はもう2機編隊長訓練を行うまでのフライト経験がある。TRからARになりたてのほやほやで上がったポーチとは状況が違うし、心構えだけは十分にできているつもりだ。それでもやっぱり縮こまってしまうんだろうか?
その時が来たら、忘れずに確認してみよう。