百里基地航空祭(5)
建物の壁に体を寄せたまま、俺は電源を切ったビデオカメラの黒い画面にしばらく目を落としていた。
北海道から出る時、故郷へ錦を飾るまでは家には帰らないと意気込んでいた。だから帰省したのはウイングマークを取ってパイロットと呼べるようになった年の正月と、念願の戦闘機部隊である305飛行隊に配属された年の夏休暇くらいだ。もう3年は実家に顔を出していない。今は2機編隊長の資格を得るまでは帰らないつもりだった。
そんな俺の様子を窺いに、軍用機や自衛隊なんかにはまったく興味のない優美がこんな辺鄙な場所にある「陸の孤島」までわざわざ偵察に来るくらいだ。母親は改まって口には出さなくても心配しているのだろう。帰れる時は家に帰って、仕事を手伝いながらここでの生活の話を聞かせてやったりした方が、どんなにか安心するのかもしれない……。
ふと顔を上げると、建物の向こうに見える基地の目抜き通りを正門へと向かう人の流れができつつあるのが見えた。毎年、ブルーインパルスの展示飛行が終わると見学客の足並みはぼつぼつ帰宅を考え始める雰囲気へと変わる。
俺は何となく湿っぽくなった気分を振り払うと、建物の陰を出てとりあえず飛行隊に向かった。305の隊舎の通用口からちょうど出てきた優美とアディーの姿が見えたので、見学客の間を縫って足早に二人のところへ急いだ。
「仕事場を見せてもらってたんだ」
優美はアディーのエスコートにすっかりご満悦な様子だ。その横にいるアディーは苦笑交じりに俺に耳打ちした。
「班長に勘違いされたよ、『お前、今度は年下か?』って」
まあ、みんなそう思うだろうよ――俺は肩を竦めて見せた。
「隊長さんと班長さんにもご挨拶しておいたから。お兄ちゃんの話も色々と聞かせてもらったよ」
いったいどんな余計なことを隊長や班長から聞いてきたのか、優美はニンマリと含み笑いを浮かべた。
「お母さんからのビデオレター、どうだった?」
「ん? うん――元気そうで良かったよ」
素っ気なくそう答えると、優美は不満そうに眉を寄せた。
「それだけ?」
「あんな短いのに長々と感想言う方が無理だろ」
俺は「ほれ」と優美にビデオカメラを返した。
「じゃあ俺はテントの方の様子を見てくるから。優美ちゃん、どうぞごゆっくり」
爽やかにそう言うと、アディーは軽く手を挙げて踵を返した。あいつが気を利かせて場を外したのが分かった。
初秋とはいえ日差しがきつい。建物の陰になっている芝生の上にレジャーシートを敷いてまだ一休みしている見学客もあちらこちらに多くいた。
俺は妹を促すと、飛行隊の隊旗がはためくポールの横に植えられている梅の木が作る僅かな木陰に入った。目の前をトンボが2匹、すいっ、すいっと滑るように飛んで行った。
それとなく優美に話を向けてみる。
「牧場の方、どんな具合になってる?」
「近所のおばさんたちにパートで来てもらってるし、私も経理の方なら手伝えるから、それなりに何とか回ってはいるよ。牛の数も前よりは少なくしたしね」
「母ちゃんは? 体の調子とか」
「まあ元気だよ。腰が痛いとか膝が痛いとかはあるみたいだけど」
「そっか……」
困っているようでもなく落ち着いて話す優美の様子に、俺は少しほっとして頷いた。
「お兄ちゃん、うちの近くの基地に転勤になったりはしないの? あそこだって同じ飛行機あるんでしょ?」
今後の配属希望先を書いて年に一度提出する書類があるが、それに記入しておけばいつかは千歳基地に異動になる可能性はあるだろう。それでもいられて3、4年だ。最初に配属された部隊には6、7年いることが多いが、その後は短期間で各地の部隊を転々とすることになる。
「まだあと数年はここにいることになるとは思うけど――自衛隊は全国展開だから、この後だってどこに行くかは分からないんだよ。希望どおりにいくとは限らないし」
「そういうものなの?」
俺は頷き、少しためらってから口に出した。
「なんもできなくて悪いけど……家のこと、頼む」
「うん」
優美は小さく頷いてから、大袈裟に肩を落として溜め息をついた。
「しょうがないなあ!――まあ、私が気をつけて見てるから、お母さんや家のことは心配しないでよ」
そう言って笑った優美の顔を見て、俺は何となく安心できた。口うるさくて軽い調子の妹だが、案外しっかり者だと思う。
俺が妹と立ち話をしていると、通りかかった先輩や後輩が「おっ!?」と目を瞠って好奇心丸出しの顔で振り返っていく。後で根掘り葉掘り訊かれること間違いなしだ。
優美が思いついたように「あ!」と声を上げた。
「ねえ、お兄ちゃんからお母さんへのビデオレターも撮りたいんだけど」
「こんなところでそんな小っ恥ずかしいことできるかよ! さっきテントのところでずっとこっそり撮ってたんだろ。あれでいいよ――あれ、いつから撮ってたんだよ?」
「ブルーなんちゃらが終わったくらいから」
――ブルーインパルスな……。
「まあ、おじさんに質問されて自衛官ぽく立派に答えてるところが撮れたから、それ見たらお母さんも感激して泣いちゃうんじゃないかな」
優美はそう言うと満足そうにひとりで頷いている。
改まってのビデオレターもかなり恥ずかしいが、あんなところを母親に見せられるとは――。
俺は思わず赤くなって顔をしかめた――感激するどころか、柄にもなく気取った俺の姿を見て母ちゃんは吹き出すかもしれない。
優美は手首につけた華奢な革バンドの時計に目をやった。
「さてと。そろそろ行こうかな。帰る前に村上さんにひと言ご挨拶していかないと」
そう言って、さも当然と言うように俺を見た。つまり、アディーのところへ連れて行けと――はいはい、分かりましたよ。
俺は優美を伴ってテントに戻った。アディーは接客を後輩たちに任せて、自分は後ろで品物の在庫整理をしていたが、俺たちの姿を認めるとその手を止めて体を起こした。
「村上さん、私はこれで失礼します。今度兄が帰省する時、もしよろしければ村上さんもぜひ一緒にいらしてくださいね。冬は雪しかありませんけど、自然だけは感じられますから」
優美は挨拶にかこつけてちゃっかり勧誘までしている。
「ありがとう」と笑顔で応じるアディーの横で、俺は「どうせ除雪作業要員にされるけどな」と口を挟んでおいた。
「今日この後、飛行機で帰るのか?」
「ううん。帰るのは明日。今日は東京に出てきてる友達のところに泊まらせてもらうことになってるんだ」
「当然、女友達だよな」
「当たり前でしょ」
「夜遊びなんかすんなよ。東京はおっかねぇところなんだからな」
「はいはい。もうお兄ちゃんうるさすぎ。お父さんじゃないんだから」
うんざりしたような顔のまま、優美はじろりと俺を見た。
「お兄ちゃんこそ、今度のお正月くらいはお母さんに顔見せに帰って来てあげてよね」
「うん……」
曖昧な返事をした俺に優美が畳みかける。
「いい? 絶対だよ」
「分かったよ」
「今の言葉、村上さんが証人だからね」
優美はしつこく念を押すと、ようやく話を切り上げた。
「じゃあ、お兄ちゃんも頑張ってね。村上さん、こんな兄でご迷惑をおかけすることもあると思いますが、よろしくお願いします」
アディーは微笑みながら頷いた。
「気をつけて帰れよ――母ちゃんによろしく」
「分かった。じゃあね」
優美はひらひらと手を振ると、大通りを基地の正門へと向かう人の流れに紛れていった。
俺と並んで優美の後ろ姿を見送りながらアディーが言った。
「いい妹さんじゃないか」
「あいつ、口ばっかり達者になって」
「何だかんだ言いながらも仲のいい兄妹って感じで、微笑ましかったよ」
アディーは笑みを浮かべたままちらりと俺を見ると、名残惜しそうに呟いた。
「非番だったら東京まで車で送ってあげたんだけど」
「この日にお前を非番にしなかった勤務係に感謝するよ」
心の底からそう言い返した時、「おう、イナゾー!」と後ろから大声で呼ばれた。
声を掛けるタイミングを今か今かと窺っていたのか、優美の姿が見えなくなった途端、ハスキーがどこからか飛んできて唾を飛ばしながら訊いてきた。
「おい、さっきの美人の子、まさかお前の彼女じゃないよな!?」
やれやれ、やっぱりもう来たか――俺は思わず苦い笑いを浮かべた――ハスキー先輩、本当にそろそろ落ち着いてくださいよ……。
今年は何かと無駄に気忙しく感じる気がする航空祭だった。