百里基地航空祭(3)
突然訪れた人生初のサインリクエストに、俺は思わず目を丸くした。
おお! ついに俺にもサインをねだられる瞬間が!
……と小躍りしたい気分になりかけたが――でも、ちょっと待てよ。この女、失礼じゃないか? 人に物を頼む時くらいはビデオを止めるもんだろう。
するとその女は遠慮のない声で言い放った。
「ちゃんと営業スマイルしなきゃダメじゃん!」
はあぁ?! 何なんだこの厚かましい女――驚きのあまり口をあんぐり開けかけた時、ビデオの向こうからひょいと覗いた顔を見て、俺は今度こそ声を上げてしまった。
「お前――優美! 何でお前がこんなとこにいるんだよ!?」
俺の前には、もう数年来会っていなかった妹の優美が立っていた。
優美はわざとらしいほどにっこりと笑うと、ビデオカメラを持たないほうの手でいかにも素人らしいへにょへにょとした敬礼をしてみせた。左手で敬礼するな!
「北海道から遠路はるばる偵察に参りました!――全然連絡がないから、お母さんいつも心配してて。だから」
「お前さ、来るならひと言連絡くらいしろよ」
「いいじゃん、お兄ちゃんだってずっと家に連絡してないんだからさ」
それとこれとは話が違うだろ!
「お母さんからのビデオレター持ってきたよ」
そう言って優美が目の前でビデオカメラをいじり始めたので、俺は慌てて止めにかかった。
「おい、やめろよ、こんなところで!」
「お前の妹さん?」
女子高生たちから解放されたアディーが横から声を掛けてきた。優美はアディーを認めると途端に態度を改め、きちんと姿勢を正して丁寧にお辞儀した。
「稲津優美です。いつも兄がお世話になっています」
「こちらこそ。同期の村上です」
よそいきの笑顔でアディーに挨拶した妹を見て、俺は思わず声を上げた。
「なんだよお前、そのこなれたわざとらしい笑顔は! そんなのどこで覚えたんだ!」
「あたし、信用金庫の窓口担当だよ。笑顔は良質なサービスの第一歩でしょ」
そう言うと、優美はしげしげと俺の顔を眺めた。
「何だよ」
「お兄ちゃん、顔変わったね?」
「そんなことないだろ」
「この辺が太くなった」
優美は自分の首や顎のあたりを両手で示して見せた。
ああ――いちいち面倒くさかったが教えてやらないとうるさく訊いてきそうなので、一応説明してやった。
「戦闘機に乗ってるとしょっちゅう歯を食いしばったり首に負荷がかかったりするから、筋肉が発達するんだよ」
「へぇ……。顔が変わるような仕事なんてよっぱどじゃない? 大丈夫なの……?」
「大丈夫だよ」
俺が売り場でつっけんどんに優美をあしらっている間に、アディーは隊の建物から出てきた若手二人を捕まえてうまいこと売り子役を交代する話をつけたようだった。
「せっかく遠くから妹さんが来たんだし、お前が案内してあげて職場見学でもしていってもらったらいいじゃないか」
アディーの言葉に優美が大きく頷いた。
「お兄ちゃんがどんな風に仕事してるのか、ちゃんと見てきてお母さんに話して聞かせる約束してるから、色々見せてもらわないと! そのためにわざわざこの高いビデオ、私の夏のボーナスで買ったんだよ」
優美は手にしているビデオカメラを俺の前に掲げるようにして突き出した。
「はい、ビデオレター。とりあえず早く観てみてよ。お母さん一生懸命話したんだから」
まったくもう、面倒くせえなあ――俺は優美の手からビデオカメラをひったくるようにして受け取った。
「お前がビデオを見てる間、俺が優美ちゃんをエスコートしようか?」
アディーがしゃあしゃあと言うので、俺は横目で睨んでやった。
今年21歳になる優美は――改まってこう言うのも照れくさいが――我が妹ながら美人な方だ。見た目のいい若い娘が、女に恵まれない飢えた自衛官どものうじゃうじゃ集うこんな場所をひとりでフラフラするのは危険極まりない。かと言ってアディーと一緒なのはそれ以上に心配だ。アディーは女に不自由はしていないが、だからこそ優美を一緒にいさせた時の危険度は更に高い気がする。
すっかり優美をエスコートするつもりでいるアディーに、俺はしっかりと釘を刺した。
「おい、妹に手ぇ出したら承知しないからな。上空で機銃をお見舞いしてやるぞ」
そして一方の我が妹にもしつこく念を押しておく。
「優美、こいつに騙されるなよ。『マダムキラー』って呼ばれてるくらい遊び人なんだからな」
俺が本気でそう説いている横で、アディーは屈託のない笑顔のままだ。そしてしれっとして言ってのける。
「心配しないで、兄さん。何もしないから」
「やめろーっ! 『兄さん』て言うな!」
アディーは叫ぶ俺を無視して優美を促した。
「とりあえず、偵察しに来たのならお兄ちゃんの職場見学でもどうかな? ――いや、その前にまず、俺たちが乗ってる飛行機は知ってる?」
「はい、飛んでいるのが自宅から見えますから。でも、名前とか、詳しいことは何も――うわぁ!」
テントの外に出ようとして、胸ポケットからサングラスを取り出して掛けたアディーを見た優美が、素っ頓狂な歓声を上げた。
「すごい! ハリウッドの俳優みたい! 戦闘機が出てくる映画、ありましたよね?」
「優美ちゃんもそういうの観るんだ?」
「お兄ちゃんが昔よく観てましたから、何となくパンフレットとかは目にしてました」
優美はまじまじとアディーを見て、しきりに感動している。
「サングラスって、掛けるのに結構抵抗ありますよね。日本人だと似合う人も少ないし。でも、それがばっちり決まっちゃうなんて、さすが……」
優美のあけっぴろげな反応に、アディーが苦笑しながら答える。
「これは単に眩しいから掛けるだけだよ。ほら――目の色が薄いから陽の光が眩しいんだ」
そう言ってサングラスを少し下にずらすと、背の高いアディーは心持ち身を屈めるようにして優美の目をじっと覗き込んだ。単純な我が妹は一気に赤くなってどぎまぎしている。
俺は思わず呆れ返った――アディー……お前の口説きテクニック、初めて間近で見せてもらったよ……。
「村上さんがマダムキラーって言われるの、すごくよく分かった気がします」
優美はまだ上気した頬のまま改めて納得したようにそう言い、「パイロット、かっこよすぎる!」と興奮気味に付け加えた。
「優美ちゃん、そんなに絶賛してもらって光栄だけど、君のお兄ちゃんだって俺と同業だよ」
アディーが可笑しそうにそう言うと、優美は目を瞬いた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっている。
「ええっ? まあ、それはそうなんですけど……。なんて言うか、実感ないんですよね――ほんとに飛行機乗ってるのかなぁ、って。お兄ちゃんてすごく田舎くさくて映画で観るようなかっこいいパイロットのイメージとは程遠いし、村上さんと比べると……ジャガイモとサラブレッドって感じで」
優美の言葉にアディーが吹き出し、大きな笑い声を上げた。
まったく妹め、好き勝手なことを言ってやがる。
「ジャガイモで悪かったな」
「お前、リーダーになったらタックネームを『ポテト』にするか?」
「もう好きなように呼んでくれよ」
やけくそ半分にそう言い残して、俺はビデオカメラを持ってテントの下を出た。