百里基地航空祭(2)
マルコは俺たちのところに来ると、後から来た奥さんを手招きして俺とアディーに引き合わせた。
「先輩、うちの嫁です。イナゾー先輩は確か昔、会ったことありましたよね?」
「うん、防府の時に一度」
「いつも夫がお世話になります」
そう言って奥さんはほんわりとした笑みを浮かべて俺とアディーに軽く会釈した。
初めて会った時、奥さんはまだ18だった。マルコと同学年のはずだから、今は25歳になるはずだ。それでも昔と変わらず綺麗――というよりも可愛らしかった。おっとりとした顔立ちに緩くカールさせた肩までの髪で、リラックス感のあるワンピースを着た姿を見ると、「ほわん」とか「ふわふわ」という言葉が思い浮かぶような感じだ。
マルコは彼女にぞっこん惚れている。お調子者だが男気は人一倍ある奴だ。「俺がこの女を全力で守る!」と奮起するのも不思議じゃない。
マルコと彼女は航空学生の時に知り合っていたのだが――この二人、思い返してみると色々とお騒がせなカップルだった。
航学1年の夏休暇前、他の同期たちが実家に帰るための行動計画書を提出する中で、マルコだけは彼女と泊りがけで旅行に出かけるという計画書を堂々と出し、区隊長や中隊長を仰天させたことがあった。
「そんなことはまだ早い」と反対する区隊長に、マルコは「彼女の親も了承済みだから」と言い張って聞かず、なぜか俺まで区隊長に呼び出され、「稲津、対番の先輩としてお前がまずしっかり指導しなければいかんだろう!」と、とばっちりを食って怒られる羽目になった。
すったもんだしているうちに彼女の親からも中隊長に直接抗議の電話がかかってくる始末で、けっこうな騒ぎになったことまであったのだ。
燃え上がる恋心を発揮して周囲の人間を大いに戸惑わせたマルコの熱愛ぶりだったが、俺はどちらかと言えばそんな浮かれた騒ぎも一時のものだと思っていた。
課程学生の間は色々と制約が多く、平日は基地の外に出る余裕もない。場合によっては個人の携帯電話も没収されるから彼女に連絡も取れない。
更に、これはあまり大っぴらには言えないが、数ヶ月単位で基地を移ることになる操縦課程には『ワン・ベース、ワン・ガール』――ひとつの基地に彼女を一人ずつキープするという意味の言葉まで密かにあるくらいだ。……まあ、俺にはずっと無縁な言葉だったけれど。
そんな状況に加えて、なぜかマルコの親がこの交際にいい顔をしていないというぼやきをマルコ本人からちらりと聞いていたこともあって、どうせ二人の関係も長続きしないだろうと俺は見積もっていたのだが――その後もマルコが操縦訓練のために宮城県の松島、宮崎の新田原と短期間で基地を移る度に、彼女もわざわざ一緒に引っ越していたらしい。
ふたりの噂は当時既に百里基地に配属されていた俺にも伝わってきて、「お前、よっぽど愛されてるんだな」と何かの機会にマルコに会った時にからかってやった。
そしてようやくついこの間だ――数々の制約を乗り越え、マルコと彼女はめでたく入籍へと漕ぎつけたのだった。今は結婚式に向けて鋭意準備中らしい。
マルコは自分の腕時計を見ると言った。
「先輩たち、ここに立ってるの長いですよね? 俺、もうひとり誰か連れてきて、売り子役を交代しますよ」
「いやいや、いいって。せっかく奥さんが来てるんだから相手してあげろよ」
俺たちのやり取りを傍で聞いていた奥さんがマルコに声をかけた。
「マルちゃん、私なら大丈夫だよ。用事があるならひとりでも色々見て回れるから」
「いえ、奥さん、本当に大丈夫ですから。ここの仕事は大したことないんで、マルコと一緒にゆっくり基地見学でもしていってください」
俺とアディーがそう主張すると、マルコは「すいません、俺また後で交代しに来ますから」と恐縮したように言って、奥さんを連れて人混みの中に紛れていった。あちこちよそ見をしながら行き交う人にぶつからないよう、マルコがさりげなく奥さんの肩に手を回してリードしているのを見て、俺はついニヤニヤしてしまった。
「『マルちゃん』かぁ! 相変わらずラブラブだな」
思わず冷やかしにそう言って隣を振り返ると、アディーは曖昧な表情で二人の後ろ姿に目を向けている。
「どうかしたか?」
「ん? いや……」
アディーは言葉を濁しかけたが、思い直したように俺に尋ねてきた。
「マルコの奥さんて、航学の時に大騒ぎになったあの彼女だったよな?」
「ああ、そうだよ」
アディーはためらいがちに何か言おうとしたようだったが、ちょうどその時テントにお客が何人か入ってきたので結局そのままになってしまった。ブルーの展示飛行は終わったようで、それまで立ち止まって空を見上げていた人の群れがまたゆっくりと動き始めていた。
俺たちの前で、2300円の値段で出している305飛行隊の部隊識別帽をしげしげと見ていた白髪交じりの男性が声を掛けてきた。
「これ、2000円にならない?」
「すみません……私たちが自分用に買うのと同じ値段にしていますのでこれ以上は――」
アディーが申し訳なさそうにそう答えると、その人は「やっぱりダメか」というように苦笑してあっさりと引き下がった。とりあえず値引きがあるか当たってみただけという感じだ。そのまま買わずに終わりかと思いきや、フライトスーツを着た俺たち二人を上から下まで眺めると好奇心を覗かせて親しげに質問してきた。
「君たちは戦闘機に乗ってるの?」
「はい」
「ロシアの戦闘機、ミグだっけ? あれとF-15が戦ったらどっちが強いものなのかねぇ?」
男性の目が俺に向く。よくある質問だ。
……戦ったことがないので分かりません。作戦運用や状況にもよります。
――と率直に言ってしまっては身も蓋もないので、俺は背筋を伸ばして咳払いすると、精一杯の知恵を絞って礼儀正しく答えた。
「色々な状況があるので一概にはお答えできませんが、もちろん私たちはいかなる場合でも勝つつもりで日々の訓練に励んでいますし、そういう事態にならないよう、何よりも第一に強力な抑止力としての存在であるべく努めています」
こんな答えで良かっただろうか? 取って付けたような態度になりながらももっともらしく答えた俺の隣で、アディーが必死に笑いを噛み殺している気がする。
しかし、その男性は俺の回答に感銘を受けたようで、「おお、若いのに頼もしい。今の若いもんは好き勝手に遊んでばかりだと思っていたが、これなら日本は安泰だな」としきりに感心して頷いていた。そして結局、305飛行隊の識別帽を定価でひとつ買って帰っていった。
男性の姿が見えなくなると、アディーは片方の眉を上げて笑った。
「優等生の対応ができましたね、イナゾー君」
「ま、俺だって本気出せばあれくらいのことはな」
と胸を張って見せたところに、今度は女の子3人が俺たちのいるテントに突進してきた。高校生くらいだろうか。カメラとどこかの出店で買ったらしい軍用機の薄い写真集を手にしている。照れくさいのかお互いに小突き合って横目で笑い合いながら、アディーの前までやって来た。
「あの、パイロットの方ですよね!? ここにサインしてもらえませんか? ええと……ペンを……」
上ずった声で「ねえ、ペン持ってない? ペン」と賑やかに喋りながら、またお互いを小突いている。
「大丈夫ですよ、ここにありますから」
アディーはさっと胸ポケットからサインペンを取り出した。売り子役を仰せつかった時に、「サイン用のペンを持っとけよ」と飛行班長からひと言あったのだ。
ちなみに俺のサインペンの出番は一向に回ってこない。まあ、たとえサインをねだられたとしても、「305飛行隊 2等空尉 稲津賢二(INAZO)」と下手クソな字で書くことになるのだから、カッコいいサインを期待している相手にはかえって申し訳ない気がしないでもない。
女の子たちは梅のマークが尾翼についたF-15の写真が載っているページを開いてアディーに差し出した。アディーはその上にサラサラと筆記体でそれらしいサインをしている。その後、ハイテンションで黄色い声を上げている彼女たちと一緒に、爽やかな笑顔を決めて写真に納まっていた。
慣れてるよな、お前……。
感心半分呆れ半分でその様子を眺めていると――。
「サインいいですか?」
若い女の声がして、俺は振り向いた。
ビデオを回したまま顔の前に構えた女が、俺にしっかりレンズを向けて撮っていた。