他を生かす者(2)
雨が弱まってからも、雷鳴はしばらく続いていた。
1時間ほどして雷雨ウォーニングは解除されたが、結局、この後飛行場周辺の天候が回復しても訓練空域に雷雲が流れていくという予報により、3回目のピリオドは中止となった。
『連絡します。サードピリオド・キャンセル。本日のフライトは終了』
内線電話の一斉送話で、モッちゃんと同じ飛行管理員の荒城2曹が隊内にフライト終了を伝えた。夜間飛行訓練がない日なので、今日はもう飛行機が上がることはない。課業終了の5時までにはまだ少し時間があった。
フライト終了の放送と共に、オペレーションルームの空気はとたんに緩む。
「あー、何しようかな」
そんな声を上げながら、とりあえず一服しようと煙草を片手に外の喫煙所に向かう者あり、ジョギングするために更衣室に向かう者あり。ジュージャンで想定外に足止めされたジッパーの姿は見当たらなかった。きっともうトレーニングルームにいるのだろう。
7空団司令部の役職を兼務するベテランの先輩たちは、「さあて、仕事だ仕事」と疲れた口調でやけくそ気味に呟きながら、分厚いファイルを抱えて慌ただしげに団庁舎に出かけていった。
若手組は毎日のフライトに追われて溜まってしまっている付加業務の処理に取りかかり始めた。月に何度か所属隊員を集めて隊内で行う教育――「飲酒時における事故防止」やら「適切な金銭管理」、「夏場における食中毒防止」といった、自衛隊ではよくある過剰なほど面倒見のいい指導のための資料とスライド作りに必死だ。
俺はセカンドピリオドで飛んだ編隊のメンバーが機動解析を終えていることを確認して、雷のために中途半端に終わってしまったフライトのディブリーフィングに入った。俺とウイングマンのボコ、ボコの後席に教官として同乗した俺の2期上の先輩、そして対抗機のポーチと、4人で机を囲む。
――が、救助に向かった救難ヘリが気になって、どうにもブリーフィングに身が入らない。戦闘機乗りの使命だとか国防の実感だとか、さっきまで考えに耽っていたこともまだ頭の中にもやもやと残っている。
「ここで俺が急降下した、ボコが入ってくる、0.8秒後に射程域に入ったな――おい、イナゾー!」
「――はいっ!」
ついうっかり窓の外に目を向けたままぼんやりしていた俺は、突然名前を呼ばれて飛びあがりそうになった。
手にした紙巻の色鉛筆の背で苛立たしげに机を叩きながら、ポーチが顔をしかめてこちらを睨んでいる。
「何ボケた顔してんだ。集中しろよ」
「すいません」
慌てて神妙に謝ったものの、気もそぞろなのはどうにもならなかった。フライトでは手応えを感じられたが、今回はブリーフィングの方が惨憺たる有様だった。ポーチに散々ぶつくさ言われながら、ディブリーフィングの時間を何とか凌いだ。
俺はそそくさとブリーフィングで使った机の上を片付けると、オペレーションルームから廊下に出てすぐのところにあるラウンジに向かった。
いつものように煮詰まったままほったらかしになっているコーヒーの焦げたようなにおいが鼻につく。もう課業終了間近なので誰も淹れなおさないのだろう。
ソファーの上に置きっぱなしになっていたリモコンを取り上げてテレビをつけてみた。救出現場のことについて取り上げたニュースがやっていないかと思ってチャンネルを小刻みに変えてみたが、こんな中途半端な時間にやっているのはテレビショッピングかワイドショー、それかドラマの再放送ばかりだった。
そう都合よく災害現場にテレビカメラが居合わせる訳じゃないか……。そもそもマスコミはまだそんな事故が起こっているということすら把握していないかもしれない。
早々にテレビは切り上げ、再びオペレーションルームに戻った。改めて気象通信端末の前に座ると、関東地方の降雨現況を確認してみる。北茨城には相変わらずしつこく雲がかかっていた。雨も激しいままのようだ。
俺は端末の前で頬杖をついたまま、マウスを動かしてレーダー画像や風向風速、積算雨量などのデータを見るとはなしに見ていた。
パソコンのモニター画面に表示された気象データの数値の向こうに、映像が見えるようだった――大粒の雨に叩きつけられて白く煙るヘリの機体。山間の込み入った木々の上でホバリングするヘリから、濁流の上に慎重に降りてゆく救難員。そして一縷の望みにすがる思いで頭上を見上げる人々――まるで自分がその光景を実際に目にしたかのように救難現場が思い浮かんできた。
モッちゃんがカウンターから出てきて、UHFやVHF無線機の電源を落としていた。この後のフライトはもうないので、飛行隊は店じまいだ。
管制塔との交信をモニターするための無線機も切ろうとしているモッちゃんを見て、俺は咄嗟に声をかけた。
「モッちゃん、それはそのままにしておいて。後で俺が切っとくから」
モッちゃんは俺の言葉に怪訝そうな顔をしたが、「分かりました」と言って他の仕事に移っていった。
国旗降下のラッパが基地に鳴り響き、飛行班の終礼が終わると、オペレーションルームから人がはけるのはいつもより早かった。そう言えば今日は金曜だ。フライトのない週末くらいは誰しも早く帰りたい。
帰り支度を整えて鞄を持ったモッちゃんは、カウンターから出てくると俺に言った。
「イナゾーさん、今、救難隊に確認してみたんですが、UHは任務を終えてこちらに向かっているということです。要救助者5名、無事に助かったそうですよ」
ちょくちょく気象情報をチェックしているのを見て、モッちゃんは俺が上がっていった救難ヘリを気にしていることが分かったのだろう。気を利かせて問い合わせてくれたらしい。
無事に任務完了か――良かった……。
「そっか――わざわざありがとう」
「それじゃあ、お先に失礼します」
モッちゃんはにっこり笑って頭を下げると、オペレーションルームを出て行った。
『……あー……百里管制塔、こちら――レスキュー・ヒーロー23……』
静まり返っていた無線機から管制塔を呼び出す声が聞こえてきたのは、宵の口を迎えて部屋に人もまばらになった頃だった。比江島の間延びしたボイスに、俺は知らず知らずのうちにほっと息をついていた。
まだヘリの姿は見えないと分かっていても、思わず窓の外に目を向けてみる。
雨で洗い流された空は澄み渡っていた。夜が近いことを感じさせる群青色の空と、夕焼けの名残の鮮やかなオレンジ色を背景にして、滑走路の遥か向こうに筑波山の姿がくっきりと黒く見えていた。
飛行場には、日没を過ぎて下りてくる救難ヘリを迎えるために誘導路や滑走路の灯火が点灯されていた。暗くなりかけた空に航空灯台の白と緑の光が規則的に放たれ、飛行場の位置をずっと遠くまで知らせていた。
机の上に置いたままになっていた缶コーヒーに目をやる。ジュージャン勝負に負けた腹いせに飲もうと思って冷蔵庫から出したのだったが、救難ヘリが豪雨の中へと実動で上がっていってから何となく飲むのがためらわれて、そのままにしていたのだった。
俺はそれを手に取ってタブを開けると、ぬるくなった中身を一息に飲み干した。今はもう普段の調子に戻って管制塔と交信している同期の声を聞いて、ようやく落ち着いた気分になれた気がした。
そして、比江島が戻ってくるまでの間にぼんやりと考えていたことを改めて思い浮かべてみると――口の中に残る微糖のコーヒーがいつもよりも少しだけ苦く感じるようだった。
(イメージ画像:Ginran様)
(第1章 了)