他を生かす者(1)
壁際の一角に置かれた無線機から聞こえてきた交信に驚いて、俺は思わず窓を振り返った。
近くまで雷雲が来ているという時に、救難ヘリは離陸しようとしているのだ。
ここからでは、一続きになった広大な駐機スペースの一番端にある救難隊の駐機場までを見渡すことはもちろんできなかったが、空がますます暗さを増していることだけは見て取れた。耳を澄ますと、UH-60の長く厚い4枚のブレードが高速で空気を叩く重い音が聞こえてきた。
管制塔からヘリに対し、離陸地点のヘリスポットまで地上滑走し待機するよう指示が出た。伝わってくるローターの回転音の高さが変わり、ヘリが移動していることが分かる。
ややあって、再び管制塔からの声が無線機から流れた。
『レスキュー・ヒーロー23、離陸許可する』
『離陸許可……了解』
いつものコールサイン「ヒーロー」の頭に「レスキュー」が加わっていた。つまり訓練機ではなく、アラート待機していたヘリだ。
モニターしている無線機から聞こえてくる宮崎弁訛りの応答は、同期の比江島の声だった。口調こそいつもと同じように悠長に聞こえるものの、あいつには珍しくその声は固いように感じられた。
ローターの回転音が更に大きくなった。飛行場全体に力強い音を重く響き渡らせて、ヘリは離陸したようだった。振動で窓ガラスがビリビリと細かく震えている。白と黄色に塗り分けられたスリムな機体が窓の向こうを一瞬横切り、風上に向かって頭を深めに下げて飛び立っていった。
俺はオペレーションルームのカウンターの中にいるモッちゃんに声をかけた。
「あのUH、実動?」
モッちゃんは顔を上げると「確認します」というように手を挙げて、カウンターに幾つも並んだ電話機の中のひとつの受話器を取った。相手と短く言葉をやり取りしてすぐに電話を切ると、俺を振り返った。
「北茨城の山中の沢で鉄砲水が出て、中州に行楽客が取り残されているということで。救助要請がきたそうです」
「雷雨ウォーニングは?」
「まもなく発令されます」
「ぎりぎりで上がってったのか」
カウンターから出てきたモッちゃんは、気象隊と繋がっている気象通信端末の前に座ると、マウスを操作して降雨状況の現況画面に切り替え、関東の部分をズームした。
基地のある霞ケ浦のあたりが低雨量を示す薄い水色や青色で覆われている中で、茨城の北部には赤や黄色の帯がかかっていた。場所によっては1時間に80ミリを超す豪雨になっている。
<救難最後の砦>と呼ばれる航空自衛隊の救難隊に救助要請が来るということは、警察や消防の救難部隊も手に負えない状況ということだ。
近くで話を聞いていたポーチが画面を覗きこんだ。画面に示された降雨現況を見ると、すぐに顔をしかめて唸った。
「この赤いのが被ってる辺りだろうな、大荒れだぞ。こんな天気の中飛ぶなんて、考えただけで恐ろしいな」
俺はモッちゃんに席を代わってもらい、画面を切り替えて気象衛星からのレーダー解析画像や予想天気図をチェックしてみた。北茨城には雲が次々にかかっていた。現場ではまだしばらく荒れた天候が続くだろう。
やがて、埃っぽいにおいが駐機場に続く出入り口の方から微かに入ってきた。雨が熱さの残る路面を濡らし始めたらしい――と思う間に、バラバラと激しい音を立てて雨粒が建物の屋根を叩き始めた。スコールのような大粒の雨だ。時折閃く稲光が、低く垂れこめた黒い雲の隙間を白く照らし出す。いくらか間を置いて雷の低い轟きも伝わってきた。
俺は気象端末の前に座ったまま、ブラインドの上がった窓から目を離すことができなかった。大きな雨粒が窓ガラスに激しく吹きつけ、伝わり落ちる雨水のせいで外の様子は見えなくなっていた。
比江島はこんな大雨の中を現場へと向かっているのだ。豪雨で煙って視程は最悪だろう。下手をすれば自分たちが事故を起こしかねない。それでも、救難員や機上整備員などのクルーと共に出動していった。向かう先には、土砂降りの雨と濁流の中で立ち竦み、死の恐怖に慄きながら助けがくるのを今か今かと待ちわびている人たちがいる。
荒天の中、2次災害が起こってもおかしくないような状況で、誰かの命が自分の手にかかっている、自分が行かなければ死んでしまう――その時、俺だったら何を考えるだろう。比江島はどんな想いでヘリを飛ばしているのだろう……。
少し前、この基地にいる同期数人で一緒に飲んだ時に比江島が言っていた。
“That others may live” ――『他を生かすために』
「パイロットでもメディックでも整備員でも、俺たち救難隊員の使命はこのひと言に凝縮されているんだ」
ファイターパイロットを目指して航空学生に入りながら、適性の関係で戦闘機課程に進めなかった比江島。輸送機課程に進むことになってから、しばらくふてくされていた時期もあったらしい。
しかし、今、救難ヘリのパイロットとして「他を生かすために」と語った時のあいつの目には、自分の仕事に対する紛れもないプライドと使命感が満ちていた。そして今もまさに、誰かの命を救おうと懸命になっている。
『事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め……』――その文言が思い浮かんだ。
入隊する時に署名を求められた宣誓文書の一節だ。『服務の本旨』と呼ばれる文言を、入隊するとすぐに暗唱できるまで繰り返し頭に叩き込まれる。
『私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います』
切望して止まなかった航空学生課程に合格を果たし、最寄りの千歳基地からC-1輸送機に乗せられて最初の配属部隊となる山口県の防府北基地の飛行場に降り立った時、俺はいよいよ自分はパイロットへの道の第一歩を踏み出すのだと興奮し、有頂天になっていた。
着隊後すぐ、これから同期になる者たちと一緒に講堂に集められ、基地司令や航空学生教育群司令などから色々と聞き慣れない自衛隊用語が出てくる講話を聞き、最後に求められたのが、この『服務の本旨』が記された宣誓文書への署名だった。
俺は一も二もなく目の前の紙に力を込めてサインしていた――大して文面も読まず、意味も深く考えずに。
パイロットになるためならなんだってやるつもりでいた。そのためにサインが必要だというなら、内容なんてお構いなしに何百回だって書いてやろうというくらいの単純な勢いだった。その場で同じように書類を前にしていた他の同期たちも、俺と似たり寄ったりだったと思う。
その後、体力錬成や学科教育、訓育といった基礎訓練に明け暮れた航空学生課程の2年間をがむしゃらに乗り切り、操縦課程に移ってようやく飛行機に触れられるようになると、それこそ「飛行機を操縦する」ことで精一杯になった。フライトで3回続けてヘマをやれば、あっと言う間に課程免――クビだ。そうならないようそれだけに必死で、国防とか任務とか、そういった高尚な話を考える余裕なんてどこにもなかった。
それをようやく意識するようになったのは、現場の戦闘機部隊である305飛行隊に配属され、領空侵犯機に備えての警戒待機に就くようになってからだ。
しかし正直に言えば、意識してはいるつもりでも実感としては――未だにないかもしれない。
領空侵犯に備えてのアラートにはもう数えきれないほど就いている。
だが俺はまだ実際に緊急発進で上がったことがなかった。上番中に国籍不明機の情報が入ってきたことは何度かあった。その度に気持ちを引き締めたが、結局は他の基地の戦闘機がアサインされ、今か今かと待ち構えている自分に発進指令がかかったことがなかったからだ。
俺たちは――俺は、実際に誰かを守っているんだろうか……?
自衛隊の存在は「抑止力」と言われる。不測の事態に対しいつ何時でも行動できる能力と態勢を整えていることを相手に知らしめることで、手を出そうという意思を挫く――それが抑止力だ。
そしてこの国を侵そうという意図を僅かにでも示す者があれば、すぐさまそれに対処する。たとえ自分の身が危険に晒されても、守るべきものに対する責任と務めを果たす――。
それは俺も理解している。もし爆弾を搭載した爆撃機が本気で日本に突っ込んでこようとするなら、俺は体当たりしてでも阻止する覚悟はある。
しかし日常では、国防という言葉が――守っていると言われるものがあまりに大きすぎて、自分が日々無我夢中でやっていることと繋げて自衛官としての使命を絶えず実感していることは難しかった。
一方で、救難ヘリに乗って出て行った隊員たちは今まさに自分たちの責務を果たすために向かっている。死に直面し助けを求めている現実の存在を救い出すために。
――俺はどうだ?
俺は何のために戦闘機に乗っている……? 小さい頃からの夢はかなった。今はもっと上手くなりたい。ウイングマンが文句なく命を預けてくれるリーダーになりたい。でも、それではただの自己満足だ。
「国を守っている」――胸を張って自分自身にそう言い切れる時が来るんだろうか……。