真剣勝負
ラウンジ――と洒落た横文字で呼んではいても、古い冷蔵庫やテレビ、へたりかけた応接ソファーが置いてある手狭な休憩室だ。洗いものをするための小さなシンクもあり、一日の課業が終わると新入りの若手が先輩たちのマグカップを集めてここで洗ったりする。コーヒーメーカーも備えてあるので、いつもコーヒーの香りが漂っているが――時間が経って煮詰まったコーヒーが焦げ臭くなっていることもしょっちゅうだった。
広くはないそのラウンジに、飛行隊の隊員がもう20人以上集まっていた。
廊下に身を乗り出した先輩の久保沢3佐――見た目がシベリアンハスキーに似ているために、タックネームは納得の「ハスキー」だった――が、ラウンジの前を通る飛行班員を部屋に引っ張りこんでいる。ハスキーは俺の9期上の先輩で歳も30半ばのはずだ。もうそろそろ落ち着いてもいい歳だと思うが、こういう騒ぎが大好きなのだ。どうせ今回のこれも、ハスキーが言い出しっぺに違いない。
ハスキーはオペレーションルームでもたもたしている人間を大声で呼ばわっている。
「早く来い! ジュージャンやるぞぉ!」
ジュージャン――ジュースを賭けたジャンケン。
一斉放送で招集をかけたのはこのためだった。俺やジッパーのように勇んで飛んでくる者もいれば、先輩に問答無用で連れてこられた者もいる。
参加者全員のジュース代を誰が持つか、それを決める勝負がジュージャンだ。先輩も後輩もない。負けた者が全額払う。容赦なき下剋上だった。
「おっし!」と拳を握って気合を入れる者、手の甲を人差し指で押し上げて一発目に何を出すか真顔で占う者、過酷な闘いに備えて手首をぐるぐると回しほぐす者――ラウンジの中に異様な熱気が立ち込める。なにしろ、たかがジュージャンといえども立派な「勝負」に変わりない。どんな勝負にも死力を尽くすのが戦闘機乗りというものだ!
――円陣の中に、皆が握り締めた拳を突き出した。
「よーし、みんないいかぁ? 最初はグーだからな! いくぞぉ――」
ハスキーが力のこもった声で音頭を取る。
「最初はグー! ジャンケンポン!!」
この人数だ。当然いきなり勝負がつくはずはない。
「あいこでしょ! しょっ!――しょっ!――ショッ! ショッ! ショッ! ショッ!――」
誰もが真剣そのもので、あいこの掛け声も加速してゆく。拳を振ること十数回――。
「うおおおっ!!」
歓声と悲鳴が入り混じった盛大な雄叫びが建物中に響き渡った。
ガッツポーズをしたのが約3分の1、髪を掻きむしったのがあとの残り。
最後の一人が決まるまで、この闘いは終わらない。勝った人間は余裕綽々で勝負の行方を覗き込んでいる。
勝敗が決まる度、大きなどよめきが起こる。ジッパーは勝負中盤でそつなく勝ち抜け、アディーは敗者が4人まで絞られたところで辛くもかわした。そうして残ったのが――俺とマルコの対番コンビだった。
周りを取り囲むギャラリーがやんやと騒ぎ立てる中で、俺は大きく息を吐いて意識を集中した。
先輩としての面子にかけて、こいつにだけは絶対に負けられない。フライトでも、そして例えジュージャンであっても……!
マルコは拳にした右手を左のてのひらに打ちつけ、最後の勝負を前に気合いを入れている。
「おい、二人とも、心の準備はできたか?」
ハスキーがもったいぶったように俺とマルコを交互に見て確認する。俺たちは無言で大きく頷いた。
「よし、いくぞ――最初はグー! ジャンケン――」
ポンッ!!
俺は気迫のグーを突き出した。それに対してマルコが出してきたのは――指の先まで力のこもったパーだった……!
ウオオォ!!――一際大きい歓声が沸き起こる――イナゾーだ! イナゾーの負けだ!
マルコがガッツポーズをして跳び上がる。俺は思わず絶叫して身悶えた。
クッソーッ! 負けた……! よりによってマルコに負けるとは! もうジュースでも何でも、好きなだけ飲みやがれ……!!
負けに打ちひしがれている俺をいちいち小突きながら、ジュージャンの勝者たちは冷蔵庫に殺到して好き勝手にジュースを取っていく。冷蔵庫の扉に貼られた名簿の俺の欄に、正の字があっという間に5個以上付け加わった。給料日がくると、1缶100円として厚生係が容赦なく集金して回るのだ。
後輩たちは、「先輩、ゴチになります!」と嬉々として戦利品のジュースをわざとらしく俺に見せびらかし、先輩たちは「うわ、なんだこのジュース。クソまっじいな!」とお決まりの台詞を吐きながら、悔しがっている俺をニヤニヤと横目で見やってジュースをあおる。
マルコも缶コーヒーを手にして寄って来ると、「あれぇ、この缶コーヒー、何か妙に薄いっすよ?」ととぼけた顔でうそぶいた。
俺はじろりと睨んでみせたが、マルコは余裕のしたり顔だ。
「先輩。俺と先輩が残った時、俺にはもう勝ちが見えましたよ。だって先輩、ここぞって時の一発は必ずグーを出すんですから。ちょろいもんですよ!」
そう言うと、マルコは二カッと笑って逃げていった。
そうだったのか……!?――俺はマルコの言葉にびっくりして思わず目を瞬いていた――確かに勝負の時はいつも、渾身の力と念を注ぎこんだ拳を……グーを突き出していたかもしれない……。
自分の単純さに呆れ果て、更にマルコに見抜かれていたことが悔しくて、俺はがっくりとなって冷蔵庫から敗北の缶コーヒーを取り出した。名簿の自分の欄にずらりと並んだ正の字に力なくもう一本棒を書き足しながら、次回こそは気迫だけに頼らずにちゃんと作戦を考えようと真剣に思う。
フライトをした後以上に疲れた気分でオペレーションルームに戻った。苦いコーヒーでも飲みながらさっきのフライトの軌道解析でもしようかと、VTRやノートをまとめていた時だった。
雷雲の接近により在空機がすべて下りてからずっと沈黙したままだった無線機から、管制塔を呼び出すボイスが突然聞こえてきた。
『えー……百里管制塔、こちらレスキュー・ヒーロー23。離陸準備完了』
救難隊のヘリコプター、UH-60が飛び立とうとしていた。