雷雲
鹿島灘上空は快晴だった。洋上の低いところに積雲がぽつりぽつりと浮かんでいるだけだ。
その、まさに抜けるような青空の中で陽を受けて白く光りながら逃げるF-15の小さな機影を、俺は全力で追いかけていた。2対1の空中格闘戦。タイトに旋回し逃げきろうとする対抗機を追い、きついGに息を詰め、操縦桿を手前に引き続ける。
反対方向から回り込んだウイングマンのボコが対抗機を狙いにかかった。対抗機は機体を反転させると同時に急激に高度を下げ、向かってくる相手からの攻撃をかわそうとするが、ボコはその機動に上手く食いついていた。
俺も対抗機を追ってとっさに背面飛行に移った。勢いに任せて下降しながら、今度は海面を背景に高速で駆け抜けてゆく対抗機とウイングマンの姿を見失うまいと首を捻じ曲げて目を凝らす。
あと数秒でボコがいいポジションに入る――。
よし、いける!――と思った時、要撃管制官のターニャの声がヘルメット内の無線スピーカーから聞こえてきた。
『エンジョイ15フライト、訓練中止』
訓練中止?
俺は引き絞っていた操縦桿を緩めてGを抜き、息をつくとスロットルを戻してエンジンの出力を下げた。
ターニャが続けて事情を伝える。
『飛行指揮所からの連絡です。40分後に雷雨警戒警報が発令される見込み、ただちに訓練を中止し速やかに帰投せよ、とのことです』
気象隊が飛行場上空に被ってきそうな雷雲を観測すると、基地には雷雨ウォーニングが出される。そうなると、巨大な金属の塊であり、精密機器の塊でもある航空機を格納庫の中に避難させなければならなくなるのだ。雷雨ウォーニングが出されている間は離発着や飛行場上空の飛行はできなくなるので、その前に基地に戻らなければならない。
訓練開始直後のように燃料が十分残っている時であればそのまま空域で訓練を続け、飛行場にかかる雷雲をやり過ごしてから戻ることもできるが、既に何度か空中格闘戦を繰り返した今はもう燃料計の針は半分以下の位置を示していた。
あと少し――あと数秒で撃墜できたはずなのになぁ……。
「エンジョイ15、了解……帰投する」
もう一息のところで気勢を削がれ、諦めきれない無念な心持ちで応答すると、それが無線越しにも相手に伝わってしまったようだった。
『お疲れさまでした』
笑みを含んだ声で、ターニャからそう返ってきた。
普段、管制官とは必要最低限の交信しかしないものだが、よっぽど俺の声ががっかりしているように聞こえたのかもしれない。うっかり感情を無線に乗せてしまってばつが悪かったが、声しか知らない相手からの労いのこもったその一言で何となく慰められたような気がした。
俺は気を取り直すと、少し離れたところをゆっくり飛びながら指示を待っているウイングマンのボコに集合を指示し、対抗機役をやっていた先輩のポーチにはそのまま基地に向かうよう伝えた。雷雨ウォーニングとなれば、305だけでなく他で訓練中の204飛行隊や偵察航空隊、救難隊の航空機が一斉に戻ってくるので、上空で渋滞して着陸にもたつかないよう戻れる者からいち早く基地に帰投する方がいいのだ。
ボコを伴って大急ぎで基地に向かう。沿岸部から内陸に入ると、発達しつつある積乱雲がかたまって湧き立っているのが西の方向に小さく見えた。
管制塔は次々に戻ってくる航空機を手際よく着陸させていく。俺とボコは沿岸部からダイレクトに飛行場上空の場周経路に入り、問題なく着陸した。
まだ午後2時を過ぎた頃だったが、飛行場の上空には雲がかかり始め、薄暗くなりかけていた。フライト前は熱せられた空気が風のない駐機場に澱み、息を吸うのもうんざりするような暑さだったが、今は時折ひんやりとした風が吹き込んでくる。気持ちがいいというよりも、これから大荒れになることを予感させる冷たい風だった。牽引車に乗った整備員たちが、戻ってきた航空機を急いで格納庫へと引いていた。
どんよりとしておどろおどろしい雰囲気になり始めた空を見上げながら、機体から降りて足早にオペレーションルームに戻る。
先に帰投していたパイロット達で混み合っている救命装備室でヘルメットやライフジャケット、耐Gスーツなどを預けて身軽になると、途端に自分が汗だくになっているのを実感する。夏場に1日2回も飛べば体重が軽く1キロは落ちるくらい、フライトでは体力を消耗するのだ。
汗でぐっしょりと濡れたフライトスーツや下着が、エアコンのよく利いた部屋の中で冷えてくる。とりあえずはまず着替えだ。
更衣室に入ると、ジャージに着替えているジッパーの姿があった。
「お疲れさん」と言ってフライトの出来を尋ねてきたジッパーに、あと少しのところで訓練が中止になったことを答えて、今度は俺が訊き返した。
「先輩、これから駆け足ですか? 雷が来ますよ」
「だからだよ。鳴り出さないうちにトレーニングルームに行くんだ」
さすがジッパー。ストイックさにかけては隊内一だ。こんな時でも体力づくりに余念がない。俺も見習わなくては――替えのフライトスーツに袖を通しながら感心していると、更衣室のドアの外から至極真面目な声で隊内一斉放送が流れるのが聞こえてきた。
『連絡する。手の空いている者は至急ラウンジに集合せよ。繰り返す、手隙の者は至急ラウンジに集合』
俺とジッパーは無言で顔を見合わせた。
フライトは天候悪化で一旦中止、ぽっかり空いた時間、そしてラウンジに集合と聞けば――もはやアレしかない。
「……行きますか」
「行くしかないだろ。呼び出しがあったからには背を見せて逃げるわけにはいかない」
ジッパーが重々しくきっぱりと言い切る。
俺は汗で湿ったフライトスーツと下着類をビニール袋に突っ込んで自分のロッカーのドアを勢いよく閉めると、ジッパーと共に更衣室を飛び出した。