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宴会翌日(2)

 節電のためか、それともただ単に誰も電気のスイッチを入れないだけなのか、廊下は薄暗かった。そのために窓の外の景色が一層眩しく見えて、目の奥が痺れるようだ。


 リノリウム張りの床に俺の履いたサンダルがペタ……ペタ……と間延びした間隔で音を立てている。

 どの部屋の前を通っても人の気配はしなかった。この時間だともう外出しているか、シフトや当直勤務で出勤中か、それとも俺のように二日酔いでへたばってまだ寝ているかだろう。それでも、階段横の、通信隊の人間が入っている居室からだけは微かにテレビの音が聞こえていた。


 階段を下りて1階の隅にある浴場に向かおうと、玄関ホールを通り過ぎようとした時、フライトスーツを着て部隊キャップを被り、ヘルメットバッグを下げた小柄な男が玄関に入ってきた。色あせた緑色の帽子には「Air Rescue」の文字が黄色で縫取りされている。救難隊のUH-60救難ヘリコプターのパイロット、俺やアディーとは同期の比江島ひえじまだった。


 比江島は俺の姿に気づくと「お疲れ様です」と声をかけてきた。俺が「お疲れぇ……」と気の抜けた挨拶を返すとその細い目を更に細めて俺をじっと見つめ、「なんだ、稲津か」と苦笑して目をしばたたいた。明るいところから急に暗い屋内に入ったので、目が馴染んでいないようだった。


「待機だったのか?」

「ん。8時には下番だったけど、付加業務を片付けてたらこんな時間になっちまって」


 航空靴ブーツを脱いでフロアに上がりながら、比江島は宮崎弁の平調子なイントネーションを覗かせてのんびりとそう言った。


 救難隊は自衛隊機の事故に対処するのはもちろんだが、国や県からの災害派遣要請があった時にも備えて24時間態勢で待機している。大規模災害時は言うまでもなく、離島の急患輸送や、警察や消防、海上保安庁などでは対処できないような難しい事態を受けての出動もままあるようだった。


 比江島は、風呂道具を抱えて壁に凭れかかっている俺をまじまじと見ていたが、やがてその丸っこい朴訥とした顔に含み笑いを浮かべた。


「酒臭ぇなぁ。昨日宴会だったんだろ。相変わらず激しいみたいだな、305は」

「おう……」

「村上も死んでるのか?」

「あいつはマシだったみたいだけどな……ちょっと前に出かけてった……。うえぇ……」

「後で何か簡単に食べられるものでも買ってきてやろうか、鶏の唐揚げとか」


 わざとらしく親切そうにそう言う。

 唐揚げを想像するだけでこみ上げてきた。俺は吐き気に背を丸め、手だけを振って比江島と別れた。


 昼近くになるこの時間帯、浴場には当然ながら誰もいなかった。熱いシャワーを浴びて汗を流すと、少しは気分が良くなったような気がした。それでも、頭痛や胃のむかつきが堪らずにざっと体を洗っただけですぐに切り上げた。髪を乾かすのも面倒だったので、着替えただけでドライヤーは使わずに脱衣所を出た。


 開け放しにしてある廊下の窓からはけたたましく鳴くセミの声が聞こえていた。思わず息を止めてしまいたくなるほどの熱い空気が静まり返った薄暗い廊下に澱んでいる。


 窓の外に見えるのは、丁寧に舗装された真っ直ぐな広い道路と、いつ見てもくっきりと白く綺麗に塗られた道路標示のペイント、短く刈りこまれた芝生、薄いエメラルドグリーン色の長方形の建物、道路に沿って頭上を走り各建物に延びるボイラーの太い銀色の配管……そういう、いかにも自衛隊然とした几帳面で不愛想なモノが直射日光に照らされて静かに佇んでいる。


 その風景にぼんやりと目をやっていると、無性に基地の外の空気が吸いたくなってきた。


 ツーリングにでも行きてぇなぁ……。


 隊舎前の駐輪場にカバーをかけたまま置きっぱなしになっている自分のバイクが思い浮かんだ。

 カワサキのゼファー1100。見るだけのつもりで入ったバイク店でその伸びやかな姿にひと目ぼれし、とりあえず一晩考えた後、翌日には貯金をおろして再び店を訪れていた。魅力を語り出したらきりがないが、安定感のある走りと乗りごこち、どんなシーンにも応えてくれる懐の広さが快い。今の季節、避暑地の林道を走ったりしたらさぞかし爽快だろう。


 以前はよくツーリングに出かけていた。房総半島の海岸沿いをぐるりと周ってみたり、テントを持って福島の猪苗代湖まで足を延ばしたこともあった。


 2機編隊長練成訓練が始まるこの間までは、今にして思うと時間的にも精神的にもまだまだ余裕があったのだ。

 操縦技量も上がってF-15を思うように操れるようになり、ウイングマンとして一人前の働きができるという自信がつく。自負心も強まり、訓練でリーダーを務めるすぐ上の期の先輩たちがもたついたりへまをしたりするのを見ては、「俺ならもっとうまくやれる」と根拠のない自信を膨らませていた。ちょうど今のマルコのような時期だ。


 それが、実際にやってみると思っていたようにはいかないことに愕然とするのだった。リーダー訓練中の先輩たちがウイングマンを連れて飛ぶのになぜあんなに四苦八苦していたか、今なら身に染みて分かる。

 リーダーの指揮の下、自分のことだけに集中して対抗機に噛みつきに行けばいいウイングマンと、高速・高Gの世界でウイングマンに指示を出しつつ常に戦況の全体像を捉える視野の広さを持ち続けなければならいリーダーでは、まったく勝手が違うのだ――。


 窓の外を見やったまま、いつの間にかまたフライトのことを考えていることに気づき、今度は二日酔いにストレスという原因が加わった吐き気に顔をしかめた。湿気しけった熱い空気も体にまとわりついてくるようで気持ちが悪い。せっかくシャワーを浴びたのに、首筋や背中には既に汗が吹き出していた。


 もう、今日一日は無駄にしたと割り切って涼しい部屋でだらだらと過ごしていよう。明日の昼過ぎには職場に出て行って、月曜のフライトの準備をしなければならないのだから。


 俺は暑さから逃げるように居室に戻った。




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