宴会翌日(1)
目が覚めたとたん吐き気が襲ってきた。何度も唾を飲み込んで、込み上げてくるものをどうにか堪える。
気がつくと、俺は自分のベッドにうつ伏せで寝ていた。
部屋の中は薄ぼんやりとして暗かった。自衛隊の建物の窓には必ず掛かっている、日焼けが極力目立たないベージュ色のカーテンはしっかりと引かれたままだった。それでも薄い布地越しに強い日差しが窓を照りつけているのが分かった。
向かい側の壁際にあるアディーのベッドは既に空で、毛布がきちんと整えられて足元の方に置かれていた。部屋の中央にある小振りのダイニングテーブルにはスポーツ飲料のペットボトルが何本か置いてあった。
頭がガンガンする。二日酔いの痛みに加えて、頭突きされた額と床にぶつけた後頭部までもが一緒になって脈打っている。胃は重苦しく、未だに消化しきれないものが中で渦巻いているようで、うっかり油断するとすぐに食道を逆流してきそうだ。
枕を抱えて突っ伏したままどうしようもなく唸っていると、部屋のドアが開いてアディーが入ってきた。宿舎内でのいつもの格好――Tシャツにジャージのズボン姿で、腕に洗濯物を抱えている。
「おはよう。調子は?」
「――頭痛ぇ……気持ち悪ぃ……」
俺は絞り出すように呻いた。
「……今、何時だ……?」
アディーは乾燥室の熱風でパリパリに乾いた洗濯物を自分のベッドの上に下ろすと、立ったまま手早く畳みながら答えた。
「11時ちょっと過ぎ――さっきデコとボコが出掛けていったよ。修理代持って店に謝りに行くって」
「……また班長がさんざん暴れたんだ……?」
「まあ、みんなしこたま酔っぱらっていたし、大暴れしたのは班長だけじゃないけどね。取っ組み合ってひっくり返った勢いで座敷の襖2枚に大きな穴を開けて、障子の桟を1か所折った。俺もとばっちりを食らったよ。班長にやられた」
そう言って前髪を掻き上げたアディーの額の端も見事な青たんになっていた。
305飛行隊が町の飲食店から敬遠される理由がこれだった。日本酒のガブ飲みで梅組ファイターパイロットたちの性質の悪い熱い血は一気に沸騰する。そして大声で騒ぐだけならまだしも、店の備品の何かは必ず壊してくるのだった。今では、出入り禁止もしくは自粛の店は数多い。
昨日の寿司屋の大将と女将さんの顔が浮かぶ。
俺がまだ下っ端だった頃、宴会の翌日に幹事の俺と厚生係のアディーとで詫びに出向き、身を縮めて頭を下げる度に、「自衛隊さんあっての私らですから、どうぞ気にせずまたうちを使ってください」と仏のような言葉をかけてくれたものだったが……。
「仏の顔も三度まで」と言うが、三度どころではなく両手両足の指を使ったとしても数えきれないくらい迷惑をかけてきている。酔っぱらった勢いに任せた自分たち飛行班員の数々の悪行を思い起こすと、いたたまれなくなってくる。
頭痛と吐き気、胃の不快感に何とも言い難い虚しさも加わって、なおさらぐったりとして気が滅入ってきた。
アディーは洗濯物を几帳面に畳むと、手前を揃えてロッカーの棚に仕分けし、つなぎタイプのフライトスーツはハンガーに掛けて片付けた。続いて航空靴と靴磨きセットの入った箱を手にして外に出て行き、しばらくしてから綺麗に磨かれた靴を持って戻ってきた。
そうして一通りの身辺整理を終えるとベッドに腰掛けて携帯をいじっていたが、そのうちに電話がかかってきてまた部屋を出ていった。いつものマダムとこれから会うことにでもなったのだろう。
俺から見ると、アディーの女性関係はとんでもなく浮ついている。何かの話のついでに「そういえば、最近付き合い始めたって言ってたあの彼女、今日は約束してないのか?」と聞くと、「もう別れたよ」とさらりと答えるので、俺の方が仰天することの方が多い。しかもお相手はいつも歳の離れたお姉様らしい。
だからアディーはタックネームとは別に、「マダムキラー」という栄えある称号まで持っている。班長や周りの先輩たちから羨望半分、呆れ半分でそう呼ばれても本人はまったく気にしない様子で、いつもと同じ他意のない笑顔を見せるだけだ。
今付き合っているのは、確か――東京で商社勤務しているOLだったか……いや、それは前の話で、今は別の彼女で水戸の旅行代理店に勤めているという方だったか――?
二日酔いと打撲でできた青たんに痛む頭を無駄に働かせてマダムキラーの女性遍歴をたどっていた俺の枕元に、何かが置かれた気配があった。
枕に埋めていた顔をのろのろと回すと、すぐ目の前にスポーツ飲料のペットボトルが見えた。その向こうに、いつの間に着替えたのか、涼しげな麻のシャツにチノパンを合わせて身支度を整えたアディーが立っていた。
「俺、もう出かけるから。水分ちゃんと摂ったほうがいいぞ」
アディーはそう言い置いて俺のベッド脇を離れると、自分の机の上に置いてあるサングラスと車のキーを手に取った。
「……ありがとよぉ……気ぃつけてなぁ……」
部屋を出て行くアディーの背に締まらない声で礼を言い、俺は寝返りを打つと枕を抱きかかえて横向きになった。体勢を変えたところで吐き気は収まらなかった。
やがて、独身幹部宿舎の前の駐車場から低く響く音が聞こえてきた。アディーの愛車、ダークグレーのフェアレディZだ――と思う間もなく、車はBOQの壁に馬力を感じさせるエンジン音を響かせて走り去っていった。
アディーは土曜に出かけると、大抵日曜の昼過ぎまで帰って来ない。部屋には俺ひとりになる。相部屋とは言っても休日にはほとんど一人部屋と同じ状況になるので、今はまだ基地を出て外のアパートに入ろうという気にはならなかった。
平日はいつも朝早く出勤し帰りは夜遅く、週末には俺とアディーのどちらかはスクランブルに備えてのアラート待機で待機所に詰めていて部屋に不在ということも多々ある。アディーは待機のない週末はほとんど外泊するので、実際のところ俺にとっては一人部屋で過ごすのと同じことだった。だから観たい番組があれば部屋に一台あるテレビを独占できたし、大音量でおならを放ちたければ気兼ねなくいくらでもできた。まあ、長年一緒にやってきた同期の前で今更気取ることもないが……。
俺はアディーが出かけてからもしばらくベッドの上でゴロゴロしていたが、ふと宴会臭さが鼻について顔をしかめた。酒と料理とタバコが混ざり合ったにおい――宴会後の独特のにおいが服にも髪にも体にも染みついている。まだ昨夜の格好のままだった。どうやって帰ってきたのか覚えていないが、宴会に行った服装のままベッドに倒れ込み、そのまま寝てしまったようだった。体は汗でべたついている。
仕方なく俺は起き上がり、アディーが渡してくれたスポーツドリンクを半分ほど飲むと、着替えと洗面器に入れた風呂道具一式を持ってフラフラと浴場に向かった。




