表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/106

心新たに

 桜前線の到来とともに花見だ宴会だと浮き立っていた世間の賑わいもようやく落ち着き、季節は新緑の頃を迎えていた。


 百里基地の正門通りに並ぶ桜の木々は青々とした若葉を風にそよがせ、基地内では道路沿いに植えられたツツジが鮮やかな色合いの花をつけている。

 飛行隊の隊舎横に植えられている梅の木も春先には白い花を満開に咲かせていたが、今は若い緑の葉を密に茂らせ、まだ梅雨入り前だというのに初夏を思わせる強い日差しを受けて芝生の上に濃い木陰を作っていた。


 滞りなく花見の宴を実施した俺たち305の飛行班も――宴会がどんな様相となったかは、まあ、言わずもがなというところだ――バカ騒ぎして過ごした休日が終われば、また整斉(せいせい)と訓練と任務をこなす日々に戻っていた。


 昼下がりのこの時間、偵察航空隊と204飛行隊が上がり終え、救難隊も訓練空域に出て行った後の飛行場は静かなものだった。

 オペレーションルームでディブリーフィングをしていても、開け放たれた窓から空の高いところで(せわ)しなく囀るヒバリの声が聞こえていた。どこかの部隊が環境整備をしているようで、遠くの方では草刈り機の駆動音が続いている。時折、刈りたての草の青臭いにおいが風に乗って部屋の中まで運ばれてきた。


 先のフライトで気になった点についてウイングマンに細かく指導してブリーフィングを終えた俺は、甘いコーヒーでも飲んで一服しようと腰を上げた。

 ラウンジに向かいかけたちょうどその時、飛行班長のパールがオペレーションルームに入ってきた。飛行班員たちがそれぞれに行き来している部屋を見渡し、班長は濁声を上げた。


「ジッパー」


 名指しで呼ばれ、壁際のパソコンで航空情報を検索していたジッパーが振り向く。

 怪訝そうな面持ちでやってきたジッパーに、班長は手にしていたバインダーを差し出した。


「ほら」


 挟まれていた書類に視線を落としたジッパーが、傍目(はため)にもそうと分かるほど息を呑んだ。両手にバインダーを握りしめたまま、目を見開き書面を凝視している。


「――良かったな」


 班長は厚い唇を曲げて笑うと、ジッパーの肩を叩いてオペレーションルームを出て行った。


 棒立ちになったままのジッパーの顔に、次第に笑みが広がってゆく――普段は仏頂面の先輩がこんな嬉しげな表情を見せることは滅多にない。俺が目撃したことがあるのはただ一度だけだ。その時は――。


 顔を上げたジッパーが俺に気づいた。その目ははっきりと分かるほど潤んでいる。ジッパーは涙をこらえるように(しか)(つら)を作ると、傍らにいた俺に無言でバインダーを押し付けた。そして用事はないはずの駐機場へと出て行きながら、拳で目頭をぐいっと拭っていた。


 もしや――湧き上がってくる期待に(はや)る気持ちを抑えて手元の文書に目を走らせ――思わず声を上げかけた。


『人事発令

 6月1日付で第7航空団司令部勤務を命ずる

(第4術科学校) 1等空尉 利根正俊』


 知らず知らずのうちに息を詰めていた。書かれている文章を何度も何度も見返して確かめる――特に、そこに記されている名前を。


 「利根正俊」――読み間違いではなかった。跳び上がって叫びたくなるのを必死に(とど)める。


 リバーが……リバーが帰ってくる! また、この百里に!




 *




「リバー、もう来たか?」

「いや、まだです」


 リバーの異動日となっている今日、ジッパーと俺とで朝から何度同じやり取りを繰り返しただろう。よほどのことでない限り動じない常日頃の態度からは奇異に感じるほど、ジッパーは気もそぞろで落ち着かない様子だった。


 リバーはもうこの百里基地にいて、司令部庁舎で団司令に着隊の申告をしていることだろう。新任の情報幹部として業務の把握や身辺整理を済ませたら、きっとこの305の飛行班に顔を出してくれるはず――俺もジッパーも疑うことなくそう信じていた。だからこそジッパーは自分がフライトに出ている最中にリバーが訪れはしないかと心配しているのだ。そんな先輩はまるで特別なプレゼントが届くのを今か今かとそわそわして待ち構えている子どものようで、見ていてついつい可笑(おか)しくなってしまうほどだったが、そういう俺も実はまったく同じ心境だった。


 俺もジッパーも第2回目(セカンド)にフライトが組まれていたが、待ち望む相手がやって来る気配のないまま搭乗機に向かう時間が迫っていた。この回にアサインされている他の飛行班員たちと共に救命装備班で救命胴衣や耐Gスーツを身につけながらも、目は頻繁に時計の針を追ってしまう。

 ジッパーはいつものように無駄口を叩くこともなく身支度をしてはいるものの、やはり気になって仕方ないのか、ちらちらとオペレーションルームを窺っている。


 もしフライト中にリバーが来て行き違いになったとしたら、その時は無理にでも時間を作って司令部を覗きに行こう――そう考えながら手袋(グローブ)をはめ、識別帽を被って顎紐をかけるとヘルメットバッグを手に取った。


 準備を終えた同僚たちに交じって救装を出た時、先に出ていたジッパーがはっとしたように足を止めた。廊下の方を凝視したまま動かない。つられて俺も目を向ける。


 奥の隊長室から飛行隊長と制服姿の隊員が出てくるのが見えた。そのまま連れ立ってオペレーションルームに入ってくる。


 駐機場に出ようとしていたアディーやポーチにハスキー、ライズやデコやボコ、カウンターにいるモッちゃんや荒城2曹、そして他の面々も――その場にいた全員の目が一斉に一人の人物に注がれる。


 隊長の横に立っているのは、紛れもなくリバーその人だった。


「リバー先輩!」

「リバーさん!」

「おう、リバー! 元気だったかよ!?」


 先輩も後輩も関係なく、皆わっとばかりに歓声を上げて、かつて共に飛んだ仲間の元に騒々しく殺到した。


 夏制服を身に着け、真新しく色の褪せていない司令部の識別帽を手にしたリバーは、懐かしそうに目を細めて皆の声掛けに応えている。人の()さが滲むその笑顔は少しも変わっていなかった。


 俺とジッパーもリバーの元に駆けつける。


「おぉー、ジッパー! イナゾー! 久しぶりだなぁ!」


 リバーは声を上げると、いっそう笑みを濃くして俺たちふたりを交互に見つめた。

 ジッパーは今にもリバーに抱きついて喜びを爆発させたいといった様子だった。その衝動をぐっとこらえているように、目を潤ませて震える声で言う。


「まさかまた百里(ここ)だなんて……」


 泣き笑いのような顔でようやくそう呟いたジッパーに、リバーも苦笑して何度も頷いた。


「俺も驚いてなぁ。官舎係の配慮で入校中はどうにか家族をここの官舎に置いといてもらえたんだけど、配属先が決まったらまた引っ越さなきゃなぁ……なんて思ってたんだよ。そしたら人事が上手くやってくれてなぁ。古巣に戻ってくることができたよ」

「それにしても、先輩が情報幹部……これからその手のブリーフィングは先輩から受ける訳ですか。変にマニアックな情報とか、いらないですからね。ちゃんと実戦的で有意義なの頼みますよ」


 ジッパーが注文をつける。市販の航空情報雑誌に載っているような、妙に細かい知識ばかりにやたらと詳しかった前任の情報幹部を容赦なく揶揄(やゆ)した言葉に、その場にいる皆が吹き出した。

 リバーも笑って「任せとけ、しっかり使える情報持ってくるから」と請け合うと、その目を今度は俺に向けた。


「イナゾー、どうだ、2機編隊長錬成訓練(ELP)は終わったか?」


 俺は胸を張り、自信を持って頷いた。


「今はもう、編隊長(リーダー)としてウイングマンを連れて飛んでいます」


 飛行機を降り地上職となったとはいえ、今でも自分が師と仰ぐその人の前でそう報告できる事が何より誇らしかった。

 リバーは感慨深そうに、期待のこもった笑みを浮かべた。


「お前もリーダーらしい貫禄が出てきたな。これからが楽しみだ――しっかりな!」

「はい!」


 先輩、後は任せてください。リーダーとして、先輩のように――先輩から学んだように、責任感と愛情を持って後輩たちを引っ張っていきますから!


 その意志を、リバーは確かに受け取ってくれたと思う。自分に注がれる眼差しに、俺は意気込みを新たにする。


 オペレーションルームに置いてある対空無線機から、管制塔と在空機とのやり取りがぽつぽつと流れ出した。訓練を終えた204飛行隊のF-15が帰投に入ったようだ。

 手袋の上につけた腕時計に目をやる。フライトの時間だ。


 俺は改めてリバーを見た。


「それじゃあ、先輩」

「おお」


 今、自分は編隊長の一人としてこの305飛行隊を担っている。上空での判断と行動に責任を負い、部下の命を預かり、後進を鍛え育ててゆく――その気概を込めて、俺はきっぱりと言った。


「行ってきます!」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ