春の訪れ(3)
ツーリングの終わりに、谷屋1尉は百里基地に立ち寄った。
とは言っても基地の中には入らず、外からの見学だ。今日は神奈川にある防衛大学校で卒業式が行われている。その祝賀飛行のために、百里からは偵察航空隊のRF-4と204飛行隊のF-15が、防大出身のパイロットの操縦でそれぞれ3機ずつ上がっているはずだった。航過飛行を終えて帰投してくる機の着陸に立ち会えるならぜひ見ていきたいというのが彼女の希望だった。
草地の中に轍が続く狭い農道をバイクで進み、基地の外柵沿いに出た。目の前にはアラート格納庫が見える。
訓練がある平日にはこの場所にも航空機ファンが集って離着陸機をカメラで追っている。滑走路03で離陸する際にはコクピットからでもこちらにレンズを向ける姿がよく見えるので、手を振られた時など、俺も余裕があれば彼らに応えて振り返すこともあった。
日曜日だがフライトがある今日も、柵の前には脚立を立ててカメラを手に待機している人々が多くいた。それでも今はエンジン音が聞こえる訳でもなく、どこからか鳥の囀りが聞こえてくるほど、辺りは至って静かでのどかだ。
フェンス越しに飛行場を見渡してみる。
滑走路の中央付近には大型消防車が1台ぽつんと停車していた。滑走路脇の移動統制車両にも人がいるところを見ると、まだ在空機があるのだろう――偕楽園から基地までの所要時間を見積もって着陸予定時刻に間に合うかどうか心配していたが、どうやら大丈夫だったようだ。
近くでカメラの調整をしていたこの道のベテランと思しき人が、「さっきRFが入感したから、もうそろそろ戻ってくると思うよ」と親切に教えてくれた。
撮影の邪魔にならないよう、カメラを持った集団からは離れたところで機影が現れるのを待つ。やがてギャラリーが慌ただしく動き始めた。携帯している受信機が交信を伝え始めたようだ。
今は微風、使用滑走路は03のはずだ――俺は南側の空を見上げ、全体を広く意識して視野に収めた。
程なくして、横に連なった黒い点が3つ、刷毛で掃いたような薄雲を背景にして現れた。
「あそこに見えてきました。雲の手前に3機並んで――分かりますか?」
「えっ……どこだろう……稲津さん、もう見えてるんですか? やっぱり目がいいんですね――」
感心したようにそう言いながら俺の指し示す方向に目を凝らしていた谷屋1尉は、砂粒程度の機影がゴマ粒ほどになったところでようやく「あっ、あれですね! やっと分かりました」と弾んだ声を上げた。
そうこうしているうちにも偵察戦闘機は編隊を組んだまま音もなく近づいてくる――そして頭上を過ぎた瞬間、エンジンの硬質な轟きが辺り一帯に響き渡った。脚立の上でカメラを空に向けて構えた人たちが、示し合わせたように右から左へと長い望遠レンズを振り、シャッターを切る。
3機のRF-4は飛行場上空で順に翼を傾けて一定の間隔を取ると周回に入り、着陸灯をきらめかせてアプローチを開始した。
迷彩柄が施された寸胴な機体が機首を上げて腹を見せ、滑走路に下りてくる。主脚が僅かに白煙を上げて接地すると同時に、機体尾部から制動のためのドラッグシュートが放出された。傘に空気を目一杯孕ませて減速しながら、機体は静かに滑走路を通過していった。
続いてF-15の3機編隊も姿を現し、同様に滞りなく着陸してゆく。
高度を落としつつ進入してきた最後の1機が目の前を過ぎていった時だった。
「あれ……?」
俺はつい声を出していた――着陸機の排気熱が作る陽炎の向こうでアラートハンガーの扉が開かれてゆく。
「スクランブルがかかったみたいですね」
「このタイミングで――」
滑走路を開放し誘導路へと抜ける最終機を見送っていた谷屋1尉が僅かに眉を寄せて視線を戻した。「どこからの国籍不明機だろう……今だと誰がシフトに入っていたかな……」と呟くその横顔に、要撃管制官の表情が覗く。
再び受信機から無線交信が頻繁に流れ始めたのだろう、柵沿いのギャラリーもざわつき始めた。「スクランブルだ」という短い会話が興奮気味に交わされ、望遠レンズが一斉にアラートハンガーに向けられる。
整備員たちに送り出された2機のF-15が、陽光をキャノピーに反射させて滑るように格納庫から出てきた。翼の下にはもちろん実弾を搭載している。垂直尾翼にあるのは梅の部隊マークだ。
先頭を進む機のコクピットに収まるパイロットの姿を見て、俺は彼女に言った。
「あの前の機体――先にやって来るリーダー機に乗っているのがアディーです」
「無線もなしで、ここからで分かるんですか?」
誘導路をこちらに向かって走ってくるスクランブル機と俺たちがいる外柵との距離はかなりある。パイロットは当然ながらヘルメットを被りマスクをつけているので顔は見えない。
その状況での発言に、彼女は驚いたように眉を上げた。俺は頷いて付け加える。
「上半身のシルエットを見れば大体分かります。あとは、機体を引き上げる時や着陸態勢の癖なんかでも」
「そうなんですね……凄い」
彼女は驚きの表情を浮かべたまま、再びスクランブル機を見つめた。
アラートハンガーから誘導路を走ってきたアディーの機は、滑走路に入ると発進方向に機首を振り向け躊躇なく離陸態勢に入った。排気ノズルから青白い炎を噴き出し一気に滑走スピードを上げ、アフターバーナーを全開にして耳をつんざくような轟音とともに飛び立ってゆく。
「――稲津さんも、ああやって上がっていくんですね」
続いて離陸してゆくウイングマンの機体を目で追っていた谷屋1尉が改まった面持ちで呟いた。
「こうして外から見ていると不思議な気がしますね……こんなにのどかな時間が過ぎているのに、この空のどこかでは外国の軍用機が領空近くまで窺いに来ている現実が間違いなくあるんですから……。それを水際で制止するために、稲津さんたちがあの戦闘機に乗り込んで上がっていくんですよね。いつも自分も関わっていることですけど、実際にその現場に向かうというのは、地上にいる私たちでは想像もつかないくらいの相当なプレッシャーでしょうね……」
空高くまで昇った2機のF-15は、もう既に、柔らかな色合いで広がる青空の中の小さな点となりつつあった。
彼女と同じようにその機影を見送りながら、スクランブルで上がり他国の軍用機を相手にした際の息詰まるような緊張感をありありと思い出す――同時に、「絶対に侵入を許すものか」と奮い立つように腹の底から闘志が漲ってきたことも。
俺は噛みしめるように言った。
「でも、それが自分たち戦闘機乗りの使命であり、存在意義ですから。どんなことが起ころうと、この国を守るために俺たちは空へ上がります」
彼女は俺を振り返って、微笑みを浮かべた目を眩しげに細めた。
何があっても受け止めてくれるのではないかと思える、そんな芯の強さを感じさせる笑顔に、俺は改めて見惚れた――そして心を決める。ごく自然に、自分でも意外なほど、無駄な気負いを感じることもなしに。
――今ここで伝えよう。自分らしく、潔く、気持ちを伝えよう。
「谷屋さん」
彼女の目を捉え、ひと言ひと言、はっきりと口にする。
「あなたと一緒に、前を向いて進んでいきたいと思っています。俺と、付き合ってもらえますか」
彼女が一瞬目を瞠る。しかしすぐに、その視線を強くして真っ直ぐに俺を見た。
「ひとつだけ――」
まるで、口にする言葉すべてに思いを込めるように彼女は続けた。
「何があっても――たとえ飛行機を下りることになっても、必ず戻ってきてください」
俺は返事をためらった。「必ず」という無責任な約束はできない。どんなにあがいたとしても、自分自身ではいかんともしがたい「時の運」というものがあるからだ。
だが、運に抗えなかったとしても、生きて戻るための努力を惜しむことは決してない。
だから精一杯の気持ちでこう答えた。
「その時は――戻れるよう、できる限りの努力をします。最後まで、諦めることは絶対にしません」
彼女は俺がその言葉で伝えようとした意図を理解したように、深い眼差しに聡明そうな笑みを重ねて頷いた。
「待ってますから」
穏やかに澄んだ春の空は、再び静けさを取り戻し始めていた。
スクランブル機が残していった轟きは長く尾を引きながら次第に微かなものとなり、やがて、その僅かな気配も林の中で囀る鳥の声やそよ風に揺れる草木の葉擦れの音に紛れていった。
(第7章 了)