春の訪れ(2)
筑波山は芽吹きの兆しをちらほらと見せ始めていた。ロープウェイの窓から見下ろす山肌には、常緑樹に混じって冬の間に葉を落とした木々が薄茶色の細い枝を広げていたが、よく見ればその剥き出しの枝にも初々しい小さな若葉が覗いていた。いち早く白い花を咲かせている樹がぽつぽつと斜面の雑木林に賑わいを添えている。
関東平野の眺望を楽しみながら他の観光客たちと一緒に山頂近くまで上り、ロープウェイの駅から少し歩いたところで、岩場となっている頂にたどり着いた。平地から吹きあがってくる風を体に受けながら、谷屋1尉と肩を並べて眼下に開けた景色を望む。
春霞が薄くかかっているせいで鹿島灘まで見渡すことはできなかったが、山の裾野の端から整然と区画された農耕地や、その間に点在する住宅地の様子が一望できた。作付け時期を迎える前で白茶けて見える田畑の上を、輪郭の曖昧な雲の影がゆっくりと流れてゆく。
百里基地や入間基地はどのあたりかと彼女が訊ねるので、遠く見渡し、田畑や森が広がる地面の間に空と同じ色をした水面部分を見つけて指し示す。
「あそこに見えているのが霞ケ浦の端なので、百里はもう少し左手の方向に……基地はあのあたりです。それから、向こうが東京方面で、入間だと更に西に――」
彼女は俺の説明を聞きながら、陽の光に目を細めるようにして示された方向を注意深く眺めては頷いていた。
山を下りて再びバイクに跨ると、連れ立って今度は水戸に向かい、偕楽園近くの料理屋で昼食を取った。名物のあんこう鍋の膳を味わいながらのひとときもまた楽しかった。
聞き上手な彼女を前に、俺は調子に乗って一方的に喋り過ぎているかもしれないと心配になったが、彼女は退屈した様子も見せず、俺の話に興味深そうに耳を傾け、よく笑った。
バイクのことやこれまでに訪れたことのある土地のことから始まって、互いの出身地の話や子どもの頃の話など……バイクという共通の趣味を通じて話は広がり、会話が途切れることはなかった。
彼女は地方の国立大学で国際関係を学んだと言っていたが、ちょっとした相槌の中にも教養的な知識の豊かさが窺えた。会話をしているとさすが大卒だと感心するようなことも多く、昼食を終えて偕楽園に到着した際にもまた、そのことを実感して感服してしまった。
線路沿いの駐車場にバイクを停め、常磐線を跨ぐ歩道橋を渡って最寄りの入り口を目指す人の流れについて行こうとした時だ。彼女が俺を呼び止めた。
「稲津さん、ちょっと遠回りになりますけど、こちらから行きませんか? 本来はこっちにある表門から入るものなんだそうです」
「へぇ……よくご存じですねぇ」
尊敬の眼差しでしげしげと谷屋1尉を見ると、彼女は控えめに微笑んだ。
「自衛隊にいると転勤や訓練であちこちに行くことも多いので、そういう機会に縁があった場所のことを知るようにしようと思っていて。今回も、少し調べて来たんです」
そう言う彼女から、偕楽園について予備知識程度に軽く教えてもらう。
偕楽園は日本三名園のひとつで、水戸藩の第9代藩主であった徳川斉昭公――もともと歴史が苦手な俺は人名を聞いたところですぐに忘れてしまうのが常なのだが、今回ばかりはせっかく彼女が教えてくれたので頑張って覚えた――が造園を指示し、領民の憩いの場として開放したという。
広大な庭園の中には「陰」と「陽」の二つの世界観が表現されているとかで、この近くの藩校で学んだ当時の学生たちは、勉学を終えた後に表門から始まる「陰」の世界で心を静めて思索を深め、その後に「陽」の世界へと出て解放的な空間の中で憩いのひとときを過ごしたらしい。
そういう趣旨も含んで造られている庭園なので、彼女はぜひ表門から入ってみたいということだった。
歩道橋を下りて水場のある散策道を通り、更に民家が並ぶ路地を抜けて行くと、細かい砂利が敷かれた一角が現れた。黒い木塀の上に茅葺の屋根が乗った、時代を感じさせる門が奥に見える。
門へと至る道の脇にはところどころに低い庭木が植えられていたが、まだ新芽は出ておらず枝ばかりが目立ち、もの寂しい様子だった。他の樹木も葉を落としたままの中で、幾本かの立派な枝ぶりの梅の木々だけは枝先近くまで白や紅色の花をつけ、冬枯れた風景に華やかな色彩を加えていた。
ちらほらと姿が見える他の見物客と同様に、門を抜け、簡素な木戸をくぐる。
途端に陽が遮られ、ひんやりとした空気を感じた。左手には竹林が、右手には杉林が広がっていた。竹垣に沿って林の中に延びる散策路が、緩やかに曲がりながら奥へと続いている。
丸木で土止めされて階段状に整えられたなだらかな坂道を下ってゆく。見上げると、青々とした竹と真っ直ぐに伸びた杉の木が頭上高く空を覆っていた。それでも、きちんと手入れがされているようで鬱蒼とした暗さは感じられない。重なり合う枝葉を透かして陽の光が差し込み、足元の細かい砂利をまだら模様に照らしている。微かな風が吹き通る度に、竹の葉がさらさらと耳に心地よい音を立てた。
「ああ……」
俺は思わず深く息を吐き出していた。
「こんなに肩の力が抜けたの、ほんとに久しぶりだなぁ……」
心の底から呟いた言葉に、谷屋1尉が横でくすりと笑う。
「稲津さんは、どんな時でも全力投球だから」
驚いて彼女を見つめる。谷屋1尉は少しくだけたようないたずらっぽい笑みを俺に向け、続けた。
「顔が見えない無線でのやり取りでも、声を聞けば相手の状況は何となく伝わってきます。余裕があるとかないとか、今日は声のトーンが落ちてるから何かあったのかな、とか……。稲津さんからはどのフライトの時でも人一倍の気迫が伝わってきて、無線越しにも自然と応援したくなってしまって」
そう言うと彼女はまたにっこりと笑った。
上空では極力落ち着きと何気なさを装って声を発しているつもりだったが、実際にはすっかりこちらの心理状態があからさまになってしまっていたとは――俺は思わず苦笑いを浮かべた。隣で微笑んでいる彼女の眼差しが温かい。
「2機編隊長の検定試験、稲津さんならきっと大丈夫だと思っていました。編隊の管制を担当する度に、前のフライトから何かを掴めたんだと感じられることが多かったので。私は戦技や技量について詳しいことは分かりませんし、フライトの実際を知らずにこんな風に言うのはおこがましいと思いますが――錬成訓練期間の最後の頃はもう、稲津さんの声からしっかりとした芯のような、編隊長として迷いのないものを持っていることが伝わってきましたから」
そう言うと、彼女は確信を滲ませた目で俺を見た。
「リーダーとして、これからは正に肩で風を切る勢いで部隊を担っていくんですね」
今後への期待を感じさせるその言葉に、俺は苦笑混じりに答えた。
「もちろん、自分がこれまでやってきたことに対して自負心は持っています。305でリーダーになれたことに対してもプライドを感じます。でも、まだまだこれからです。それに――」
一瞬口を噤む――自分の思いを上手く伝えられるだろうか――僅かに逡巡したが、改めて口を開いた。
「自負心ばかりになってはいけないと、今は思っています」
彼女が問いかけるように俺を見る。俺は考え考えしつつ続けた。
「部隊に配属されてから、とにかく負けたくない、上手くなりたい、強くなりたい、その一心でがむしゃらにやってきました。スクランブルを経験してからは、自分たちが防空の最前線でこの国の人々を守っている――そうはっきりと意識するようになりました。それと同時に……自分たちが国民という不特定多数を守るために飛ぶ時、地上では無事を案じながら待つ人たちがいるということも忘れてはいけないと思うようにもなりました」
話しながら、俺は戦闘機を降りたリバーとその妻の聡子さんのことを思い浮かべていた。
職責に対する夫の矜持を十分理解してはいても、「やっぱりどんな事態になったって自分の夫には生きていてほしいと思うものなんです」と、複雑な心境を吐露した聡子さん。
そして、休暇を終えて帰隊する際の別れ際に、「とにかく無事で」「身体に気をつけて」と念じるように口にしていた母親と妹のことも。
「戦闘機乗りとして――自衛官としてこの国を守っているということがつまり、大切な人を守ることになるんだと、今までは何となくそんな風に考えてきました。平時であれば、それでもいいんだと思います。でも……いざ災害や動乱が起こった時、自分たちはその大切な人を置いて出かけて行かないとならない。側にいて守ってやることはできないんです。むしろ、『悪いけど後を頼む』――そう言って、相手に留守を託して負担をかけることになる。心細くなるような切羽詰まった状況だったとしても、そこに置き去りにして『何とかうまく凌いでくれ』と気丈な態度を求めることになるんです」
清涼な静けさに満ちた杉林の中の道を並んで歩きながら、谷屋1尉が窺うようにそっと言葉を挟んだ。
「……大切な人を置いて任務にあたることに、後ろめたさが?」
俺は木陰を踏む足元に一時目を落とし、彼女の問いに考えを巡らせてみた。
「――実際にそういう深刻な事態の最中だったとしたら、やっぱり後ろめたさは感じるかもしれません。でも、任務遂行の命令を受けたとなれば、そういった感情に引きずられることのないように、自分の果たすべき役割に集中します。躊躇する気持ちがあったら飛べなくなりますから」
ひと言ひと言、自分の気持ちを確かめながらそう答えて続ける。
「自分の無事を気にかけてくれる人たちのことを考えると――平時でも有事の時でも自分たちが国のために行動できるのは、陰で支えてくれる存在があるからなんだと、そう思います。だからこそ、常日頃から相手への思いやりが大事になるんだと。そして、自分は自分のやるべきことを全力で果たすことが、待っていてくれる人に対してできるせめてものことじゃないかと。だから……」
そこでふと言い淀む。
今まであえて言葉にする機会のなかった思いを手探りで話すうちに、いつの間にか着地点を見失ってしまっていた。
俺は顔をしかめて大きく息をついた。
「……すいません、何が言いたのか分からないですよね。自分でもよく分からなくなってきました」
じっと黙って俺の話を聴いていた谷屋1尉は、表情を和らげると笑みを見せた。
「いいえ――稲津さんが言おうとしていること、私にも分かります」
そう言って俺を見る彼女の眼差しは、いつにも増して真っ直ぐで、真摯で――俺の拙い言葉でもきっと理解してくれたのかもしれない……とつい思ってしまうような、包容力を感じさせるものだった。
ふと、木立の間を抜けていったそよ風に花の香りを感じた気がして目を転じた。
杉林を通る散策路の先に、簡素な造りの門が見えている。茅葺きの屋根や竹組みの垣根が午後のやわらかな日差しを受けて明るんでいた。その奥から、観梅を楽しむ人々で賑わう気配がさざめくように伝わってくる。
門をくぐり更にもうひとつの木戸を抜けた途端、急に視界が開けた。
現れた景色に思わず息を呑む。
辺り一面、まるで煙るようにして白っぽく霞んでいる――目の前には、満開を迎えた梅林がずっと先まで広がっていた。白や赤、薄紅色……色合いの濃淡も様々な梅の花が、青空を背景にして伸びている枝を鮮やかに彩っている。
俺の横で谷屋1尉が感嘆したように溜息を漏らした。
「こんなにたくさんの梅が見事に咲き揃っているのを見るのは初めて……。圧巻ですね……」
自然と笑顔になって花の咲き誇る枝々を見上げる彼女を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。
3月も下旬に入り、もしかしたらもう見頃は過ぎてしまったかもしれないと心配していたものの、一番いい時期に来られたのかもしれない。彼女に喜んでもらえたことが何より良かった。
「稲津さん、奥まで歩いてみませんか?」
明るい声で促され、行き交う見物客たちの中に混じる。
春が来たことを実感させる、ほんのりとした梅の花の香りが一帯に漂っていた。吹き通ってくる微かな風が、時折その香りを濃く運んできた。はらはらとこぼれて目の前に舞い落ちてきた花びらを咄嗟に手のひらに受けた彼女が、俺を見て嬉しそうに笑う。
園内の一角では、艶やかな着物を着て「水戸の梅大使」の襷をかけた若い女性たちが、梅の花をバックにして観光客たちのカメラに笑顔を向けていた。
水戸黄門と助さん格さんの格好をした3人組までいて、こちらも人気者のようで多くの人が写真に収めていた。試しに黄門様御一行にお馴染みのセリフとキメのポーズをリクエストすると、堂々の貫禄で実演してくれた。
満開の花と穏やかな陽光の中で、誰もが皆どことなく心を浮き立たせているように思える。
そんな賑わいの雰囲気も楽しみながらそぞろに歩いて梅林を回り、売店に寄って梅アイスを食べてみたり、土産屋の店先を冷やかしてみたり――そうしながら彼女とたわいのない会話をし、笑い合う。
ほんの些細なひとつひとつのことが心の底から楽しくて、肩を並べて歩く彼女の笑顔が俺にはとても眩しく見えていた。