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春の訪れ(1)

 3月も下旬に差しかかる頃の日曜日。

 待ちに待った、谷屋1尉とのツーリングの日。


 前日の土曜、午前中のうちに週明けのフライト準備を大急ぎで終わらせた俺は、長らくカバーを被せたままになっていたバイクの手入れを入念に行った。

 久々にエンジンを回し、ブレーキの効きやタイヤの空気圧を測ったりして一通り点検し、車体をぴかぴかに磨き上げ、ガソリンを満タンに入れた。その後、茨城の名所を巡りたいという彼女の希望を考え併せてどういうルートでどこを訪れるか、地図を広げて目的地間の距離と大まかな時間も計算し、行動計画を立てた。


 自衛隊では長距離の旅行に出かける時や休暇で帰省する際には必ず、ルートや時程、交通手段、宿泊先、連絡先などを詳しく記した「行動計画書」なるものを書かされる。

 今回の程度なら必要はないのだが、気ままに一人で行動する訳ではないし、ツーリングに不慣れな相手と一緒となると、やはり大雑把な見通しでは心許(こころもと)ない――そう考えて、余裕を持ったタイムスケジュールで動けるように観光スポットを絞って計画した。オフの時であってもつい綿密に計画を立ててしまうのは職業柄の哀しい(さが)かもしれない。


 とりあえず、そこまではウキウキとして調子よく事が運んだのだが、問題はその後だった。

 当日着ていく服をどうするか――完全防備のライダースーツでは大袈裟すぎて彼女に引かれるかもしれないし、かと言って普段着のような薄手の軽装で高速道路を走りたくはない。彼女と並んだ時に格好に差があり過ぎるのも困る。


 俺はベッド下の衣装ケースからバイク用の服をありったけ引っ張り出してシーツの上に放り出し、あれでもないこれでもないと唸りながらどれにしようか迷っていたが、とうとう()を上げて同期に助けを求めた。


『なあ、ターニャさん、どんな格好で来ると思う?』


 昼飯のコンビニ弁当をつつきながら俺の悩みっぷりを楽しげに眺めていたアディーは、口の中の物を飲み込むと可笑(おか)しそうに言った。


『遠足前の小学生みたいだな――俺はバイク乗りのことは分からないよ』


 女相手の分野で頼みの綱だったアディ―は戦力外宣言……となると、バイク事情の方に詳しそうなのは――考えを巡らせて、ぱっと思い浮かんだのはジッパーだった。


 当然のことながら、即、却下だ。


 スズキのマニアックな大型バイクに乗っているジッパーは純粋にマシンとしてバイクをこよなく愛しているだけで、女性ライダーのことなんかこれっぽっちも眼中にないだろう――まあ、俺も今まで似たようなものだったけれど。

 それに、女のバイク乗りがどんな格好をしそうかなんて訊こうものなら、他人のことにあまり関心を持たないあの偏屈な先輩でも多少の好奇心は呼び起こされるに決まっている。尋問めいた詮索をされるのは(かな)わない。


 アドバイスを貰えそうな相手にそれ以上の心当たりがないので、仕方なく頭を絞って自分であれこれ検討してみた。

 最終的に、バイク初心者ならそこまでのフル装備は持っていないかもしれないという予想に行きつき、結局、俺も当たり障りなくバイクウエアでもカジュアルに見えるレザージャケットとプロテクター入りのジーンズという格好に決めた。


 ――そうして迎えたデート当日の今日、俺は基地から南に下ったところにある常磐自動車道の谷田部東パーキングエリアに向かった。そこで谷屋1尉と待ち合わせることになっていた。


 約束の8時にはだいぶ早く着くように基地を出発した。入間からはるばる走ってくる彼女を待たせては申し訳ないし、何より、心構えも含めて万全の態勢で臨みたかった。気忙(きぜわ)しく焦った状態で彼女に会ったら、挙動不審になってうっかり失言しかねない。


 高速道路のインターを目指して快調に県道を走ってゆく。シフトを上げる度に増してゆく加速感と、体全体に伝わってくる振動やエンジン音――久々に乗るバイクはやはり気持ちがいい。


 幹線道路の脇に広々と続いている田んぼはまだ代掻(しろか)きもされておらず、ひと冬を過ごしたままの様子だったが、刈り取り後の稲株からまばらに伸びた緑の葉が初春の穏やかな陽に照らされてちらちらと光っていた。


 しばらく走って高速に乗り、待ち合わせ場所のパーキングエリアには十分すぎるほどの余裕を持って到着した。


 とりあえず、着いてすぐにトイレに向かう。ヘルメットに押さえつけられぺちゃんこになった髪に水をつけて整えてみたり、上着の裾を引っ張って襟元を直してみたりして鏡の前で身なりをチェックした。

 それを済ませると自販機で買ってきたお茶で喉を湿らせつつ、駐輪場近くのベンチに腰を下ろして彼女の到着を待った。携行してきた地図を見返し、経路を改めて確認しながらも、バイクのエンジン音が聞こえてくる度に目を上げてしまう。


 そうすること幾度目か――本線を下りてきたバイクがまた1台入ってきた。緩いカーブを描いて駐車場へと続く下り坂を走ってくるのはヤマハのSRX400――谷屋1尉が乗っていると言っていたバイクだ。細身のジーンズにブーツを履き、ワインレッドのレザージャケットを着た乗り手は、明らかに女性と分かる姿だ。


 俺は思わず立ち上がり、減速しながらゆっくりとやってくるバイクを目で追った。


 張り出した木立の枝下に区画された二輪用の駐輪場に入ると、乗り手はエンジンを止めてヘルメットを脱いだ。やはり谷屋1尉だった。

 仕事で会った時にはいつもきっちりひとつに縛ってネットでまとめている髪を、今日は単に後ろでラフに結わいていた。ヘルメットのせいで乱れた長い髪を解いてざっと手櫛で梳き、また手早くゴムで(くく)り直している。


 何気ない仕草だったが、ついつい見惚(みと)れてしまった。


 ベンチの前で突っ立ったままの俺に気づいた彼女が、笑顔になって会釈をよこす。


 我に返り、俺は慌てて駐輪場に向かった。つい「お疲れ様です」と挨拶しそうになったのを辛うじて止める。自衛隊内でのいつもの習慣だが、これでは素性丸出しだ。外ではさすがに憚られる。


「すみません、お待たせしてしまって」


 まだ約束の時間前だったが、彼女は申し訳なさそうにそう言った。


「いいえ、全然! 自分もさっき来たところで!」


 俺はとっさに首を振って見せたが、変に意識した言動になってしまった気がして赤面した。すっかり舞い上がってしまっている。人生初のデートだと自白しているようなものだ。


 久々に見る谷屋1尉は相変わらず綺麗だった。

 バイク乗りの基本を押さえ、肌の露出が極力少ない服装だったが、だからと言って女性らしさが削がれるようなことはなく、すらりとした背格好とも相まって制服姿とはまた違った凛々しさがあった。


「ここまで来るのに、問題なかったですか?」


 入間で初めて会った時に彼女がまだ1度しか遠出したことがないと言っていたことを思い出し、ヘルメットをミラーにかけてバイクから下りた谷屋1尉にそう訊ねてみる。

 彼女は「はい」と頷いてから苦笑を見せた。


「でも、本当に久しぶりに乗ったので変に緊張してしまって……。ここからは稲津さんと一緒だと思うと心強いです」


 笑みを向けられ、思わずどぎまぎしてしまう。そんな風に言われたら妙に照れくさい。


「ええと……とりあえず、今日の行程の説明を――」


 なるたけ平静を装ってリーフレット版の地図を広げると、彼女が俺の隣に来て手元を覗き込んだ。整った色白の横顔がすぐそこに見えてどうにも落ち着かない――だが今はとにかく平常心、平常心だ。


 これからこのまま高速も使って筑波山に向かい、ロープウェイで山頂に上り、その後に梅まつりが開かれている水戸の偕楽園を散策――というのが予定のコースだった。そこまであちこち足を延ばすわけではないので、彼女が入間に戻るのもそう遅い時間になることはないだろう。


 スケジュールについての打ち合わせを終え、それぞれ出発の用意に取りかかる。


 腹の底を小刻みに打つような低いエンジン音が響く中、ヘルメットを被った俺は彼女を振り返った。ハンドルを握る彼女が、いつでもオーケーと言うように大きく頷く。準備はいいようだ。俺も頷いて合図すると、ゆっくりとバイクを発進させた。


 斜め後ろに従う彼女の様子をミラーに収めながら、パーキングエリアを出て下りの本線に合流する。

 もちろん、至って安全運転だ。加速する時には特に気を遣った。軽自動車の馬力を軽く超すほどのパワーがある俺のバイクは、スロットルを少し捻るだけで簡単にスピードがつく。しかし彼女のバイクでは、その加速についてくるために頻繁にシフトチェンジしなければならない。相手の走りやすさにも配慮する必要があった。自分ひとりのペースで走るのとはまた違い、経験の浅いウイングマンを引き連れているような気分だ。


 風を切りながら思わず笑みが漏れる――なんだ、いつもやっていることと同じじゃないか――そう考えると、ソワソワした気分も不思議と落ち着いてくるようだった。


 変に気張って自分を取り繕う必要なんてない。錬成訓練の間、ずっと励みにしていた谷屋1尉とのツーリングだ。楽しい一日が過ごせるよう、気楽にやろう。


 ヘルメットのバイザーを通して、春らしい和らいだ陽の光が視界に差し込んでくる。

 高速道路の側壁の向こう、田や林が広がる平野の奥に、2つの峰を連ねる筑波山が見え始めた。徐々に大きく近づいてくるその姿を左手に眺めながら、俺はいつになく爽快な気分で彼女と共にバイクを走らせた。




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