リーダー会の宴(2)
少し開けた後部座席の窓から、ひんやりとした風が絶えず吹き込んでいた。夜半を過ぎて気温が下がってきたようだ。タクシーが畑の脇を通る度に、風に混じってニラや肥料のにおいが車内に入ってきた。
基地に戻るタクシーの中で、俺は酒が効いてすっかり怠くなった体を座席に預けてうつらうつらしていた。隣に座るアディーもさすがに飲み疲れたようで、くったりとして車の揺れに身を任せながら目を閉じている。料金メーター近くのデジタル時計の数字が暗い車内でぼんやりと光っていたが、時刻は既に夜中の2時を過ぎていた。
祝賀会に続き、場所を移して行われた2次会と3次会の後、ハスキーが『飲み足りない奴は俺ん家に来い!』と気風のいいひと声を上げた。俺とアディーも含めて誘いに乗った5、6人がタクシーに分乗し、酔った勢いに任せて官舎に乗り付けたのだった。
夜も更けてすっかり静まり返っている外階段を大人数でどやどやと5階まで上っていった。ハスキーが玄関ドアのチャイムをやかましくピンポンピンポン鳴らしていると、少ししてから不機嫌そうな声とともに扉が開いた。
『ちょっとパパ煩い! 近所迷惑! 鍵持ってるんだから自分で開けてよ!』と文句を言いながら顔を出した奥さんはパジャマ姿ですっぴんだった。
『若いの連れてきたぞぉ~!』といい調子で先輩風を吹かすハスキーに、奥さんは『お客さんも一緒なら、お店出る時に連絡入れてよ! 前も言ったよねぇ!?』といたくおかんむりの様子だったが、それでもすぐに奥に引っ込んで身繕いしてくると、真夜中に突然押しかけてきた俺たちに酒や簡単なつまみを用意してくれた。
恐らく0時は回っていたと思う。迷惑だったに決まっているが、まあ、飛行班の宴会後にはよくあることだ。
すっかり出来上がっている後輩たちを断りもなく引き連れてきた旦那に文句を言いながらも、ハスキー同様ゴシップ好きでミーハーな奥さんは、目の保養になるアディーやそこそこイケメンのフックがいたのでまんざらでもなさそうだった。
俺たちは官舎でまたひとしきり酒盛りをし、皆で好き勝手に壮言を吐いて騒いだ後、ついさっきようやくハスキー宅から撤収したのだった。さすがに今夜は飲み過ぎたかもしれない。
暗がりの中を過ぎてゆく畑や雑木林をしょぼついた目で窓越しにぼんやりと眺めていると、隣から声を掛けられた。
「――お前、ターニャさんとはオフで連絡取り合ってるの?」
寝ていると思っていたアディーから唐突に問いかけられ、しかもいきなり出てきた谷屋1尉の名前に一気に目が覚める。
「ん?……うん……まあ、な」
思わず頬が緩みそうになり、もごもごと言葉を濁して慌てて窓の方に顔を背けた。頭に血が昇ってくるのが分かって、顔に当たるニラくさい風を鼻から大きく吸い込む。
暗い窓に、アディーが笑みを含んだ目で俺を見ているのが映っていた。
アディーはゆったりとした調子で更に訊ねてくる。
「リーダー昇格のことは伝えた?」
「うん……」
「彼女、何て言ってた?」
「うん、まあ、『おめでとう』って」
彼女とのメールでのやり取りを思い出すと、アルコールで火照った顔が更に熱くなる気がしたが、俺は至って何食わぬ風を装って答えた。
晴れて2機編隊長となったその夜、俺は勇んで谷屋1尉に報告のメールを送った――とは言っても、今回もどう書いたらいいものか悩みに悩み、そして結局はやっぱり事務連絡のような無味乾燥な文面を送る羽目になってしまったが。
それでも、彼女はすぐに丁寧な返信をよこしてくれた。
祝いの言葉と、これまでの努力に対する労いと、そして、これからの活躍を期しての激励と――心から共に喜んでくれていることが文章の端々から伝わってくる内容だった。特に絵文字が多用されている訳ではないのに、俺にはその文面が――こう言うのも乙女ちっくで我ながら恥ずかしいが――キラキラと輝いて見えた。
そして俺は一世一代の勇気を奮い立たせて、ツーリングという名目のデートに誘ってみたのだ!
気恥ずかしいような、でも満ち足りて幸せな気分だ。
――ふと我に返ると、隣でアディーが含み笑いを浮かべてその先を聞きたそうな顔をしている。
俺は締まりなくにやけてしまっていた口元を急いで取り繕い、強引に話を変えた。
「お前は昨日代休だっただろ? めでたく錬成訓練も終わって、久々にストレスもなく羽伸ばして来たか?」
無理やり話を振った俺に、アディーは冷やかすような視線を向けてきた。しかしそれ以上谷屋1尉とのことは詮索せず、自分に投げられた問いかけに「まあね」と頷いた。
俺はふと思い出したことを口にした。
「……そういえば、昨日はモッちゃんも休みだったよな」
「たまたま同じ日に代休だっただけだよ」
「もしかしてまた一緒に出かけてたりとかな~」
何気なくそう言った途端、アディーが気まずそうな表情になった。
俺は凭れかかっていたシートから跳ね起きた。
「えぇっ!? もしやドンピシャ!? 何となく言ってみただけだったけど」
アディーが「しまった」とばかりに苦々しい顔になる。俺は遠慮なく食いついた。
「こじゃれた店で2機編隊長昇格お祝いランチとか!」
急き込んで言った俺に、アディーは観念したように肩を落として答えた。
「違うって、そういうんじゃないよ――ダチョウ、見に行った」
「ダチョウ?」
俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ダチョウって、あの首が長い大きい鳥だよな? 飛べないやつ」
「そう。なぜか石岡にダチョウがいっぱいいるところがあるんだよ」
そう言えば、ダチョウ園だったかダチョウランドだったか、国道沿いの道端でそんな看板を見かけたことがあったような気がする。どうしてこんな土地で豚でもなく鶏でもなくダチョウなんていう珍しい生き物を飼育しようということになったのか、不思議に思った記憶がある。
「モッちゃんが、この前ホームセンターに行った時にその看板を見て、『ずっと前から気になってたけどひとりで行くのも気が引けて、同期を誘ったら無下に断られた』って言うから、それじゃあ日を改めて今度行ってみようかって話になっただけだよ。で、ダチョウを見てダチョウ肉のソーセージを食べて帰ってきた」
ダチョウを仲良く愛でたその後に二人して楽しげにダチョウソーセージを食べているという光景を頭の中に思い浮かべてみる。
「なかなかシュールだな」と俺は腕組みして唸ってから続けた。
「それにしても、ダチョウって……。モッちゃんと一緒にいたら新しい世界が広がりそうだな。都会派マダムキラーがデートでダチョウ見物とは」
しげしげと隣の色男を見やると、アディーはほとほとうんざりしたように溜息をついた。
「何度も言うけどデートじゃないし、モッちゃんとはそういう関係じゃない」
アディーめ、いつまでそう言い張るつもりだよ。俺は帰省した時に、この耳でばっちりお前の本音を聞いたんだからな!――じれったくなった俺は、聞き分けの悪い強情な子どもに向き合うように言って聞かせた。
「なあ、男と女が休みの日に約束してふたりっきりで出かけといて、デート以外の何になるんだよ、アディーちゃん。それに、楽しかったんだろ? 肩ひじ張らずに過ごせたんだろ?」
俺の言葉に、アディーがしぶしぶといった様子で頷く。
「だったらさ、それでいいじゃん、変に構えなくたって。俺も嬉しいからついお前のことおちょくっちゃうけどさ――自分の気持ちに素直になったらいいんだよ。気張らずに一緒にいられるって、何よりだと思うぞ」
アディーは抗弁せずに黙って目を伏せたまま、考えに耽っているようだった。その横顔を、すれ違う対向車のヘッドライトが一瞬照らし出す。やがて、ためらいがちに、この強情者は小さく頷いた。
「――で? 次のデートの約束は?」
俺はまた座席に深く凭れ直してにこやかにそう訊いた。渋い顔をこちらに向けたアディーが、「まだないよ」と投げやりに答える。
「お前も一人前の戦闘機乗りなら、ここぞの時が来たら撃ち落としに行けよ!」
モッちゃんのこととなると妙に奥手になるマダムキラーに発破を掛ける。本気を出せばどんな女だって一撃必殺のはずなのに。たとえ相手があのモッちゃんだとしたって――。
「絶対に落とせるはず」と言い切ろうとしたものの、そこで改めて彼女を思い浮かべ、自分の確信が若干揺らぐ――モッちゃん、ほんとに恋愛感情に疎そうだからなぁ……。いやいや、それでも百戦錬磨のアディーだったらきっと撃破できる!――強引にそう思い直してとりあえず納得してみた。
「結婚式のスピーチなら心配するなよ。俺が喜んで引き受けてやるからな」
「何だよそれ、気が早い」
アディーはやれやれというように大袈裟な溜息をついた。
心躍るような目覚ましい進展はなかなか期待できそうにない二人だが、少しずつでも確実に関係は縮まっているのかもしれない。何だかんだ言って、きっとうまくやっていくことだろう。
アディーとモッちゃんの結婚式、どんな面白いエピソードを織り交ぜてスピーチしてやろうか――。
呆れたような同期の視線を横から受けつつ、俺はあれこれ考えを巡らせながら楽しい気分で帰途に就いた。