お題短編 雪をイメージした作品
冬真っ只中の屋上。
綿毛のような白い粒が肌をくすぐる。
手をかざして小一時間もすれば、凍ったバナナよろしくグーで釘が打てるのではないか――絵面は愉快だけれど大惨事だ。それほど今日は寒い。
しかし、僕の胸の滾りはこれしきの寒さに負けはしない。
なぜなら隣には、燦々と温もりを放つ僕の太陽――もとい篠里ちゃんがいるからだ。
とある日のとある屋上にて、僕らは今日も安っぽいベンチに並んで腰掛けている。
「ああ、君はどうしようもなくトレビアン。あまりの美しさに目が動かせないじゃないか。細胞の隅々までをも観察したくて思わず視力が上がっちゃいそうだぜ。そうなったら視覚への刺激が強すぎて陥没するかも知れない」
僕はオーバーに右手で両目を覆って反り返る。
「ぐあああ、目が、目が良くなった上に陥没するううう! 保険会社からどういう理由で金を受け取ればいいのか!? というわけで、これは君のせいなのだから君が責任を取りたまえ。生涯の伴侶として、ね」
決まった。最高の殺し文句だ。これでオチないやつがいるだろうか、いやいない。僕が保証しよう。
「……」
しかし無反応。なぜだろう。僕の溢れる愛情に言葉もないということだろうか。それとも気持ちわる過ぎて存在を認識したくないのだろうか――いやあ、それはないな。
「なんだいなんだい、黙っちゃって。……はっ。さては君も僕という舞い降りた天使の美しさのせいで身動きがとれないのかな? いやいや、気持ちは嬉しいけれど君の方が天使ですから。君と僕では豚と真珠ですから」
僕はペラペラとペラペラな言葉を繰り出し続ける。それでも篠里ちゃんはぼんやりとしたまま微動だにしない。呼吸をしているのかどうか心配になるほど動かない。
いいさ、そうやってだんまりを決め込むというのなら、僕がしゃべり続けることでその溝を埋めよう。篠里ちゃんの口を割らすためなら僕は舌が裂けることもいとわない。
と、僕の愛情索引が本格的に火を噴く前に、篠里ちゃんの桜の蕾のような唇が開く。
「みみ、かして」
――――。
あまりの益体の無さに反応が遅れる。
「えっと、なんで?」
僕はおそるおそる尋ねる。
「手頃に、ちぎれそうだから」
「今にも実現しそうな手軽さがこわい!」
唐突に猟奇的だからびっくりする。
僕の恐怖をよそに、マイペースに口を動かす篠里ちゃん。
「ちぎれたら、みみたぶをぞんぶんに――ふふ。……ほかは、いらない、どこへなりと、うせろ」
彼女の脳内で僕の耳たぶはどうなっているのだろうか。
それにしても、のったり不思議な喋り方のわりに辛辣だ。そんなに怒りを買うようなことを言っただろうか。ただただ賛美しただけなのに。
僕はまたもや大げさに、両の手のひらを上に向けて“やれやれ”のポーズをしながら言う。
「君が僕のことを耳たぶだけの男だと思っていたなんて、がっかりだよ。そりゃあ、確かに僕の耳たぶは魅惑的だがね。何ものをも受け入れる仏のフィットネスだがね。他にもっとあるでしょ、褒めるところが」
対して変わらぬ表情で篠里ちゃんが答える。
「ふむ。強いていうなら、あなたは、よいホルダー」
なんだそれ。
僕はしょせん耳ホルダーということだろうか。結局耳たぶに全価値が集約されるのか。
ちくしょうこの女、僕がいくら愛を訴えようとも一切どこ吹く風だ。いい加減長い付き合いなのだから、もうちょっとなびいてもいい気がするのだけど。
「そんなことより、あなたは、とてもさむそう」
なびいた!
「なので、ゆかい」
気のせいだった。
「ゆかいだから、もっとここにいるといい」
と思ったらなびいた!
「そしてわたしは、たてもののなかで、こごえるあなたをみまもりたい」
気のせいだった。
「あなたをみてると、とてもおちつくの」
どっちなんだこいつ!
すっかり手玉だよ。僕という純な男子の気持ちを弄ぶなんて、完全にお手玉気分だよこの女……僕が篠里ちゃんに、お手玉? うむ、わるくないかもしれない。
「いやいや、僕はこう見えてマンモス並みの耐寒性能だから。素でマフモフだから、裸で気持ちいいぐらいだから。それより君こそ大丈夫かい、ほら貸してあげるよマフラー」
「ことわる。うすらさむい」
「なんて失礼なんだ。僕が着ていたマフラーの何がうすら寒いのか。というかこれ、仮にも君からもらったものだからね」
「だから、ことわる。あなたは、そのマフラーがなにで編まれたかしらない」
「不思議な肌触りだとは思ってたけども。え、なに、そんなうすら寒いもので編んだの?」
「わたしも、しらない。ただ、その筋のひとにたのんだ。くびをしめるどうぐを、くれと――いっつ、めいどいん、呪術師。の、ろ、わ、れ、ろ」
「ヤル気まんまんでいらっしゃる! 僕そんなに嫌われるようなことしたかな!?」
全く思い当たる節は、いやまあ、ありまくるのだけれど。いやいや、あの、ある種気持ち悪いと言えなくもないかも知れない愛情表現は、あくまで表面的なスキンシップであって、本当はもっとこう、僕はプラトニックな思いの持ち主なのだけれど、しかしだからといって諸々の賛美が嘘なわけではなく、くそう、うまい言い逃れはないものか。
「それにしても、きょうはよい天気。まちが澄んでみえる」
思い出したかのように話を切り替える篠里ちゃん。
ここのベンチには背もたれがついておらず、フェンス側に座るだけで街の様子を眺望できる造りになっている。
篠里ちゃんの視線は、僕が今日ここを訪れた時から動いていない。ずっと同じ方向――屋上から見える街の景色を見ている。というか、視線どころか身じろぎひとつしていないのではないか。喋り方と容貌も相まって、すこぶる非人間的だ。
触れては、なにかの魔法が解けて、とたんに魂が抜けてしまうのではないか。そんな不安に駆られる。だから僕は、いつも篠里ちゃんとは距離を置いて座る。
とあるベンチの端と端。その間に敷かれたボーダーラインを、僕は怖くて越えられない。言葉だけが距離を誤魔化してくれる。
「いやあ、でも良い天気には見えないけどね。そりゃあ、篠里ちゃんの天使アイに濾されたものは例外なく浄化されるんだろうけど」
辺りに舞う冷ややかな結晶を掴もうとしながら僕は言う。けれど篠里ちゃんは無視して問いかける。
「ここからみえるもの。あなたにはどううつる?」
何を思っての質問なのだろうか。
「どうって。普通かな。どこにでもある良い眺めだよ」
「そう。ざんねんながら、どこにでもあるながめ。たとえば、あそこの豆腐屋のまえにとまるあれは、青ざめたかいぶつ。消化液をたれながし、どくけむりを吐く。ひとのこぶしなどものともしない、ぼでぃ。さいこう時そくは百をこす。おそわれたら、いっかんのおわり。こわい」
「まあ、自動車に轢かれれば死ぬこともあるね」
篠里ちゃんの表現は往々にして大袈裟だ。しかもあらぬ方向に。
消化液はガソリンで毒煙は排気ガスのことだろう。
「じゃあ、あの人はどんな感じ?」
僕はコンビニの前で暇を潰している若者を指して言う。
「かれて黄ばんだ髪、腰からちゃらちゃらはみでた腸、黒くおちくぼんだひとみ。あれは、ぞんび。こわい」
なにをどう解釈すればそうなるのか。
ちなみに僕には、髪を金に染め、腰からチェーンを吊るし、黒いサングラスをかけた、やけにチャラい兄ちゃんのように思える。さすがに屋上からだからよくは見えないが、そんなところだろう。
「ん……あれ?」
チャラい兄ちゃんから少し離れた路地に、妙な人物を見つけて思わず声が漏れる。
「どうしたか」
篠里ちゃんが興味の無さそうな平坦な声で聞いてくる。
「えっと、なんか」
僕はその人物をじっと見たあと、篠里ちゃんに向き直る。
「いや、気のせい、かな。……なんでもない」
色んな意味でよく滑る僕の舌だが、その時ばかりは歯切れが悪かった。
どうにも違和感がある。常に視界のすみを何かがチラついている気がする。新手の飛蚊症にかかったような感じ。
こんな気分になるのは今日が初めてではない。ここのところずっとそうだ。ふと思い出したかのように、どうにもいたたまれない気持ちになる。しかしいつも思い当たる節がなにもなくて、結局なあなあにしてしまうのだ。
そして今回もうやむやのまま流してしまう。
だって現実は嫌いだから。
「そういえば、今日はこんなものを持ってきてたんだ」
僕はカバンに忍ばせておいた弁当箱を二つ取り出す。
ひとつは青、もうひとつは赤。センス溢れるおそろの柄の包みだ。
「思い返してみれば、篠里ちゃんが作ってくれた弁当を食べたことはあるけど、君と一緒に食べたことはなかったと思ってさ。今日は僕が作って、みたん――だ」
今、なにかとてつもない違和感を感じたような気がする。ん、あれ? ええと、ここは屋上で、僕は僕で、彼女は篠里ちゃんだ。
うむ、問題ない。今日もきちんと間違っている。僕の目は節穴だ。頭をぐりぐりし、いつもの日常を調整完了。
僕は篠里ちゃんとの会話を再開する。
「ほう。みあげた、こんじょう。このわたしを、餌づけしよう、とな?」
「ハハハ。シンデレラも裸足で逃げ出すほど可憐な君を、僕ごときが餌付けようなんて、そんな恐れ多い。ちょっとしたチカンシップのつもりさ」
「ちかん?」
「おっと噛んだ」
本当に噛んだ。
「べんとうで、ちかんしっぷ、とな。なるほど、それは、あれね。……くちうつし?」
なんと大胆な齟齬だろうか。
「間違えた、スキンだよスキン」
「すきん? ふれあうのは、くちではなく、すきん? それは、ちかんですむの?」
「だいぶ跳躍力あるね、君の言語野。このぽんこつちゃんが」
「それは、ききずてならない。たしかにわたしは、ぽんこつ。だが、ざんねんながら、言語野はとばないし、とべないの」
「そりゃ跳ばないだろうけど。ぽんこつは認めるんだ」
比喩に対して真面目に返されると困る。この子の場合わざとか天然かもよくわからないけれど。
「あと、しんでれらは、きほんてきに裸足でにげるひと」
「え? ……ああ。そうだね、今さらそこ突っ込むのね。いきなり過去に跳ばれるとフリーズしちゃうな」
「だが、ざんねんながら、過去にはとばないし、とべないの」
「気に入ったんだ、それ」
「ざんねんながら」
無表情で言われても全く残念には聞こえないけれど。嬉しそうにも聞こえない。
「それにしても、そのべんとうの柄。なんというか、しつれいではない範囲でいうと、とてつもなく、ださい。うまく、ひとことでいえないけれど、その、すごく、ださい。しかも、ぺあるっくとか。わたしがあなたなら、穴があったら生き埋めになりたくなる。そんなもの、自慢気にだされても、こわい」
とてつもなく失礼だ。
「なんかもう、おわってる」
そこまで言うか。
さすがに傷つきそうだ。
こんなにクールなのに。ニヨニヨブルドック炸威華BONBA柄。
具体的に説明すると、恵比寿のようにニヨニヨしたブルドックの顔面が大量に、サイキックなエフェクトを撒き散らしながら爆散している柄だ。
「おわってる」
二度まで言うか。
「いやいや、大事なのは中身ですから。外見はむしろ、中身の良さを引き出すための引き立て役ですから。こんな終わってる柄を僕が好んで使うわけないじゃないか、ハハッ」
自分の趣向とは裏腹に一転しておもねる僕。
情けなくなんか、ない。
「なさけな」
この子はストライクゾーンが見えるのか。
そんな気持ちはよそに弁当箱を御開帳する。簡易で手頃なサイズの二段だ。下の段にはほかほかの白米、ではなくカンパン。上の段には色とりどりのおかず、を演出する缶詰食品一式。
「遭難するよていでも、あるの?」
もっともな感想だった。
仕方がないだろう、台所にこれしかなかったのだから。いいじゃないか非常食弁当。無尽蔵に買いだめ出来るから手間が減って機能的じゃないか。
しかし、見ようによっては不摂生に思われかねない可能性もなくなくない。なので咄嗟にいらぬ見栄を張る。
「なんだい、その反応は。世俗から隔絶された聖なる存在であるがために無垢で無知で、ちょっと世間知らずでアホな君は知らないだろうけど、これがいま風なのだよ。非常事態を連想させるこの弁当は、吊り橋効果という名の恋愛錯覚現象の恩寵をどうにか得られないだろうかと、かの先人が熟慮の末に生み出した至高の弁当なんだ。ちなみに吊り橋効果とは、意中の相手をその気にさせるために編み出された高等詐欺術のことだよ。引用、僕調べ」
「へえ。つまり、食欲ではなく、性欲をみたすためにつくられた、べんとうか」
「そういうことさ!」
「げどう。じごくにおちろ」
「……あれ?」
なぜか篠里ちゃんの好感度がいちじるしく下がった。今日も僕の舌の滑りは絶好調ということか。
「まあまあ。僕だって悪気はないんだ、許してやりなよ。ほら、涙目だぜ、泣いちゃうぜ。可哀想でしょうが。まったく君は大人げないな」
「ううむ。たしかに、かわいそう、ではある。ゆるしてしまおうか」
「ゆるしてしまえ」
「ゆるす」
「君がとんちんかんで助かったぜ」
「たすかったね」
僕らは和やかに笑い合う。篠里ちゃんは相変わらず無表情で笑い声だけ出している。笑い声というか、“は”の連続音にしか聞こえないけれど。
「ははははは」
「ハハハ。いやあ、篠里ちゃんと話していると飽きないな。僕の心を受け止めてくれるのはもう、この世に君しかいないよ」
なぜだかそんな気がする。
「もう、みんな、いないからね」
そこで、彼女は始めてこちらを向く。
その顔は笑っていた。
彼女はにこやかに、にこやかに問う。
小首を傾げて、心底不思議そうに。
「ところで、しのりちゃんって、だれ?」
◆◇◆◇
五十年前。
ちょっと変な性格な僕は、わりと変なやつらが通う学校で、微妙に変な日常を送っていた。どこにでもある、些細でおかしな青春。思い出はワゴンセールしたくなるほどあるけれど、まあ、妖精やら妖怪やら幽霊やらが出てくるだけで、取り立てて珍しくも面白くもないので割愛する。
人類滅亡を前にすれば、どんな小話もちっちゃなものだ。
事の詳細は、物語の主人公でも語り部でもない、ただの頭のイカレた小市民でしかない僕の知るところではない。
けれど、終わりの始まりの日は、僕も知っている。
ある日、綿毛のような白い粒が降ってきた。ひんやりしていた。季節外れの雪かと思ったが、体温にさらされても一向に溶けなかったので、皆が気味悪がった。
気味悪がっている場合ではなかった。
白い結晶は人の細胞を住処とし、侵食し、開拓した。開拓されたものは頭がおかしくなった。次々に理解不能な行動をとり始め、その奇行のバリエーションは豊かだったけれど、そのほとんどは誰かの悲しみと痛みに繋がるもので実に芸がなく下品だった。どうせイカレるなら、僕のように人畜無害なイカレ方をしろというものだ。
ついでに体もおかしくなった。食事を必要としなくなり、怪我をしても痛みを感じなくなり、致命傷を負っても気にしなくなり、ただ徘徊した。ある者は両目を失くしたまま、ある者は腸をはみ出させたまま彷徨い、髪の毛は枯葉色やうぐいす色、はしばみ色や灰白色に変色した。それはそれで幻想的で、それはそれは不気味だった。
白い綿毛に侵されたものは半不死性を伴ったが、しかし最終的には破壊性と排他性が上回り、人類はあっという間に目減りしていった。
ちなみに僕は黄土色と紅緋色の斑模様という珍奇な色合いに変色した。配管工ワールドに出てくる某キノコみたいで笑える。けれど、もともと頭がイカレていたことが幸いしたのか、それともアダとなったのか、僕を含めた僕の通っていた学校の友達の数人は正気を保つことに成功した――彼らは元から若干正気ではなかったため、正気を保つという言い方も変だけれど。
あいつら――僕の友達――と僕は、それ以上の症状の悪化を避けるため、安全な場所を求めた。そしてたまたま僕が良いとこの坊ちゃんだったため、親のツテで緊急避護施設なる建物に入れてもらうことが出来た。といっても僕以外の皆は、たまたま良いとこの坊ちゃんではなかったため、その庇護に預かることはできなかったけれど。その後の彼らの行くすえは想像したくない。もしかしたら今もまだどこかを彷徨っているのかもしれない。内蔵や皮膚を垂れ流しているのか、それとも化物に変態しているのか。そうでないことを願う。せめてあの幼馴染だけでも、無事に死んでいてほしい。
当時は、僕の友達を拒絶したお父サマに対して少々怒鳴り散らしたりも、ぶっ殺してやろうとも思ったけれど、今となっては遠い過去だ。庇護施設に避難した人達も、なんだかんだんで僕以外は全滅したので今更どうでもいい。
人類は抵抗した。
けれど、抵抗しようにも抵抗すべき相手の実態が掴めなかった。あの綿毛のような物体が何か特殊な菌類であるということだけはわかっていたが、結局人類は、犬かきのように手足をバタつかせながら種間競争の沼へ沈んでいったのだ。
そういうわけで、この街が打ち捨てられてから――人類が静寂してから四十八年後、僕は大変退屈していた。退屈を通り越して自我が揺らいでいた。
僕はへべれけのようにふらふらと、夢見がちな少女のようにぽわぽわしながら、いつものように避護施設の屋上に来ていた――屋上は外気にさらされるため出入り禁止なのだが、それは四十年以上前の設定である。今の僕は無敵なので関係ありません。味方もいないので、なお無敵。
いつの日からかベンチに座るマネキンに、僕は歩み寄る。
マネキン――篠里ちゃんは僕の話を何でも聞いてくれる。文句も反論もせずに黙って聞いてくれる。さみしいから少しぐらい反応しても良さそうなものだけれど、でもその過剰な奥ゆかしさも僕は好きだ。人形のように整った、というか精巧な顔も好きだ。僕の姿も世界も、辺りを漂う雪のような白い粒も映さない、やる気のない目も好きだ。
もちろん、何を話してもどうやっても無反応だけれど。
けれどいいのだ。これは僕の僕による僕のための日常ごっこ。ここには僕しかいない。なので、僕を騙せばそれで世界は変わる。僕さえ現実を見なければ、こんな現実は存在しないのだ。
僕は今日も今日とて理想の日常を開始する。
そう、始まりはこんな感じだ。
――とある日のとある屋上にて、僕らは今日も安っぽいベンチに並んで腰掛けている。
「ああ、君はどうしようもなくトレビアン。あまりの美しさに目が動かせないじゃないか。細胞の隅々までをも「ぐあああ、目が、目が良くなった上に陥没するううう! 保険会社からどういう理由で金を受け取ればいいのか!? というわけで、これは「なんだいなんだい、黙っちゃって。……はっ。さては君も僕という舞い降りた天使の美しさのせいで身動きが―、、、」
僕はペラペラとペラペラな言葉を繰り出し続ける。
「……」
それでも篠里ちゃんはぼんやりとしたまま微動だにしない。呼吸をしているのかどうか心配になるほど動かない。
いいさ、そうやってだんまりを決め込むというのなら、僕がしゃべり続けることでその溝を埋めよう。篠里ちゃんの口を割らすためなら僕は舌が裂けることもいとわない。
と、僕の愛情索引が本格的に火を噴く前に、篠里ちゃんの桜の蕾のような唇が開く。
「みみ、かして」
――――。
あまりの益体の無さに反応が遅れる。
「えっと、なんで?」
なんでしゃべってるの?
篠里ちゃんはマネキンで、でも篠里ちゃんは篠里ちゃんだから、あれ? 頭がおかしくなりそうだ。何が現実で何が夢で何が記憶か、わからなくなる。
ああ、僕の精神もついに限界に来たのかな。ついにというか、ようやくというか。
別にいいか。誰だっていいじゃないか。篠里ちゃんは篠里ちゃんだ。今はもういない、僕の幼馴染。でも今は目の前にいる。
だからこの茶番を続けよう。
目覚めの日がなるべく遠いことを祈って。
「ところで、しのりちゃんって、だれ?」
しかし目覚めの日は意外と近かった。
というか今日だった。さっきの今なのに。
◆◇◆◇
ある日のこと。
わたしはだれかをさがして、へんな施設にはいった。いりぐちが、これみよがしに開いていたのでしかたがない。あれは、さそっていたね。
なんか、すごいの。なんというか、とてもかたそう。わたしの暴力ではかてないくらい、堅固なせきゅりてぃ。
なんといっても、あたたかい。だからわたしは、おちつくことにしました。
ところで、わたしはつかれていました。
むりもない。怒涛の旅路であった。東はへんなケダモノがおり、西はへんなぞんびがおり、北も南もへんな雪がおり、古今東西世紀末。
ところで、わたしはとおいところがすきだ。
屋上というのは、とおいところを、ぞんぶんに味あわせてくれる。いっつ、めいどいん、屋上。なのでわたしも、ぞんぶんに眺めまわしてやるのだ。それがわたしの、まいにち健やからいふ。
だからわたしは、のぼったの。かいだんはながかったけれど、これまでほどではなかった。
あしが、すすむすすむ。なぜならとびらのさきは、ながめのよい屋上。それは、とってもゆーとぴあ。
しかし好事魔多し、扉の先に相対するは我が不倶戴天の敵、まねきん。ベンチ上に居丈高に鎮座ましましていた。幾千の魑魅魍魎を屠りし一粒万倍なる我が一手をして、きゃつの前には穂をなさず、されど勇断なき人は事を為すこと能わず。
なので、べんちにあったそのまねきんをふっとばす。ちゃーじ、という。たいあたり、ともいう。じゃまだったので。つづけざまに、よいしょ。こわれていたふぇんすの間から、まねきんをぶんなげる。
ひゅーん、ぐしゃ。ふふふ、愉快。きたねえはなびだ。
おそるべき敵も排除したので、わたしはこころゆくまで、ぼーっとする。
しかしわたしは、どうしてここにきたのか。
屋上からの景色を眺めたかったから?
いやいや、べつにここ以外にも、もっと眺めのよい場所はある。ちゃんとはたらけ、わたしのぽんこつ脳。
私はわたしのイカレた脳を叩いてチューニングする。
うーん。
私は、どうしてここに来られたのか。
まるで当然のようにこの施設に足を踏み入れたけれど、私はここにこんな施設があるなんて知らなかったし、手がかりもなかった。けれど、すでに万年夢遊病者のように成り果ててしまっている私だけれど、道すがら、確かに何かの意図があって私はここまで来たのだ。私の足を、記憶の奥の何かが突き動かしたのだ。
なんだったっけ。
まあいいや。おもいだせないもの。余計なことをかんがえるのは、つかれる。
それより、この施設はすごい。まさか今時、これだけ機能を保持している施設があったなんて、驚きだ。食料も豊富そうだし、しばらく身を寄せるには最適の場所。
屋上もあるし、もんくなし。しかし、ほかにだれかがいてくれれば、もんくないのだけれど。
さみしいなあ。くちがさみしいなあ。しばらく、しょうかきかんとしての機能しか、はたせていないからね。
ああ、あのまねきんがいなくなってしまったことが、くやまれる。よい話あいてに、なったろうにね。なぜ、とびおりたのか。なぜ、あのまねきんはわたしに相談することなく、とびおりたのか。なぞだ。……いや、わたしがぶんなげたのか。なぞじゃなかった。このぽんこつ脳め。
さてはて、することない。
ので、やはりぼーっとする。
おなかがすくまで、ぼーっとする。
それがわたしの、あいでんてぃてぃ。
していると、だれかがふらふらやってきた。
振り返るとそこには、変な髪の色をした人が立っていた。ちょうど私も変な髪の色なので親近感がわく。
歳は二十代後半ぐらいか、どうかだとおもうけれど。あまり、あてにはならない。あの日から、にんげんの老化は、すごくおそくなったから。
「……」
わたしは、だまっておとこをみる。でじ、ブ。でじゃあぶ。でぃじゃんぶ。なんだったか。
ひとがいる。人がいる。
足も手も付いているし、全身緑色でも黄色でもないし、髪の毛は変だけれど、きちんと両目もついている。消化液も垂らしていないし、毒煙を撒き散らしてもいないし、怪物に変態してもいない。五体満足の、まともな人。
たまげたどっこい。
えーっと。
わたしはうまく、ことばがでない。ずっと、たべるいがいにつかわなかったから。あたまも、あまりつかわなかった。だって、イカレてるから。
なんだか、うつろなひとみだ。おとこは幸せそうに、わらってる。でも、目だけわらってない。この世ではないこの世を、みつめる瞳。
きも。
わたしが、かがみのまえで、いつもみる瞳。
あれは、きもい。
おとこは、私を見ていない目で私を見つめる。そして、べんちの端にすわる。そこには見えないボーダーライン。べんちの端で、おとこは何を見るのか。べんちの端で、私はどう見られているのか。
男はにやにや軽薄に笑いながら、こちらを見つめ続ける。そして、いつかの記憶を手繰るように目を泳がせる。あなたは今、いつを見ているのですか。
おとこの口が万を持して開く。
「ああ、君はどうしようもなくトレビアン。あまりの美しさに目が動かせないじゃないか。細胞の隅々までをも観察したくて思わず視力が上がっちゃいそうだぜ。そうなったら視覚への刺激が強すぎて陥没するかも知れない」
おもいのほか、しゃべるしゃべる。こわい。おもいのほか、こわい。にんげんって、ふつう、こんな風だっけ。
わたしはあまりのできごとに、だまりこくってしまう。
「ぐあああ、目が、目が良くなった上に陥没するううう! 保険会社からどういう理由で金を受け取ればいいのか!? というわけで、これは君のせいなのだから君が責任を取りたまえ。生涯の伴侶として、ね」
おとこはのけぞりながら、そういう。
いや、これはふつうにきもい。
二の舞にしてやろうかな。まねきんの。
けれど、それはさすがにめんどくさいので、
「みみ、かして」
「えっと、なんで?」
わたしは、いう。四十八年ぶりの、笑顔で。
「手頃に、ちぎれそうだから」
おとこは、とてもおろどく。
たのしい、りあくしょんだ。
なつかしい、気がする。
どこかの学校で、いつかの青春。
あの日も、今日みたいな、白くてつめたい雪が舞っていた。
今日は、ちょっとへんな雪だけれど。
まあ、ゆるす。
「ゆかいだから、もっとここにいるといい」
私は私に、そう言い聞かせた。
ところで。
しのりちゃんって、だれだろう。