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ツインズバインド  作者: クダラレイタロウ
第三章・笑美
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最後の声

身体を起こしたのは、これで何度目だろうか。

この部屋の中だけは、もうすっかり私のものに埋め尽くされている。

実家にいた時に使っていた、消臭効果付きの芳香剤も置いてあるから、匂いだって嗅ぎ慣れたものになってる。

だけど、ここは他人の部屋。

それも、会って間もない、よく知らない男の人の。その事実が、今も私の意識を途切れさせずにいる。



振り返ると、ドラマみたいだよなあって、他人事みたいに思った。目まぐるしかった。


私の話を聞いた宇賀神さんは、驚くべき行動に出た。

採用も担当していた彼は、私の履歴書を引っ張り出してきて、履歴書に書かれた住所、(すなわ)ち、漉磯先輩の部屋に乗り込んできた。

戸惑いながらも、ずいぶんガラ悪く応対した漉磯先輩を殴り飛ばし、半ば強制的に私に荷物をまとめさせ、部屋から連れ出した。

私が荷物をまとめる間、何度も漉磯先輩は反撃に出ようとしたけど、完膚なきまで宇賀神さんはそれを阻んだ。

荷物をまとめながら振り返った時、その光景にぎょっとする。

宇賀神さんは、立ち上がろうとする漉磯先輩の頭を、蹴りつけるどころか、もはや踏みつけるようにしていた。いかにも底の硬そうな革靴で。いくら何でもそれは、無慈悲過ぎる気がして怖かった。


――東京の男の人は、怖い。


漉磯先輩にしろ、宇賀神さんにしろ、とんでもない冷酷さが裏打ちされているような印象が拭えない。

漉磯先輩の部屋にいるよりは絶対にマシなんだろうってリクツでは分かっているけど、やっぱり寝つけそうにはなかった。

宇賀神さんは、私を漉磯先輩の部屋から連れ出すと、一旦、自分の部屋に住まわせた。

正社員と言うだけあって、漉磯先輩の部屋より、キレイさに重ねて広いし、部屋数も違う。

使ってない部屋があったみたいで、そこにしばらく住まわせてくれるとのことだった。

「まあ、石野さんくらいの時間数なら、すぐに一人でもやっていけるようになると思うよ」

何かちょっとしたデジャヴに思えた。これは、漉磯先輩と同じパターンじゃないだろうか。

『適宜バイトは探してくれよ。いつまでも置いとけないからね』

宇賀神さんに先輩のことを告げて間もなく、給料日が来た。そろそろ一人暮らしできる額に達しそうだって言うのを悟ったんだろう、漉磯先輩は結局、バイトが決まった私を離そうとはしなかった。

バイト代は生活費だと言って、ある程度の額を奪われてしまったし、不動産のチラシは破り捨てられた。

銀行口座を開設できない私は、給料を手渡しで貰っていて、隠す場所も取り立てて無かったせいで、給料袋を取り上げられた。終いには「これで足りるだろ」と、私が稼いだお金なのに、小遣い制にさせられた。

そのことを思うと、不安がどうしても勝ってしまう。



――まだ、十一時か。時計を見て、夜の長さにヘキエキしたのがきっかけだった。

こっちに来てから新たに契約し直した携帯電話を灯りにして、手帳を開く。

電気代を払っているのが宇賀神さんな分、電気を点けるのは憚られた。

こういう細かいところにまで余計に気を配ってしまうのは、たぶん、抜け目なく難癖をつけてくる保のせいだった。

苦々しい気持ちになるけど、今はそれでいい。手帳は、表紙にデコレーションしていたパーツがいくつか剥がれて、美しくなくなっていた。

つい、出てくる電車内で開いて、寛軌先輩に嫌な顔されたのを思い出して、ちょっと嫌な気分になる。

そう言えば、必死でここまで生きていたけど、家を出てきてから何だかんだで結構経ったんだな、と実感する。写真を裏返し、そこに書いていた番号を眺める。声が、聞きたかった。


珍しく九時~十八時の勤務を終えた宇賀神さんは明日も早いらしく、既に寝室で眠っている。

物音で起こさないように、私はこっそり部屋を抜け出して、公衆電話を探した。


『……もしもし』

携帯電話でかけて、新たな番号に保とかから折り返しが来たら、困る。

必然的に非通知と出たであろう番号からの着信に、当然ながらるんの声は警戒していた。

だけど、その声を聞いただけで、一気に何かが氷解していくような感覚があった。

私の、唯一の家族。

家族の力って、すごい。寂しさも超越して、全身に張り詰めさせていた緊張感が、するすると面白いほどに溶けていく。

その並々ならないパワーが災いして、いとも簡単に涙が出てしまう。

「るん、私。エミ」

無言電話と思われて切られてしまわないように、泣き声を隠すこともせずに呼びかけた。

昔からるんだけは私の涙を受け止めてくれていた。申し訳ないんだけど、あの子にだけは泣きたい気持ちを隠せないできた。


るんはすぐに返答しなかった。驚いたのかも知れない。家を出て行ってから、連絡を取ったのは初めてだったから。

「久しぶり。ごめんね、夜遅くに」

涙が止まらないのに、笑顔が零れる。涙が止まらないのに、ずいぶんと久しぶりに心の底から笑みが零れた実感があった。

大きく引いた口の端から、涙が歯茎に伝染していく。おもちゃみたいに大きな黄緑色の受話器を持つ腕が、早くも痺れてきた。

首と肩でごつごつとした受話器を一瞬挟んで、持ち替える。押しつけた受話器は冬の冷気に当てられて、同じく冷やされた頬にも冷たかった。

そのストロークの間に、向こうからようやく返答があった。

『……ううん、いいよ』

電話の向こうは静かだった。たぶん、部屋で勉強でもしていたんだろう。時期的に見れば、高校ではテストが近くもあったはずだ。

「元気? るん」

涙を拭きながら、問う。突然、電話をしたのに、るんがフラットな応対してくれたものだから、深く、深く安堵してしまう。

家出の理由(るんには分かりきっているとは思うけど)や、今どこにいるかとか、そういうことを訊いてくる様子が一切ない。

声を聞いた途端、保や篠美ちゃんに代わられてもしょうがないよな、とすら思っていたんだけど、そんな様子もない。

『ああ、うん、僕は元気だけど……大丈夫?』

きっと、泣いているのがバレたんだ。隠すつもりも無かったけど、きちんと気付いてくれたことに喜びを覚える。

こんな折にも、私を気遣ってくれているのがまた嬉しくって、せっかく整ってきた呼吸がまだ涙で乱れていく。

るんは、やっぱり私の味方だ。私を連れ戻そうって言う気概みたいなものは、ここまで聞いていてもまるで感じられない。

「だい、じょうぶ。ちゃんと、生活も……できてるし」

半分嘘だけど、これ以上変な心配はかけたくない。るんにしても、両親にしてもニュアンスは決定的に違うけど、そこは共通するところだった。


本当なら、訊いてもいいことはいっぱいあった。寛軌先輩が連れ戻されたって言う情報は入っているか、そのことで漉磯先輩のところまで捜索の手が伸びていないか。

私がいなくなったことで、家の中がどうなっているのか。保や篠美ちゃんの様子は。

家出したことを、るんはどう思っているのか。だけど、そんなことは全部もう、どうでもいいことのような気がしてきていた。

『でも』

追いすがるように、るんが声を掛けてくれる。

「違うの。ごめん、るんの声が、懐かしかっただけなの。……家を出ておいて勝手かも知れないけど、私、るんだけは唯一の家族だと思ってるから」

別にこのまま永遠に別れる訳でもないだろうに、するするとそんなクサい言葉が出てきた。

だけど、このタイミングでこれを伝えることができたことを、私はその先一生、後悔しないで済むことになる。


心からるんに想いを吐き出せたことで、明日からまた強く生きていけると、微かな確信が胸を埋め始めていた。

東京にいる他人が信じられない状況だからこそ、今は思う。

るんがいるから、離れた場所にいたとしても、家族だと思える人がきちんと正しく生きているから、道を外した私もきっと強く生きていける。

『……元気なんだね』

拍子抜けしたのか、泣いていた私の声を聞いて張り詰めていた様子のるんの声がここに来てようやく緩んでくれる。

久しぶりだったからか、るんの声も心なしか震えていた。うん、と首まで振って強く頷く。

日本人は電話越しでもお辞儀をする。電話だから、向こうの人に見える訳でもないのに、と不思議がる外国人の話を聞いたことがある。

そう言えばそうだねえ、と友達とその時は笑っていたけど、本当は違うのかも知れないって今は思う。

声でしか気持ちを伝えられない中で、身振りまでつけるくらいの気持ちで話すからこそ、気持ちがこもるし相手にも伝わるんじゃないだろうか。


それから、二言三言話して、私は電話を切った。

最後まで、探りを入れてくるような様子は無かったし、寂しがるような言い方すらるんはしないでくれた。

私にとって重荷になるようなことを、るんは全部避けてくれたんだと、そう感じられた。


電話ボックスを出ると、ぬっと大きな人影が見えてぎょっとする。

目を凝らすと、電話ボックスの微かな光に当てられて、宇賀神さんの顔がぼんやりと見えた。

「……いなくなったかと思ったよ。石野さんって、あんな風に笑うんだね。可愛くて、びっくりした」

学校の教科書に載ってた『走れメロス』のメロスみたいに、私はひどく赤面した。

応えられないでいると、宇賀神さんがこの優しい夜闇に似合うふんわりとした手つきで、手招きする。

「このへんは、あんまり治安良くないから、一緒に戻ろう」

なかなか電話ボックスが見つからなくて、十五分くらい歩いたけど、一人で出歩くのってそうか、危険だったのか。

妙に納得しながら、振り返り歩き出した宇賀神さんを追いかける。

笑ったのを見たと言うことは、同時に泣きながら電話していたのも見ていたのだろう。道中、宇賀神さんが問う。

「電話の相手って、彼氏か何か?」

弟です、と正直に答えた。何でわざわざ電話ボックスを探したのかは、訊かれなかった。


戻った宇賀神さんの部屋が、他人の部屋だって言う事実は何も変わらないのに、るんのお陰で、私は東京に来て初めて、ぐっすりと眠ることができた。




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