記憶の代償(七)
まだ私が話の内容全てを聞いていない可能性に賭けようとしたのだろうか。
陛下とアルフレッドは顔を顰めたまま、何も答えようとしない。
私はもう一度そんな彼らに向けて口を開いた。
「始末って、誰を? 何勝手なことを言っているの?」
「エリカ」
「そんなの駄目よ。私が、させないわ。絶対に許さない!!」
困惑が、段々と怯えに代わり、ふるふると大きく頭を左右に振りながら私は両腕で自分の体を抱きしめ、取り乱そうとする自分を必死に抑え込む。
思いっきり不信感に満ちた視線を陛下たちに向けると、陛下が「とりあえず落ち着け」と手を伸ばしてきたけれど、私は丸め込まれてなるものかと勢いよくそれを振り払った。
その私の反応に陛下が顔を顰める。
だけど、私はそれを無視して、二人を睨みつけた目を逸らさないように意識して続けた。
「どうして? どうしてそんなに酷いことを簡単に言うの? そりゃあ、貴方たちにとってエリカの両親は何の価値もない存在でしょうし、私を使って、お金や力を欲しがることも、そんなものに目が眩んで誰かに唆されてしまうのも、愚かに見えるだけかもしれないけれど、」
何故だか、頭の中に思い浮かんできたのは私が純粋に、あの人たちの娘であった頃の微かな記憶。
決して裕福ではなかったと思う。それでもいつも私を囲んで穏やかに笑っていた両親の姿が毎晩夢に見る困惑と動揺、そして拒絶を露にする姿へと移ろいで。そんな私たちを壊したのは誰? と、涙を流した“母”が詰るように私に問いかけてくる。
「ただの、ちょっとした出来心かもしれないのに。あの人たちは、ちょっと欲に目を眩ませただけか、……私、を恨んでいるから、お金くらい寄こせって、そう言っているだけだわ。深い意味なんて何もないの。誰かと繋がりを持っていたとしても、それがどれほど悪いことなのかなんて理解していないのよ。だって、」
眉をひそめてじっとこちらの言い分を聞いている陛下たちに向かって、私はどうしたら彼らを庇えるのか言葉を探しながら、震える唇を懸命に動かす。
「だって、あの人たちは知らないんだもの。何がどれほど国にとって悪いことで危険なことなのかなんて。国を治める側の人間ではないんだから分からなくて当然じゃない。なのに、性質が悪い人たちと繋がっていたら? それだけでもう、あの人たちは殺されてしまわないといけないの? 関りがあったとしてもどうせ上手いこと誑かされているだけなのに。悪意を持ってあの人たちを唆そうと近付く貴族たちは? 貴方たちの言う“貴族たちの力関係”の為にある程度は見逃されてしまうんでしょう? なのに、どうしてあの人たちだけが駄目なの? 利用しようとする側より利用される側が悪くなるの?」
どうして、あの人たちだけ、そんな簡単に殺してしまおうとするの?
そう問い詰めようとして、
だけど私はそこでふとその理由に気が付いた。
殺してしまったところで害がないからではないのだと。
その逆だ。
陛下たちにとっては彼らを“生かしておくこと”が危険で邪魔だから、“始末”しなければいけないのだと。
さっき、陛下とアルフレッドが話していたのはつまりそういうことだったじゃないか。
そもそも、貴族たちがあの人たちを利用しようとしているその原因は――。
「……もしかして、私が、王妃になんてなったから?」
もし私が、王妃にさえなっていなければ。
ううん。それだけではなくて、王家とあの人たちを血縁という揺るぎのない確かなもので繋いでしまうこのお腹の子を身ごもらなければエリカの両親は貴族たちにとって何の利用価値もなかった。
彼らの行いが民の、王家への批判の種になろうはずも、勿論ありはしない。
つまり、全ての元凶は、……私?
呆然としながら陛下を見つめたけれど、陛下は口を結んだまま黙って瞳を伏せただけではっきりとした否定も肯定もしない。
けれど、どう考えても私が庶民として生きることを選んでいたら、こうして消さなければならないと思われるほどにあの人たちの行動が陛下たちから危険視され邪魔に思われることになどなりようがなかった。
ああ、そうだ。
今更、気付いたその事実に、背筋にぞっと悪寒が走る。
「そんなつもりなんて、私、なかったのに。あの人たちを巻き込むつもりなんて……」
小さく震える両手をこめかみに添えて一歩後ろに足を引いた。
なんで? なんでなんでなんで――。
真っ白に染まる頭を支配するのはそんな問いだけ。
「なんで?? もう、私とあの人たちは縁を切ったはずだったのに。もう、何も関係がないはずだったのに。どうしてこんなことになっているの!? 私のことなんか忘れてなかったことにして暮らしていてほしかったのに……、私のせいで、今度は本来ならないはずのたくさんの誘惑と危険にあの人たちを晒しているの? それでそう仕向けた私は? ここでロザリー達に護られて安全に過ごせって? 冗談じゃないわ。そんなの許されるわけないじゃないっ! こんな代償があるなんて、何で最初に教えてくれなかったの!?」
違う。
こんなの八つ当たりで、そもそもそのことに全く思い至らなかった私が莫迦だっただけだ。
だけど、
「それなら私、王妃になんてなっちゃいけなかったのに……! この子だって欲しくなかっ」
「エリカっ!!」
突然陛下があげた怒鳴り声にびくりと私の体が動きを止める。
「まだ何かが伝わることはなくとも、子を傷つける発言は許さない」
鋭い瞳で睨まれながら冷たくそう言い放たれて、私は「あ……」と、自分が何を言おうとしていたのか気が付き青くなる。
「……ごめんなさい」
本当に私は一体何をやっているのだろう。
不安や躊躇いはあっても、この存在を否定したいわけじゃなかったのに。
『貴方達なんて要らないっ!!』
あの時もその言葉で壊したのに。
なんで私は懲りもせずに同じ過ちを繰り返そうとしているのだろう。
どこまで私は愚かなんだろう。
そう思うと再度繰り返した「ごめんなさいっ」という我ながら情けない声と一緒に嗚咽が漏れて、じわりと目が熱くなる。
こんなどうしようもない自分に絶望しかなくて、足からずるずると力が抜けて、その場にへたりこんだ。
もう嫌だ。
こんな手詰まり。
涙が、床に置いた自分の手に落ちてくるのを感じる。
それでも私は、動きを止めて逃げ出そうとしている思考を必死に引き留め、自分がどうすればいいのかを考えさせる。
今のままではいけない。
ならば、私が王妃を退いたなら? そうすれば全てが元には戻らないにしろ両親のことは解決しないこともないかもしれない。私にも、両親にも、利用価値はなくなるから。
だけどそれではこのお腹の子をレストアの王族として産んであげられない。この子の存在を明らかにすれば、結局王家とエリカの両親の繋がりを断てないままだもの。実行するなら、まだお腹の子のことを公表していないこの段階。少しでも早く陛下と離縁でも何でもして、どこか遠くにでも身を隠してしまう必要がある。
でも、
陛下はやっぱりもう私のことなんか呆れ果てて好きじゃなくなっているかもしれないけれど、お腹の子のことを私よりもずっと考えてくれていると、言葉の端々から感じることが出来る。
そんな陛下が私の勝手でこの子をここから連れ去り、不自由な生活を強いてしまうことを果たして許してくれるだろうか。
この子だって嫌かもしれない。男の子であれば陛下の世継ぎにだって成り得るのに。
だけどぐるぐると上手くまとまらない頭でどんなに考えても他に何も方法が思いつかなくて、やっぱりこの方法しかないと、陛下がこちらへ一歩踏み出す気配を感じた私は顔をあげて決意を固め、床に置いた手を強く握りしめた。
私の、不安と悲しみでいっぱいになった心が必死に抵抗しているのを無理やり抑え込んで、じっと彼の目を見つめる。
「陛下」
「なんだ?」
「私、王妃を辞めて、このお城から出ていきたい」
私を上から見下ろして冷たく応えた陛下に私はそう訴えた。
言葉にした瞬間更に分厚く涙の膜がジワリと瞳を覆い、滲んだ視界の向こうでぼんやりと、陛下が苛立たし気に額を抑えて大きなため息を吐いたのを感じる。
「そんな無責任なことが通るものか。それに、その腹の中にいる子はどうするつもりだ。俺は産まない選択など許すつもりはないからな」
ああ。やっぱり。
案の定な形で呆気なく一蹴されて。
それでも、どうしてもここで引き下がるわけにはいかなくて、私は必死に訴える。
「でも、私、このまま王妃ではいられないわ。だってこのままじゃ、あの人たちがっ」
だけど、
「エリカ」
と。
陛下の声に遮られて。
「お前の両親は、お前を捨てた人間たちだろう? なのに、何故そんなに守りたがる? どうしてお前がそこまでしたがるのか分からない」
苦々しげな声に微かな困惑を滲ませた陛下の問いかけに、私は思わずびくりと小さく体を震わせて彼から顔を逸らす。
いやだ。
こんなこと、知られたくない、けど。
「だって……、私が奪ったから」
握りしめた手を更に強く握りしめて小さく吐き出すと、陛下が私の前に膝をついて逸らしたはずの視線を合わせてきた。
そうすると、追い詰められ自暴自棄になった心と己の懺悔する心がもう隠しておくことを許してはくれなくて。出来ることならこのまま陛下には知られたくなかった自分を私は白状するしかなくなり、半ば叫ぶように口を開いた。
「私が奪ったの! “両親”から“娘”を。夢が記憶だって気が付いた時、私、混乱して、なんで私、ここにいるんだろうって。ティアとしての自分が勝ってしまって、ティアが死んだなんて、もう戻れないなんて信じたくなくて、要らないって。あの人たちも、エリカである自分も、要らないって否定して、拒絶してしまったの。『私のエリカを返して』って母は泣いたわ。だからっ」
もう、過去の過ちに対しては今更独りよがりに贖罪したところで何も戻ることはないけれど。
「大切なもの、全部あげるから。この場所も、王妃である自分も、あの人たちがお金を欲しがっているなら私の全財産も。全て差し出わ。私は何もいらないから。私が全てを捨てることであの人たちが普通に、平穏に暮らせるなら何でもする。だから、お願い陛下。これ以上私に、あの人たちから奪わせないで。私のせいで命まで取らないでっ」
「お願いだから……」という力ない私の声がしんと静まり返った執務室に、抑えられない嗚咽とともに響く。
その張りつめた静寂を破ったのは陛下。
「見事なまでに自分のことばかりだな」
冷たい声でそれだけ言って、陛下は再び立ち上がり私を見下ろしてくる。
完全に怒っているらしい陛下の視線を受けて、私はもう身を小さくして俯くことしかできない。
「で? そうやって今度は俺からお前を奪うつもりか」
「え?」
吐き捨てるように言われた言葉がどういう意味か分からず思わず聞き返した私に、だけど陛下はそれを無視して手を差し出し短く命令してくる。
「立て。エリカ」
力が抜けてしまっていて立ち上がるなんてそんな気は起きないし、何も返事を聞いていないのにと、私は力なくふるふると首を横に振った。
そんな私の気持ちを読んだのか、陛下から「お前の望み通り殺さないから」とそう言われて。
「本当に?」と尋ねた私に、陛下はあっさりと「ああ」と頷く。
自分で言い出したくせに拍子抜けするほどに呆気ないその終わりに半ば呆然となりながら、私はそろそろと、差し出された陛下の手へと自分の手を伸ばした。
私を引っ張り上げ、だけどその手はすぐに離される。
陛下が私に向けてくるのは先ほど見せていた怒りを消した、けれど、逆になんだかとても怖く冷たい無表情。
「話をしたい」
私はその陛下の言葉に顔を強張らせて、こくりと小さく頷く。
そこで、陛下の後ろに控えていたアルフレッドが機を見計らっていたように陛下へと声をかけた。
「では陛下。私は失礼することにしますが、くれぐれも」
「お前の言いたいことは分かっている。自棄を起こしたりはしないから大丈夫だ」
「そうですか。それでは、ロザリー」
振り返り返事をした陛下にアルフレッドは瞳を伏せることで頷き、続き間の方からこちらを覗き見ていたロザリーを促す。
ロザリーは不安げに瞳を動かして私と陛下を交互に見ながらおずおずと私の前へと進み出て「あ、あの、王妃様は……」とどうやら私を庇おうとしてくれているらしく陛下に向かって口を開いた。
内心、私でも怯んでしまっている陛下相手なのに一生懸命頑張ってくれようとしている姿に、いい子だな、と嬉しく思ったけれど、あまり無用なことは話されてしまいたくなくて私は「ロザリー」と名を呼んでその口を止めた。
そして心許なさそうに眉を下げる彼女へと頷いてアルフレッドと共に退室するようお願いする。
後ろ髪引かれるようにこちらを振り返りながら扉に手をかけたロザリーに続いてアルフレッドも一礼して退室し、部屋にはいよいよ陛下と二人きり。
気まずい空気の中、促す言葉に大人しく従って私はソファに腰かける。
だけど、ソファを勧めた陛下は少し離れた場所で腕を組みこちらを見据えたまま動く気配はない。
話って、一体何だろうか。
あの人たちを殺さないでいてくれるということは、つまり陛下は私の要望をのんでくれたということで私はもうここにいてはいけない。ならばさっさと出て行けと、これからの日程を決められるのだろうか。
私も。これからどこに行こうか考えなければいけない。兄上に頼ったところできっと同じような問題が起きるからそうするつもりはない。一人で子どもを産んで育てながら生きていける場所……。
王都やマリアの実家の領地であるウェルタンなら豊かで畜産の仕事も沢山ありそうだし理想的だけど、さすがに陛下たちと繋がりのある土地というのは避けたほうがいいかもしれない。ならば、製糸と紡績業の盛んなヴァトグリフがいいだろうか。それともいっそこと国外か。
どちらにしろ、深窓のお姫様だった前世と違い今の私なら、自分と、子ども一人を養うことくらいならどうにか出来るとは思うんだけど、妊婦というのは今まで経験したことがなく、いまいち勝手がわからないからその点は不安だ。
そんなことをぼんやり考えていると、陛下から「何を考えている?」と声がかけられた。
私はその声に、そろりと陛下へと視線を戻す。
「お城を出て、一人で子どもを育てるならどこがいいかなって」
「誰がお前を城から出してやると言った?」
「……え?」
すっかり、もう追い出される気満々だった私は陛下の言葉に思わず首を傾げた。
「だって両親は殺さないって、さっき……。それに、貴方は私のこと、もう好きじゃないでしょう?」
だから陛下は頷いてくれたのではなかったのか。
それともやっぱり陛下は私の、お腹にいる子どもを手放したくないのだろうか。
そう思った私に、陛下は何故だか顰めた顔に困惑の表情を浮かべている。
「……何故、俺がお前のことを愛していないことになっているんだ?」
「え? だって……」
何故って??
「私、上手く貴方の優しさに甘えられなくて、あれ以来こっちに来てくれなくなったし、両親は面倒事を持ち込んでくるしでうんざりしたかなって。挙句の果てに、一方的な要望をぶつけて、確かに自分のことばっかりだし」
「……自覚はあったのか」
目を眇め陛下が呟いたのに、私はこくりと一つ頷く。
なんだか本末転倒で自ら離縁したいと申し出ることになってしまったけれど、そうだ。そもそもは。
「それに貴方はさっきからずっとお腹の子の心配しかしてないもの。なのに私は……。貴方との赤ちゃん、嬉しいなって思うけれど、最近ずっと昔の、私が両親を切り捨てたときのことばっかり夢に見て、私なんかがこの子を大切に思っていいのかも分からなくなって、どう向き合えばいいのか不安で。ちゃんと喜べてなかったの、やっぱり気付いて幻滅したんだろうなって、私……」
ここに来てそんな確信に変わってしまった。そしてここに来てからもまた充分やらかした。
振り返れば自分で思っていた以上に酷くて落ち込む。
こんなの、嫌われてしまって当然じゃないかと歪んだ顔を俯ければ、それを防ぐように目の前に来た陛下が私の頬に手を当ててそのまま力を加えて上を向かされる。
ジッと私の瞳を見つめてくる陛下に俄かに動揺していると、頬にあった手は私の耳に移動してそっと触れた。そして私の反応を確かめるようにその手を、目、鼻、最後に唇へと滑らせて、陛下は私を覗き込みながら「嫌か?」と尋ねてきて、私はそれに首を横に振って答える。
触れていた手を再び頬に戻し、代わりに陛下が唇に落としたのは優しい口付け。
ゆっくりと離された唇に、動きを止めていた頭が再び動き出し、「え?」と私が目を瞠って驚いていると、私は陛下にそのまま胸に抱きこまれてしまった。
「嬉しくは思っていたのか……」
「な、に?」
「子どもの事」
「……」
別にいいけど、と思いながら、私は素直にこくりと一つ頷いた。
すると、私を抱きしめる腕の力が少しだけ強くなる。
「正直、うんざりしているしがっかりもしているが、お前をもう愛してないとは言っていない」
「言ってないだけでしょう?」
「思ってもいない。お前こそなんでそう決めつけて思い込もうとするんだ」
「だって、うんざりしてがっかりしているんでしょう? だから来てくれなくなったんでしょう? それにアブレンの侍女も言っていたわ。お妃を世継ぎを産む道具にしか思ってない王様なんてたくさんいて、懐妊すればもう用無しだって、その途端見向きもされなくなるなんてことも珍しくないって。引き留めたいのはこの子の方でしょ?」
「……つまり、エリカは俺をどういう目で見たいんだ」
はぁ、と深いため息が聞こえて、私を抱き込んでいた両手は私の肩に移動して引きはがされる。
そしてあろうことか私を一度抱き上げて、ソファに腰を下ろした。その膝に私を横抱きに乗せて。私と視線を合わせる。
私の再び潤みだした瞳に、陛下の濃い青の瞳だけが滲んで映る、それほど近い距離で。
「確かに、少しでも早くどうしても子どもが欲しかった。折角出来たのなら無事に生まれてきてもらわなければ困ると思っている。だが、それは俺がお前を手放したくないからだ。この存在を盾にすればこうして、お前が嫌がってもここに留まらせる理由が出来るから、欲しかっただけだ。俺は子どもが欲しいんじゃない。お前と育てる子どもが欲しいんだ。意味が分かるか?」
まるで私が言葉を理解できないとんでもないバカのようにわざわざ確認してきた陛下に、私は少し考えて、でも、と首を横に振る。
だけど陛下は「エリカがいないと何も意味がない」と、そう言ってくれて。
頑なだった心の殻の一片がそれによってポロリと落ちていくのを感じた。
「でも、貴方は……」
「本当は、前からエリカが子どものことに躊躇いを感じているのに気が付いてもいたんだ。だから、懐妊を報されて、戸惑っているお前を見て後ろめたくなって顔を合わせづらかったんだ。時間がないのを理由に避けていた。不安にさせたかったわけじゃない」
「……がっかりしたんじゃなかったの?」
「がっかりしたのは、結局そうして生した子どもに鎹としての効力は何もなくて、結局はお前が簡単に俺から離れようとしたことに対してだ。何を気に病んでいるのか明かそうともせず、相変わらず一人で抱え込んで解決しようとするところにうんざりもしている。だが、俺も。もう少しちゃんとお前に向き合って意思を一つ一つ確認するべきだった。すまない。お前を苦しめるつもりはなかったんだ」
「違う……。私だって望んでたの。ただ、私、今なんかおかしくて。でも自分でもどうしたらいいのか分からなくて」
「取り敢えず子どものことはゆっくり受け入れて行ってくれればいいし、お前の両親については、元から余程厄介な事態でない限り、始末など考えていたわけじゃない。まだはっきりと分かっていないことも多いから細かい対処が打ち出せてはいないが、なんとかしてやる。お前にもちゃんと報告が行くようにしておこう」
「それは……、あの人たちの普通の暮らしを保証してくれるなら、陛下たちに任せるわ。現状を知りたいわけじゃないもの」
「……そうか」
私のせいで害されさえしなければ、必要以上に干渉などしたくない。会いたくも、ない。
すると陛下は少し考えるようにして、再び私に視線を戻す。
「他に望みは? お前がここにいてくれるなら何でも叶えてやる」
「珍しく気前がいいのね」
こんな兄上みたいなこと、陛下から初めて言われたわ。
そう言うと、陛下は真剣だった顔をぶすりとさせて「くだらないことは聞かないけどな」と付け加えた。
私はそんな陛下に、久しぶりに心から、クスクスと笑って「ねえ」と呼びかける。
「抱きしめてくれる?」
私のお願いに。
ギュッと抱きしめてくれる陛下に、私も身じろぎしてしがみつく。
「あの日ね、」
陛下の首元に顔を埋めて、私はそう切り出した。
まだ気にしてくれているなら、ちゃんとさらけ出すべきだと思って。
陛下の体が、私の言葉に反応を示す。
「私が孤児院に行った日の帰り、私を見送る群衆の中に、両親がいたの。驚いたような顔をしていたから、ただの偶然だと思っていたんだけど……」
偶然などではなく、きっとあれも私に会いに来ていた、ということだったのだろうけれど。
「もう会うつもりなんてなかったし、なんでかここひと月、ずっとあの人たちとのことばかり夢に見て思い出していたせいで動揺してしまって、でも貴方に、私が彼らにしてしまったこと、知られたくなくて話したくなかったの。過去のことを聞いて、私が最低な人間だって、軽蔑されてしまうのが怖かった。貴方に嫌われたくなかったの」
「そんな簡単に嫌いにはならない」
「でも、そんなの分からないじゃない。こんな酷い奴だと思わなかったって、思われてしまうかもしれないでしょう? それなら貴方には自分の綺麗な部分だけ見せていたいってそう思って……」
誰にどう思われたって、どうでもいいと思って今まで生きてきた。
形振りなんて構っていられなかったし、誰かに疎まれることがあっても、まあいいかで済ませることが出来ていた。
だけど陛下だけは特別なのだと、しがみついた指先に力を込めた私を、「エリカ」と陛下が呼ぶ。
陛下の反応を気にしながら恐る恐る顔を上げると、そこには眉根を寄せた不可解そうな顔。
陛下は濃い青の瞳で私をのぞき込んで問いかける。
「お前は自分のことをどれだけ立派な人間だと勘違いしているんだ?」
「! 勘違いなんてしていないわ。だから私っ」
――姫様、よろしいですか?
揺るぎ、薄れゆくものだと教えられてきた愛が、ずっとちゃんと続くようにと、保身を図らずにいられなかった。
なのに、
「別に今に始まったことじゃないだろ。お前は。思考より感情が先に来る。それでせっせと自ら掘った墓穴にもれなく嵌っていくのも、大なり小なり周りの人間を巻き込むのも、今更だ」
「うっ。そうかもしれないけど……」
「まあその件は、お前の事情を考えても特別やりすぎたんだろうとは思うけどな」
耳の痛すぎる言われように二の句を継げずにいると、「それでも」と陛下が続ける。
「俺にとってはそんなお前が眩しくて好きだから、俺はそのままの、単純で真っ直ぐなエリカに隣にいてほしい。お前と一緒にいることでしか見えない景色もあるんだ。だから、たとえどんな欠点があっても、それがお前を構成する一部なら構わない。それに以前、間違えずに生きられる人間はいないと言ったのはお前だろう?」
「……」
ぶっきらぼうに向けられた言葉に、私はゆっくりと首を傾げた。
「でも、王妃になる人間は完璧じゃないとってアブレンの侍女が」
「確かに王妃という立場に求められるのは非の打ちどころのない人間であることなのかもしれないが、俺はそんなのは知らない。適当に取り繕っておけ。それより俺は、お前の本当の姿が見たい」
毎日毎日、あんなに言い聞かせられてきたことをあっさりばっさり切り捨てられて私は瞬きを繰り返す。
そして頭で理解した言葉が心にコトンと落ちてきた瞬間、ああそうか、と。
固まりきっていた心がみるみるうちに解けていくのを感じた。
「そう、ね。いつの間にか私、肩に力が入り過ぎていたみたい」
くすくすと笑いながら私はくたりと体の力を抜く。
「なんだかすごく疲れたわ」
「それはこっちの台詞だ」
「……ねえ、陛下」
はあ、と大きく息を吐きながら私の髪を撫でる感触に瞳を閉じて、私は「眠い」と、急に襲ってきた睡魔に身を委ねる。
きっと今夜もあの夢が繰り返されるのだろうけれど。
「安心するの。私、貴方を好きになってよかった」
傍にいてね、と陛下の服を握りしめたその手を外されて、指先に軽い口づけが落とされる。
そうして、
「まったく……。出ていくといった口でそれを言うんだからな。なんだか女一人の為に国を滅ぼした愚王の気持ちがだんだんわかってきた気がする」
と、陛下が疲れ果てた声でそんなことを言いながら、でもその手で優しく頭を撫でるから。
私は促されるままにその夜、ゆっくりと眠りの世界に落ちていった。




