記憶の代償(五)
「さあ、エリカ様。お身体が冷えては大変ですわ。こちらをおかけください」
ベッドから上半身を起こし、背をクッションに預けた私はそう言ってベティ―が肩にかけてくれたショールを胸元で握りしめ、こくりと頷いた。
そしてもう片方の、空いている左手で自分の下腹部をそっと撫でてみる。
そこは今までと何も違いなんてなくまっ平らなままなのに。なんだか不思議な気分だ。
ここに私とは別の命が宿っているなんて。
思わず『間違いはないの?』と尋ねた私に、お医者様は『しっかりと兆候が出ているので確かですよ』と仰ったけれど。
『おめでとうございます』と。
『ご懐妊されていますよ』とそう告げられたときから、なんだか意識がふわふわとしたまま、なかなか実感が湧いてこない。
ただ、“そうか、ここにいるのか”と小さな命を想うと、ほわりと心が温かくなって自然と頬が緩んでしまうからやっぱり不思議だ。
だけど、なんでだろう?
「とにかく、ご無理はなさらないようお気を付けください。昨夜倒れられたばかりですし」
「分かっているわ。大人しくしてる」
私がそう頷くと、ベティ―が、その瞳を私の腹部に移しとても嬉しそうに細めて。
そして、
「本当に、御子様がお生まれになる秋の終わりがとても楽しみですわね」
そう言った。
私はそれに対して「……ええ」と曖昧な微笑みを浮かべることしかできない。
ベティ―だけではない。
この部屋にいる他の侍女たちも皆、温かく祝福してくれている。
なのに、私はそれを彼女たちから向けられるごとに段々と心に影が差すような、そんな気分に襲われる。
『王妃の最大の役割は“一刻も早く世継ぎをもうけること”でございますよ。王妃様』
そうである以上、何も間違ってなどいないし、これでいいはずなのに。
私も、きっともっと喜ばなくてはいけないことのはずなのに。
どこか気後れしてしまう自分がいる。
ここ最近毎晩見る夢のことなんて気にしてはいけない。
だって、私が彼らに抱くこの罪悪感はお腹の中にいるという子には何も関係ない。
昨日、久しぶりに目にしたあの人たちはとても驚いた顔をしていた。
だから、あの遭遇もただの偶然。何も気付かなかったことにしてしまえばいい。
そう言い聞かせているのに、上手く振り切れない自分がいて。
漠然と、まだ先のことだと思っていたから、“嬉しい”よりも戸惑いの方が大きくて。
少しずつ、何かがずれていく。
「ですが王妃様」
少しぼんやりとしていた私は、ベティーの後ろからひょこんと聞こえてきた高い声にハッと意識を引き戻した。
それは昨日、王城に戻った私を出迎えにきてくれていた新しい侍女のもの。
まだ少し幼い、金の巻き毛が可愛らしい彼女は無邪気な新緑の瞳で私をじっと見つめてきた。
私はそんな彼女に対して「なにかしら? ロザリー」と言葉を促す。
すると、ロザリーは可愛らしい容姿によく似合う小さな唇をちょっと不満げに突き出してみせた。
「ご懐妊のこと、王妃様のお口から陛下に直接お伝えしなくてもよろしかったんですか?」
その率直な言葉に、私は自然、表情を強張らせる。
「……え?」
とぼける様に小首を傾げ、どうにかそう返した私に、だけど、ロザリーは私のそんな様子に気が付くことなく一気に続けた。
「どんな反応されるかなーとか。いえ、陛下はすごく王妃様のこと愛されてますし、絶対にとっても喜ばれるに決まってますけど! あまり表情が豊かな方ではありませんし、どんなふうになられるのかなって気になっていたのに、なのにお医者様にお願いするなんて何故だろうって」
「ロザリー。差し出がましいですよ」
ベティーが慌てたようにロザリーを注意する。
けれど、
「だって、ベティ―様もそう思われたでしょう? なんだか味気ないというかなんというかつまらないなって。陛下だって王妃様からお聞きしたかったと思います」
はっきり言い切ったローザリーに、ベティーも思うところがあったのだろう。一瞬開きかけたその口を噤んだ。
「あ……」
早く何か、良い言い訳をしなくては。
尤もらしく、二人を納得させられる良い言い訳をと私は考える。
「えーっと、でも、少しでも早く知らせたほうがいいかなと思って」
「それならわたくしが全速力で陛下をお呼びしてまいりましたのにっ。私ならそこの窓から飛び降りて庭を駆ければすぐですし、」
「ロザリー」
「あっ!」
ベティーの声に、ロザリーはバッと両手で自分の口を塞いだ。
そんな彼女にベティーは深いため息を吐き出す。
「あくまで貴女は普通の侍女としてここにいるのですからこの部屋内でも、日ごろから気を付けて下手なことを口走らないよう気を付けましょうね」
「はい……。申し訳ありません」
行儀見習いのために侍女として仕え始めたロザリーは、実のところ私の護衛のためにここに遣わされた、古くからレストア王家を裏で支えているという家の人間の一人であるらしい。
私は知らなかったのだけれど、マリアやベティーと共に最初から私に仕えてくれている侍女のうちの2人もそういった類の人間で、その当時の彼女たちの役目は勿論、私の護衛ではなく監視と、他の3人の侍女を私から護ることだったという話なのは置いておいて。
とにかく。お城への出入りがしやすいよう、貴族位を持っている点がアブレンまでの道を共にしたオレリア達とは違うけれど、やはり実戦に使えるようにと訓練されているのは変わりなく、可愛い容姿からは想像できないくらいロザリーもとても身体能力は高い。
素直で天真爛漫な新人侍女兼護衛の教育に、頭が痛いとばかりに額を抑えるベティ―の横で懲りずにロザリーは「でもでも! あのご老体なお医者様にお任せするより、私が陛下をお呼びしてきた方が絶対に早かったと思います!」と心底悔しそうに拳を握りしめているけれど。
私はそんな二人の様子にクスクスと笑いながら、“でも……”と頭の隅で考える。
『ご懐妊のこと、ご自身のお口から陛下に直接お伝えしなくてもよろしかったんですか?』
後悔する気持ちや後ろめたさがないことはない。
私だって自分の口から伝えたかったなとも思う。
けれどそれ以上に、ちゃんと取り繕える自信がなくて、つい、『早くお伝えしなければ』と急かしてくる周りの声に押されて、ならばとお医者様にお願いしてしまった。
さっきも、昨夜安心を得ようと言葉を欲しがったその理由を尋ねられたのに何も話さず誤魔化そうとしたことで少し陛下を怒らせてしまったばかりだもの。
ただでさえ顔を合わせづらいのに、更に私の今の本心に気づかれたくなんかなかった。
なぜか今は、自分でも首を傾げるほど汚い自分を知られたくはない。両親のことも、この妊娠に戸惑ってばかりいることも。酷い人間だと軽蔑されてしまうのを恐ろしく感じる。
けれど顔は合わせづらくてもなんだか心細くて。そしてその知らせを聞いたらきっとこっちに戻ってきてくれるだろうことを期待していたし、なんとなく予想してもいた。
だから、
「……陛下」
扉の開かれる音に反応した私は、にこりと用意していた微笑みでお医者様を引き連れて戻ってきた陛下を出迎えた。
対する陛下は基本いつもの無表情のまま、なんだか昔のような、何か見極めるように私の顔をジッと見つめてこちらへと歩み寄ってくる。
何か言った方がいいのだろうかとも考えたけれど、陛下の醸し出す空気はどうやらそんな雰囲気ではなくて私は大人しく陛下が傍に来るのを待った。
流石に先ほどまで元気に訴えていたロザリーも他の侍女たちも、今は静かに一歩下がり成り行きを見守ってくれている。
私のいるベッドまで来た陛下は私と向かい合うようにそこに腰かけて手を伸ばし、私の前髪を掻き上げた。
少し熱っぽいせいだろうか。触れた陛下の指先がひやりとして私は小さく肩をびくつかせる。
「……辛いか?」
「少し気持ち悪いけれど、昨日よりは平気」
私が答えると陛下は口を引き結び違う何か問いた気な目で私を見ていたけれど、結局は「そうか」と頷いて視線を逸らし、そのまますっと立ち上った。
「すまないな」
その時聞こえた言葉に、私は「え?」と返す。
何に対する謝罪なのだろうか?
全く見当がつかず首を傾げたけれど、陛下はもう傍に控えていたお医者様に声をかけ今後の注意点などを尋ねていて、更にベティーも交えて話し込み始めてしまった。
当の本人だというのに何故か私は蚊帳の外で、所在なくなんとなく再びお腹に手をやりそこをぼんやりと見つめる。
暫くそうしていると、不意に私の上に影がかかった。
見上げると、話が終わったのか陛下が私を見下ろしている。
「人を待たせているからまた後で来る」
「ええ」
「大事にしろ」
ちらりと私の手の置かれた腹部に視線を向けそれだけ言って陛下はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「なんだか素っ気ないですね??」
扉が閉まった途端、ロザリーが不思議そうにそう呟いた。
「そう、ね。けれど陛下だし」
そもそもロザリーが期待していたような大げさな反応を陛下がするっていう方が想像できないもの。
昨夜は執務室に戻らずに私に付き添ってくれていたと聞いたからきっと今日はその分とっても忙しいはずだし、時間がないなら尚更。
そう、私自身も覚えた違和感を誤魔化す。
本当は、少しでいいから何も言わずに抱きしめてほしかったなんて、勝手なことを思っていたのは忘れよう。
そのお陰でとりあえずは当たり障りのない対応ができたはずだもの。
陛下にも、この本心はきっとまだ気付かれていない。
改めて顔を合わせるだろう夜に備えて今のうちにちゃんと気持ちを切り替えておけば大丈夫なはずだから。
「王妃様、少しよろしいですか?」
お部屋に残ったお医者様からそう声をかけられた私は、そのためにもと、先ほど陛下が訊いていた今後についての話にしっかり耳を傾けた。




