記憶の代償(四)
「……で?」
翌朝。
地平線の下に姿を隠していた太陽が再び地上へと顔を出した気配に目を覚ました城中の人々が、慌ただしく支度を終えて各々の仕事に取り掛かり始めたころ。
気だるく執務室のソファに腰かけたジェルベは、アルフレッドから冷ややかな詰問の声を浴びせられて、無言のままに睨むような視線だけを彼へと返した。
「昨日は少し王妃様の様子を見に行ってくると出て行かれたきり結局はお戻りにならず。随分とごゆっくりされてきたようですが、貴方はそのことについてどのようにお考えで?」
「……」
にっこりと向けられる笑顔から放たれるのは明らかな怒り。そして同時にそこに含められている呆れの色を正確に感じ取ったジェルベは、その居心地の悪さに思わず顔をむすっと歪める。
分かってはいた。
すぐに戻ると、山積みの書類を置き去りにしておきながら結局そのまま一晩エリカから離れなかったのは、少々無責任で身勝手な振る舞いだったと自覚しているし、きっとこうしてチクチクと責められるだろうことも元より覚悟していていたことだった。
――だが、
「……別に無断というわけではなかっただろう? 戻らないことは人を使ってお前にもちゃんと知らせたはずだ」
ふんっ、とジェルベはそう言い返す。
ジェルベにとっても昨日のことは予定外で、本来なら約束通りちゃんと戻ってくるつもりだったし、やるべきことを投げ出したかったわけでもない。
なのに、
「ええ、確かに。貴方が出ていかれてから随分後に伝え聞きましたよ。まったく。政務もそっちのけで女性に現を抜かすなど愚王の行いの最たるものだというのに、まさか貴方がそうなってしまわれるとは」
「そういうわけじゃない」
更に、さも呆れた様子で頭を抱えられて、ジェルベは当てつけとばかりに、ついでに持ってきていた分厚い書類の束を目の前のテーブルにバサリと投げ捨てるように放った。
「それに、そっちのけなんかじゃない。ならばとお前がこっちに寄越した書類には目を通している。何も文句を言われる筋合いはないはずだ」
「……おや。ちゃんとお仕事はされたんですか」
けれど、アルフレッドが目を瞠って、意外そうな表情を見せたのはほんの一瞬。
「全く期待していなかったもので。これはこれは。失礼をいたしました」
続いてわざとらしい笑顔で胸に手を当て、慇懃に頭を下げるその態度は謝罪と言うより、むしろ更なる嫌味のようで。
「他にやることもなかったからな」
ちっとも自分への認識を改めてはくれなさそうなアルフレッドにジェルベがそう言い捨てると、流石に二人の間に漂いだしたピリピリとした空気を察したのだろう。それまで黙って二人の傍でそのやり取りを見守っていたオルスが「おーい」と仲裁に入って来た。
「陛下もアルも。二人して機嫌が悪いからってお互い八つ当たりするの止めたらどうだ?」
「……」
それは自分自身、充分に自覚があったことで、ジェルベはばつが悪くて無言で二人から視線を逸らす。
しかし、対照的にアルフレッドから聞こえてきたのは、なんとなく、いつも以上に冷気を漂わせた声。
「私は別に機嫌など悪くありませんが?」
言葉とともに恐らくアルフレッドからあの威圧的な微笑みを向けられたのだろう。オルスが「絶対悪いだろ……」と引き攣ったような呟きを零したのが聞こえた。
確かにオルスの言う通り、今日はいつにも増してアルフレッドの当たりが強い気がする。いつもならば、せいぜい二言程度の嫌味で済むはずだ。それなのに今日はやけに根に持つな、と疑問に思って再び視線を正面に戻せば、わざとらしく首を傾げたアルフレッドもジェルベの方に顔を向けてきて、視線が合ったところで再び容赦なく刺々しい言葉を飛ばしてくる。
「まあ、昨晩はただでさえ忙しかったのに急な要件ばかりが舞い込んでくるし、加えて少し気になる報告があったのでその件について相談したかったのに陛下はいくら待ってもお戻りにならず。結局一人で全てを対処させられた私は大変だったんです。なのに、それを放り出していった陛下にやることがなかった、なんて無為に時間を持て余していたような訳のわからないことを言われると……、まあ、オルスの言うとおり、自然と機嫌も悪くなっているのかもしれませんね」
「気になる報告?」
「ふーん? ……本当にそれだけかねえ」
「……どういう意味です? オルス?」
そこで割って入ったオルスの声に、アルフレッドが海色の瞳を眇め、小さく首を傾げた。
対するオルスはそれを真正面から受けながらニヤリと含みのある笑みを浮かべる。
「いや、別に? ただアルがさ、ちょっと陛下に仕事を丸投げされたくらいでそんなに機嫌悪くするもんかねって思ってな。アルならさ、どんな面倒事も簡単に片づけるだろ。それに、オレにはその前からずっとアルが苛ついてるように見えてたもんでね。ついでに最近ここでマリアの姿見てねえし、てっきりまーたあの黒猫と何かあったんじゃねえかと思ってたもんだから」
「どんな面倒事も、ってどんな買い被りですか。まったく……。つまり今回は貴方の思っている以上に大変だったという方向へは何故考えないんです?」
そしてアルフレッドが若干うんざりとしたように「大体、」とため息を吐き出す。
「マリアなら最近は半年後に控えた挙式の準備で忙しくしていて、今だって諸々の確認のためにウェルタンの本邸の方に帰っているだけですよ。別に貴方に心配されるようなことは何もありません」
「なんだ。せっかくマリアにまた捨てられかけて、らしくなく余裕なくしたアルを見れるかと思ったのに。そういうことか。残念」
アルフレッドの返答に、ケラケラと笑い声をあげるオルスの表情に混じるのは安心したような色。
それはおそらく、長年の、マリアの片思いにアルフレッドが折れた体をなして決まった婚約によって、逆に二人の関係が拗れることとなり、挙句、そのまま破談になってしまうのではないかと心配させられる事態に陥った一連の出来事の記憶がまだ新しいためだろう。
だが今回は不穏なものなどでなく、むしろ順調だといえるもののようで。
「でもなるほどな。つまり、アルがマリアに放っておかれて不貞腐れてるところに、陛下が仕事ほっぽってエリカのところに入り浸ったから余計怒り狂ってるのか」
「だから。私は不貞腐れても八つ当たりもしていません。正当な批判をしているまでじゃありませんか。さっきから訳の分からないことばかりほざくのは止めていただけませんか」
「まあ、結婚式は好きなようにしていいって言ったのはアルだし、マリアだって漸くの夢にまで見たお前との結婚式なんだから準備に浮かれるのも当然だろーしな。あんまり拗ねるなよ」
「……そうですね」
ニヤニヤ向けられたオルスのからかいに、爽やかな、同時に“いい加減にしなさい”という確かな怒りを滲ませた笑顔を浮かべたアルフレッドが投げやりのように応える。
だが、
「それでもマリアは張り切るにも限度があると思いますけどね」
と、ぼそりとアルフレッドがため息交じりに呟いたのもまた、ジェルベの耳は拾い取った。
とはいえ、マリアにとってはオルスの言う通り“夢にまで見た”ということもあるのだろうしそれ以上に、王家と連なるオードラン公爵家の嫡男と、表舞台にこそ滅多に出てこないものの歴史と伝統、そして王国指折りの財力をもつウェルタン伯爵家の娘の結婚だ。挙式も自ずと儀式色の強い盛大なものになるし、生真面目な彼女ならば、さぞや必ず完璧なものにと自ら動かずに居られるわけがないだろう。
ここのところ、『マリアがいないことが多くてつまらないわ』とエリカもぼやいていたし、せめて今、エリカと一番気心知れているマリアが常に付いていてくれたら良かったのにと思うがこればかりは仕方ない。
ジェルベがそんなことを考えていると「それはいいとして」とまるで気を取り直そうとするようなアルフレッドの声聞こえてきた。
「私は大事な話をしていたでしょう?」
その声にふと意識を戻せばアルフレッドがジェルべのほうへと向き直る。
これでもジェルベなりに充分反省を示しているつもりで、まだ嫌味を続けるつもりかと思いきや、どうやらアルフレッドもようやく小言の時間を終える気になってくれたらしくその表情は怪訝そうに顰められていた。
「さぼったわけではないとおっしゃるなら一体貴方は何をなさっておいでで? こちらも寄越された伝達は貴方のお戻りが遅くなるということだけで、てっきり馬車に怯えられた王妃様をお慰めでもしていて離れがたくなったんだろうと私たちは解釈していたのですが。もしかして違ったんですか?」
「違うんじゃないか? 慰めなんてもの、俺には求められていないからな」
つい。
見当違い過ぎるその推測にむすっと反論を漏らすと、オルスが「陛下?」とジェルべの顔を窺ってくる。
ジェルべは、それに「いや」と首を左右に振って表情を改め、答えを待つ二人の疑問に簡潔に答えた。
「俺が部屋に様子を見に行ってすぐ、エリカが気を失って倒れたんだ。一応、さっき目を覚ましはしたが」
「は? 倒れた?」
「何故また……。原因は?」
「おそらく貧血を起こしたのだろうと呼びつけた侍医は言っていた。念のためにエリカからも直接話を聞きたいと言っていたから、今、もう一度診せているところだが」
さすがにこれは予想外だったらしく少々血相を変えて反応した二人にそう答えれば、何か思い当たることがあったのか表情を険しくしたオルスが大きくため息を吐き出す。
「そういえばあいつ、孤児院までの道で馬車酔いしたって言ってたもんな。帰りもやっぱりきつかったか。仕方ねえんだろうけどあのトラウマも相当だな」
誤魔化している風でもなくそう呟くオルスにジェルベはソファのひじ掛けに頬杖を突いたまま“こっちもか”と苦く感じて瞼を伏せながら「いや、」と緩く頭を左右に振った。
「本人もそう言ってはいたが……、多分それだけじゃない。オルス。他に、何か心当たりはないか?」
「は? 他……?」
ジェルベから突然向けられた追究に、オルスはただ、困惑を見せて首を傾げるけれど、
「倒れる前のエリカが、何かに動揺しているようで明らかに様子がおかしかったんだ。いつものエリカらしくない。お前はたしかエリカと一緒に孤児院に行っていただろう?」
――――あの時。
『私に会えてよかったって、私が、必要だって言って――』
部屋を訪れたジェルべに縋りつくように抱き着いてきてそんな言葉をねだってきたエリカのまるで自己肯定感を取り戻そうとするような必死な声と、震えた指先。
普段は背筋を伸ばして堂々と前を向き、表情をくるくると変えながら屈託なく笑っているのに。
その姿は今にも崩れ落ちそうなほど頼りなく。
そして本当に。再び促すように「お願い」と請われ、望まれた言葉をその通りに囁いてやると、埋めていた顔を漸く上げて何故か泣きそうに淡く微笑んだエリカから次の瞬間ふっと力が抜け、慌てて体を支えたときにはもうぐったりと気を失ってしまっていた。
「馬車酔いだけじゃない。何かがあったはずなんだ。誰かが何か余計なことをあれに言ったりした覚えは?」
「孤児院では特にこれと言って思い浮かばねえな。帰り際も普通だったと思うし」
「帰りの馬車がよほど怖かったとかじゃないですか?」
「……」
「……それとも王妃様が何か仰ってたんですか?」
「いや。エリカも馬のせいだと言い張っている」
「なら、」
「さっきも言っとおり、それにしては様子がおかしいんだ」
再度、ジェルベはぴしゃりとそう言い切る。
病状的には特に大きな問題はないだろうと医者に言われながらも気掛かりで、こちらには戻らずそのまま付き添い、エリカが目覚めるまで待っていた。
それなのに、夜が明けきる前にうなされながら目を覚ましたエリカが事態を理解し、ジェルベに返してきたのは困ったような苦笑い。
『やっぱり一人で馬車に乗るのはまだ早かったみたいね。怖くて、ちょっと錯乱しちゃったのかしら。意識まで手放しちゃうなんて思わなかったわ。驚かせてごめんなさい』
と。ただそれだけ。
だが、そうとするならば何故あのような言葉をまるで切羽詰まったように欲しがったと言うのだろうか。
それは“馬車が怖かっただけ”と言うその理由とは上手くかみ合わず、釈然としない思いでエリカを見つめれば、彼女はすっかりいつものように、一見表情豊かに昨日行ったという孤児院でのことを話しだす。しかしその態度はまるでどこか取り繕ったものにしか見えなくて。
だから、握った手に力を込めて無理やり話を遮りその瞳をのぞき込んでもう一度問い質したものの、それでもエリカは曖昧に微笑んで『本当に、何でもないのよ』と首を横に振るだけで、結局、何一つ、聞き出すことはかなわなかった。
「だから、本当は何があったのか言おうとしないエリカに腹立たしくなってきて医者に引き渡してこっちに来た」
「……なるほど」
その、ジェルベの言い分に、「うーん……」と首を傾げ腕を組んで考え込むオルスの代わりか、アルフレッドが取りあえずといった具合に頷いて見せた。
ジェルベの説明は曖昧で、何か確定的な要素があるわけでもないため釈然としないのだろう。
ジェルベはそんなアルフレッドに向かって、懐から一通の手紙を取り出して一方的にそれを差し出す。
「何ですか? これは」
「昨日、俺が部屋に行く直前までエリカがしたためていたらしい手紙だ」
ジェルベが答えると、受け取った封筒の表裏を交互に確認したアルフレッドが訝しげな視線をジェルベに戻して首を傾げた。
「見たところ、王妃様からアブレン王に宛てられたもののようですが」
これがどうしたと言わんばかりの言葉に「ああ」と頷いたジェルベは、アルフレッドが手紙を返してこようとする仕草に応じずに一言命じる。
「オルスに心当たりがないならそれを今すぐ開けろ、アルフレッド」
「…………は?」
「小細工の上手いお前ならそれと分からないように開封することくらい出来るだろう?」
「復元に時間がかかってもよろしいのなら出来ないこともありませんが、えーとそれはつまり……?」
「まさか……」
アルフレッドと、そのやり取りにハッと気が付いたらしいオルスの二人が口元を引きつらせ確認してくる。
ジェルベはそれに頬杖を突いたまま平然と返した。
「エリカに知られないように内容を盗み見たいと言っている。兄相手になら、俺には言いたがらない様子のおかしいその原因を打ち明けている可能性が高いだろう?」
「……まあ、確かにあのお二人の仲の良さと関係性を考えれば可能性は高いかと思いますが、でも」
アルフレッドは眉間に皺を寄せて戸惑うように続ける。
「あまり得策とは言えないのではないかと。貴方がどうしてもと仰るなら従いますけど、相手はアブレンの国王です。この印璽を王妃様に贈られたのもあの方ですし開封の事実を王妃様には隠せても、流石にあちらには気付かれてしまうかもしれません」
「とりあえず今はエリカさえ騙せればいい。どうせ義兄はこの手紙を読んだ時点で怒り狂うことになるんだ。同じだろ」
「……わかりました。貴方がそれでよろしいのなら」
表情も変えずに言い切ったジェルベに、はぁと大きなため息を吐き出しアルフレッドが了承した。
そしてもう一度、手中の手紙に押された封蝋へ視線を落とす。早速開封する術を模索しているらしいその様子に、けれどそこへオルスが慌てた声を上げた。
「いや、ちょっと待て! 騙すとか、隠すとか、つまりそれって陛下はエリカの許可なしで勝手に中を見ようとしてるってことだよな??」
「それ以外にどう聞こえる?」
「いやいやいやっ。陛下は立場のせいで色々感覚おかしくなってるかもしれないけど、それはやっちゃいけないことだ。人として、絶対に! 仮に完全にそうと悟らせないとしても、盗み見られるエリカからしたら……ってそうだよ! そもそも、エリカの手紙に検閲を入れなくていいよう重臣たちの反対を押し切って取り計らってやったの、陛下だったよな!?」
「物事には例外というものがある。それに本来、エリカ自身はどっちでもいいと言っていただろ?」
「あいつは、読まれるなら読まれるで必要に応じて暗号を仕込むから別にいいって言ってただけだ。こんなの油断させて不意打ちで攻撃かけるような真似を陛下がしてどうするんだよ」
「それなら常に暗号を使えばいいし、そもそも暗号というものが存在するということを自ら明かすという愚行を犯す時点で、それを聞いた俺達に解読される危険性を自ら作り出してる。つまり、読み解かれても構わないと内心思っているということだろう?」
「いや、そんな理屈は成り立たないし、あのバカに限ればそんなに深く考えずにただ単に墓穴掘っただけに決まってるし。悪いことは言わないからそれだけはやめといたほうがいいって」
「……なら、どうしろと?」
「取りあえずもう一回訊いてみるとか……?」
埒が明かないオルスとの応酬にいい加減うんざりして逆に意見を仰いでみれば、オルスはジェルベの顔色を伺いながら恐る恐るという風にそう答えた。
全くそれではどうしようもない。
もどかしさと苛立ちに鋭くオルスを睨みつけると、「ご不満のようですね」とアルフレッドが肩を竦めて微笑み、諭すような柔らかな声をジェルベに向ける。
「ですが、オルスの言う通りですよ。本当に何かがあっとして、その原因が気になる気持ちもわかりはしますけどね、王妃様のお怒りを買い、あまつさえ嫌われてしまうような事態に陥りたくなければ万が一のことも考えて卑怯な真似をすべきではありません。普段の、王城内をある程度統制するために行っている情報収集とは違うんですよ。何をやってもいいわけではありません。そもそも貴方だってご自分の中に無暗に踏み込まれるのはお嫌いじゃないですか。理解はできるでしょう?」
それは分かっている。それでも……。
結局二人から寄ってたかって、わざと見ないことにしていた正論を説かれ、ジェルベは視線を他所へと逸らして、ぼそりと吐き出した。
「……不満なんじゃない。不安なんだ。あれは、辛い時ほど人に頼ろうとしないようだから。また一人で抱え込んでしまっているんじゃないかと心配になる。知れないことが怖くて、気掛かりで仕方がない」
今までの経験上、いつもは騒がしいその口を噤んだエリカはこのまま絶対に自ら助けを求めて手を伸ばしてはこない。
普段は呆れるほどに単純で浅慮なくせに。
あの、ランベールがエリカの前世について暴いたあのときだってそうだったから。
あの日、隣室にいたジェルベたちの耳に聞こえてきたのはまるで悲鳴のような叫び声だった。
それは共にいたマリアが思わず泣きだすほどの困惑と狂気、苦しみを湛えるものだったのに。部屋から飛び出し、ジェルベが引き留めたエリカは、けれど、表情をこわばらせつつも努めていつも通りを装おうとしていた。
漸く本音をこぼしたのは、ジェルベが一連の流れを知っていることを知ってから。
それまで、必死に一人になることを望んでいた。
そんなエリカの姿を見て理解した。
それまでエリカが他人に悟らせないように何にどのように向き合ってきたのか。あの、幾度か見せた憂いや落ち込みの内側にどれほどのものを隠し持っていたのかを。
たとえ、明かせぬ事情があったにしろ、それでも彼女は一切手を伸ばしては来なかった。
そんなエリカだから、どんなに本人が拒んでも、放っているべきではないとジェルベは頬杖にしていない方の手を強く握りしめると、そのジェルベの様子にアルフレッドとオルスが互いに顔を見合わせる気配を感じた。
「ったくなぁ」
そしてそう呟きむしゃくしゃしたように頭を掻いたオルスが大げさにため息をついてジェルベが苦々しく思っていることをそのまま吐き出す。
「大体、なんであのバカは人に弱みを見せようとしないんだ?」
けれど、それに対して口元に折った指を添えてアルフレッドがまるで考え込むように言葉を選びながら、オルスの言葉に反論する。
「それは……、仕方が、ないのではないでしょうか」
「仕方ないって、なんでだよ?」
「散々周りから甘やかされ、世間から隔絶されて大切に育てられていた王女の頃ならいざ知らず。エリカ・チェスリーとしてのあの方は誰に護られることなく城の外でたった一人生きてきたんです。何事もなく、ただ能天気に暮らしてこられたはずがないでしょう? 身寄りのない少女など侮られやすく、実際に何の力もない。無暗に隙や弱さなんてひけらかそうものならそこに付け込んで彼女を利用しようとする者や虐げようとする者に狙われる。そんな中で、非常時こそ誰にも頼らず、強く気丈に振る舞う癖のようなものが身に付いたのだとしても、なんらおかしくはないと私は思いますけどね」
それを聞きながらジェルベもふと思い当たった心当たりに瞳を伏せる。
エリカがたまに語る庶民時代の思い出話はいつも、悲壮感など感じさせない、どこか冗談っぽく明るい口調でなされるものだけれど、その内容自体はちっとも平和なものではなくとても理不尽で。よく今まで無事だったなと思わずにいられないほどそこかしこに多くの危険が垣間見えていた。
元々の気質というものも勿論あっただろう。
しかしそれ以上に。今の姿が必要に駆られて身につけざるを得なかったものだというのなら。
以前見た、『相変わらず私の可愛いい妹は、調子が良くてとんだ甘ったれだ』とエリカの頭を撫でる義兄と、それを受けてくすぐったそうな笑顔を浮かべたエリカの姿が脳裏に過る。
「なあ、どうすればエリカは俺を頼るようになる?」
分かってはいるのだ。本当は。
強引な手で勝手に暴くような真似をすべきではないということは。けれど、
「原因が城の中で生じていることなら出来る限りの対処をしてやりたい。あの、アブレンへ行かせたときのように、何もできずただ待つしかできないのはもう二度と御免だ」
それにもし、自分自身には全く関係がないことなのだとしても、ただ単純に。
「秘密裏にでいい。実際に俺がしてやれることは多くないことも分かっている。だが、これまでエリカに救われてばかりで俺は何一つエリカのためにしてやれていないから」
エリカにとって言いたくないことなのかもしれない。ただ余計な世話でしかなくて、ジェルベの自己満足の為にしからならないかもしれないけれど。
いい加減、自分にも少しくらい頼ってほしい。
せめてエリカが無理をしすぎないように。あの、義兄ほどではなくても。
一人抱えすぎたものの重みに耐えきれなくなって崩れ落ちてしまわないように支えてやりたい。
自分が傍にいることを忘れずにいてほしい。
そう思うのに。
何も教えてもらえないのでは何をしてやることもできない。
全く。情けないなと思う。
ならばと考えても、こんな卑怯な手段に頼る以外の方法が見つからないことも。
その上、手紙の内容によっては義兄がエリカをアブレンへと連れ戻しに来ることに怯えなければならないことも。
ようやく捕まえることができたはずのエリカをもう手放したくなどないと思うのに。結局はエリカが何者かわからず足掻いていた頃のまま、エリカが何を思い、考えているのか、肝心なところが分からない。気を抜けば今でもスルリと腕の中から抜け出て行ってしまいそうで、結局は一線引かれている自分に自然、腹が立つ。
苦々しくジェルベが奥歯を噛んだその時。
「陛下」と呼びかけられてそちらに視線をやれば、
「陛下がさ、エリカのために何もできてないなんてことないと思うんだけどなあ」
とオルスがと困ったような苦笑いを浮かべていた。
けれど振り返っても心当たりは見つからず、どこがだ、と訝しみながら視線で問うと、オルスは「だってさ、あいつ、柔らかく笑うようになっただろ」と逆にジェルベに問いかけてきた。
「さっきのアルの話で思い出したけど、ここに来たばっかのころ、エリカの奴、すっごく雰囲気が悪かったなあって。なんかツンケンしてて可愛げなんて微塵もなくてさ、オレ、あいつのこと嫌いだって思ってた。でもさ、」
そこでオルスは小さくため息を吐き出す。
「前に、いつからだろうって考えたことがあったんだ。エリカの雰囲気や表情が変わってきたのは。けど、どう思い返してみても陛下と過ごすようになってからだったんだ。今のエリカはさ、前世のあいつだっていう肖像画なんかよりもずっと穏やかに笑ってる。それってなんでだと思う?」
「……さあな」
思い当たるとすれば『貧乏は心をも貧しくさせる』という、以前エリカがこぼしていた言葉だが。
けれど、
「オレはきっと、本当はずっと昔からあいつが一番欲しかったものを陛下が持ってたからだと思うけど」
「なんだそれは?」
ドレスに宝石、甘い菓子。
普段、エリカが望んで求めるのは他の、極々普通の貴族令嬢たちと何ら変わらぬそんなもの。
それでないのならば、前世での役目でもあったのだろう“どこかの王の妃”という地位を本来エリカ自身も望んでいたのかとさえ考えたけれど、オルスは答えることなく緩く首を左右に振るだけで。ジェルベが顔を顰めたところでアルフレッドが「ああ」と思い出したようににっこりとした笑顔をオルスに向けた。
「そういえば、あの側室選定試験で誰かさんは王妃様を追い返そうとしていたんでしたね。本当に余計なことをされるところでした」
「もしあの時にもう一度戻ってもオレはあんな奴追い返すだろうけどな。あんなに性根の腐れてるやつ、陛下に近づけさせられるか」
ふんっと大きく鼻を鳴らしたオルスは、「それにだ」とニッと笑みを作り腰に手を当てながらアルフレッドへ反論した。
「オレが先にあいつに声をかけたお蔭でアルが興味をもったんだろ? 結果的にはよかったじゃねえか」
「まあそうですね。こればかりはあの時彼女に目をとめた自分を称賛せずにはいられません」
「……オレに、じゃなくてまさかの自賛かよ」
「勿論です。まあ、それ以上に私は王妃様の存在価値を讃えているんですけどね。アブレンとの関係改善もさることながら、前世仕込みの非の打ちどころのない所作は公の場やパーティーで大変見栄えがして、貴族たちを圧倒するには十分なものですし、庶民の感覚を知っている彼女が関わる政は民衆からの受けも大変良い。その上、為政者としての知識もある。中々彼女の視点は面白く無駄もないので今度彼女の案を実際に」
「あー、国にとってもいいこと尽くしで良かったな」
「ええ。まあ、そのせいで余計な問題も出てきてはいますがね。だからこそ陛下には何が何でも彼女をつなぎとめていていただかなければ私としても困るんですよ」
それはジェルベだけの問題ではない、国のためにも必要なことだとさらりとジェルベに重荷を載せてくるアルフレッドは口を引き結んだジェルベに「で?」とその海色の瞳をひたと据えて尋ねてきた。
「陛下こそ、何か心当たりはないんですか? もし何かしらの前兆があったのならば、何もその“原因”は昨日の孤児院訪問にあると限りませんよ」
「……」
エリカの様子が“明らかに”おかしかったのは確かに昨日だ。しかし、ここ最近のエリカの様子が全くおかしくなかったかと尋ねられれば実はそうではなく。気まずい思いで眉を顰めれば、アルフレッドに詳細を求めるようにその瞳をすっと細められて、ジェルベは重い口をしぶしぶ開く。
「ここ最近、寝つきが悪くて、眠っても必ず朝方にはうなされだす。口数が減ってぼんやりしていることが多い気もしていた。食欲も……あまりない。だが、いきなりあんなに悪化はしないはずだ」
「……何故それを今まで相談なさらなかったんですか」
それだけの違和感は前兆だと言っていいではないかと言外に責められて、ジェルベは居心地を悪くする。
そして、それを傍観するに留めていたことも。
そちらも決して楽観視していたわけではないけれど。
「まあ、確かに何事もなく事態は悪化しないでしょうし、逆に“昨日あったと思われる何か”によってそれらの原因を絞りやすくなったといえますが……」
はぁ、と呆れたようなため息をアリフレッドが吐く。
その横で、気まずそうにジェルベとアルフレッドに視線を彷徨わせたオルスがおずおず「なあ」と口を開いた。
「城の中でのことまで含めるんだったらオレ、一つ思い当たることあるけど」
「何だ?」
突然もたらされた手掛かりに反応したジェルベの顔色を窺うように、だが、オルスは「あー……」と呻きつつ頭を掻く。
そして覚悟を決めたように「いつものあれだよ」と吐き出した。
「孤児院に行く直前に、またどっかのおっさんに捕まって“ご提案”をされてた。子どもが産めないなら新しい側妃をって。あいつにしては珍しく堪えてたみたいだったし、子どもできないこと本人も気にしてるって言ってたからさ」
「……そのあと孤児院に行って何か思い詰めたんでしょうかね? 一応子ども繋がりではありますけど」
「んー、でも孤児院では本当にそんなにおかしくなかったんだよなぁ。我慢してただけかもしれねえけど、人の言葉を気に病むなんてあいつらしくないしなーって」
「ですが事実はどうあれ、あの方が側室としてこの城に上がられてからすでに3年半。そう短くはない時間で子の一人にも恵まれていないということで周りから必然的に厳しい目を向けられているのは確かです。そんな状況で急かされ脅されるようなことばかり囁かれ続ければ、焦りも出てきて気を病まれても仕方がないのかもしれません」
「そういうもんっていうことなんだろうな」
アルフレッドとオルスの二人はその推測に納得したように息を吐く。
――だが、
「違うな」
「え?」
「エリカはそんなに、子が欲しいとは思っていない」
「は? どういうことだ? 陛下」
「それは……王妃様がそう仰ったんですか?」
はっきりと否定してみせたジェルベに困惑したような視線が双方から向けられて、そして訝しむように尋ねてきたアルフレッドに、ジェルベは左右に首を振って答えた。
「直接言われてはいない。だが、ここ最近のエリカの様子もそうだし、エリカとそこそこ仲がいいらしいべネットの娘が持ってきた子が出来やすくなるという茶に臭いが合わないだのなんだのといって手をつける様子がない」
まったくおせっかいなんだからと苦く笑いをもらして、エリカはそれを棚に置いたまま、ガラス瓶に入った中身が減った様子はない。
別に、あんな怪しげで効果があるのかどうかも疑わしいものなど試されたくないとジェルべも思う。けれどもその態度は追い詰められているとか、藁にもすがる必死さとは程遠い。焦っているようには到底見えない。
むしろ、出来ることなら少しでも早くと、煩い周囲を黙らせ、何より子という鎹を得てエリカを自分の手元に留まらせたいと思っているのはジェルベの方で、エリカは……。
『ねえ。自分の子って、可愛いのかしら』
いつだったか、夜、ぽつりと零すようにエリカがジェルベにこう尋ねてきたことがあった。
けれど、そんなことをジェルベが知るはずもなく、立場上、基本的には子を儲けないという選択肢など与えられていない。だから、『さあな。産んでみれば判る』と。
まるでただの睦言のように聞こえたそれにただそう答えれば、しかしやけにぼんやりとしたエリカはそのまま、ジェルベの落とした口付けにも気づく様子もなく考え込むように焦点の合わない目をゆっくり伏せ『……そうね』とだけ、ただ静かに頷いた。
その時のエリカの声音と雰囲気から感じ取れたのは明るい期待を含んだものではなく。
きっと、その時に質問の意図を問わなければならなかったのだろう。
「えーと、それはつまり……、これまでの話を総括するに、今回の件の原因は全て貴方で、王妃様は早くも陛下を選ばれたことを後悔しだし、現在、アブレンに戻ろうかどうか悩んでおられる最中のようだ、ということで良いですか?」
「別に拒絶されているわけじゃない」
『まずはご自分が王妃様になさったことを思い出してみましょうか』と言わんばかりの気迫で確認してきたアルフレッドにジェルベははっきりと否定をした。
だが、実際のところよくわからないのだ。
最近のエリカは無意識か、甘えるようにすり寄って来ることが多くなった。かといって誘うように触れれば迷うように瞳を彷徨わせて体を強張らせ、しかしそれ以上の抵抗を見せるわけでもなく。結局は大人しくしがみつきその先も許す。
けれど、それはどこか心ここに在らずで。
以前の、ジェルベが寄れば『ちょっと待って! 心の準備が』と顔を真っ赤にして逃げ出そうとしていた頃のようにジェルベを見てはいない。
明確に拒絶を示すわけでもないが望んでいるわけでもない。
言うなれば躊躇いのような類いのものがその都度見え隠れしている。
なのに、
子どもが出来ないのを気にしているなんて大嘘だ。
いったいエリかはどういうつもりなのだろうか。
昨夜、好きだと、ジェルべに寄越された言葉だけは疑いたくはないけれど。
深い深いため息がジェルべの口から漏れる。
――そのとき、
執務室の扉が鳴らされた。
三人で顔を見合わせ、来訪者が何者か問うと、扉の外の衛兵が二人の人間の名を告げてきた。
一人は門番の責任者。
そしてもう一人はエリカを託してきた侍医。
扉へと向かい、それに対応したアルフレッドが「こちらは後で構わないでしょう」と、先に招き入れたのは侍医の方だった。
どうやら門番のほうの用件についてはすでにアルフレッドの知るもので緊急性はないが少々面倒な用件らしいことが、その考え込むような表情から察せられた。
そんなアルフレッドに促され入ってきた医者に、ならばと早速ジェルベは向かい合う。
「で、エリカはどうだった?」
何か結果に異常でもあったのだろうか。
わざわざやって来た医者は、いつも見せる朗らかさを封じ、何やらこわばった様子で「恐れながら」と頭を下げてきて、ジェルべは眉を潜めて医者に言葉を促す。
けれど、
口を開いた彼がもたらしたのは思いもよらぬ報告で。
「王妃様のご懐妊、誠におめでとうございます。陛下」
「――――は??」
ジェルベはただ、唖然とすることしかできなかった。




