記憶の代償(三)
「うわぁー! きれー!! ねえ、王妃様、シャボン玉もっと吹いて!!」
孤児院の庭から、無数の虹色に透き通った球体が風に乗り、空へと飛んでいく。
「きゃーきゃー」と歓声を上て子どもたちがそれに両手を伸ばして跳ね回る姿を眺めながら、私は乞われるまま再び細い管の先端を液につけて息を吹き込んだ。消えてしまった分を補うように、また大量のシャボン玉が一斉に作り出していく。
「すごいね! 王妃様は魔法を使える人みたい」
「あなたたちも魔法を使ってみる?」
目を輝かせている子どもたちにそう尋ねてみると、彼らは興味津々で大きく頷いた。そんな彼らに私はそれぞれ持ってきていた管を手渡す。
「強く吹いては駄目よ。優しく一気にね」
最初は力加減が分からなかったらしく強く吹きすぎていた子どもたちにそうアドバイスを送ると、あっという間にコツを掴んだらしく、すぐに辺り一面がたくさんのシャボン玉で溢れた。
澄んだ青空に、シャボン玉はよく映える。そして、それと戯れる子どもたちの姿もキラキラと眩しいくらいだ。
そんな様子に目を細めて見つめていると、傍に人が近付いて来る気配を感じて私はそちらの方を振り返った。
「おお! すごいじゃねえか」
漸く手が空いたのかそこにいたのはオルスで、だけど彼は私を見た途端朗らかだった顔を何故だか固くこわばらせた。心なしか蒼褪めている。
「おい、お前どうしたんだ?」
「え?」
「顔色悪いけど」
どうしたって? と首を傾げていた私は、オルスの言葉に「……ああ」と思い当たって、孤児院の人間には分からないようにしつつもそれまで我慢していたため息を小さく吐き出した。
「少し馬車に酔っちゃって気持ち悪いのよ。耐えられないほどではないんだけど治らなくて」
「……早めに切り上げてもう帰るか?」
私は、心配げなオルスのその問いにふるふると首を左右に振る。
「ううん。大丈夫。今馬車にまた乗らなきゃいけないなんて余計に気持ち悪くなりそうだし、いい。あ、でもそうだ。ねえ、お城からここまでそんなに遠くなかったし、歩いて帰っては駄目かしら」
「駄目に決まってるだろ。何考えてるんだよ。そんなに怖いなら気でも失っとけ。そしたらあっという間に城に到着だ」
「あー。それがいいかも」
それはなかなか名案かもしれないと神妙に頷いてみたけれど、でも実際のところどうやって簡単に怖くない方法で気を失うかが問題だ。私が考え込んでいると「あのなあ……」と横からオルスのため息交じりの声が聞こえてきた。
「何にも起こらないようにオレ達が護ってるんだから、お前は安心して乗ってろよ」
「分かっては、いるのよ……」
そう思うことが出来たならもう少し気楽なんだけれどと私は誰にともなく拗ねた気持ちで頷いた。これでも少しは克服できたつもりでいたのだけれど。今回は恐怖だけではなく最近見る夢のせいで体調もほんの少し悪くなっていてあの揺れがすごく辛いのだ。
だけど、
「でもせめてどっかで休ませてもらったらどうだ?」
そう気を遣ってくれたオルスには、やっぱり首を横に振った。
「皆、折角楽しそうだし、大丈夫」
目の前では、いくつかのシャボン玉が壊れることなく空高くに上って行った姿に子どもたちが「すごいすごい」と歓声を上げ、私の方へ「見て」と満面の笑顔で振り返る。
この子たちにまで変な気を遣わせることになっては申し訳ない。
私の返答にオルスも「そうか」と頷いて、オルスも子どもたちの方を向く。
「泡ってこんなふうに飛んでいくもんなんだな。これってアブレンの子どもの遊びなのか?」
不思議そうなその問い。
初めてシャボン玉を見るらしい子どもたちの反応からもこれはきっとアブレンの遊び方なのだとオルスは判断したのだろう。
私はそれに少し迷って「ううん」と返事をする。違う、と。
「……これはエリカの両親とよくした遊び」
ここの子どもたちと、一緒にどんな遊びをしようか。そう考えていたときに真っ先に思い浮かんだのは、このシャボン玉のことだった。
それはきっと、いつも何気なく“王城の石鹸なら上手にシャボン玉が作れそうだな”と思ってしまっていたからかもしれない。普段庶民の使う石鹸はとても泡立ちが悪くてシャボン玉なんてどうやっても出来ないから。
今となっては、あの頃どうやって両親がシャボン玉遊びのために良質の石鹸の欠片を手に入れていたのか分からないけれど。あの頃の私はこのシャボン玉遊びが大好きで、よく『もっとシャボン玉を作りたい』と両親に駄々をこねていたことをほとんど薄れた記憶の中で、これだけはしっかりと覚えている。
だから、迷って悩んで、なんだか気が引けるような後ろめたさを感じながらもこうして持ってきてしまった。
子どもたちに喜んでもらう為は勿論だけれど、その大義名分の元に、なんとなく、もう一度見たくなったのだろうか。
自分でも、よく分からないけれど。
そして、人形や積み木、独楽などよりも実際に子どもたちの関心を集めたのはこのシャボン玉で。最初は警戒心を露わに遠巻きに私を見ていた子も好奇心には勝てなかったらしく自ら輪に加わってきた。
だから、たぶんこれはこれで良かったのだと思う。
「さて。ねえ、皆! じゃあ、次は誰が一番大きなシャボン玉を作れるか勝負してみるなんてどうかしら」
「おおきいの?」
「そう。息の吹き方を変えればとっても大きなのもできるの。ほら、見てて」
注目される中、慎重に一つのシャボン玉を膨らませていくと今まで彼らが作っていたものとは違ったその大きさに子どもたちの目もまんまるになる。
それから自分も作りたいとねだる子たちに囲まれながらやり方を教えたりしていると、あっという間にお城へと帰る時間になってしまった。
「帰らないで」としがみ付く小さな女の子がとっても可愛くて、私自身もなんだか離れがたくなってしまいながらも、どうにか宥めて門の前に着けられている馬車へと乗り込む。たった数時間の滞在だったというのに、別れを惜しんでくれるのはなかなか嬉しいもので、乗り込んだ空間に怯みそうになりつつも私は座席に腰かけて窓から外の子どもたちへとにこやかに手を振った。
蹄で石畳を蹴り前進をはじめた馬に引かれて馬車がガタリと揺れる。
子どもたちは遠ざかり、街路には“王妃”の今回の訪問を聞きつけて詰めかけたらしい市民たちが並ぶ。
身分に見合う行動をとらなければならない私はまだ恐怖を顔に出すわけにはいかない。
もう少しだけと、引き攣りそうになる顔の筋肉を制して出来る限り穏やかな微笑みを貼り付けて、すれ違う彼らにも手を振る。
私は流れ始めた景色と共に彼ら一人一人を眺めていた。
そんな中、なんとなく一際強い視線を感じた気がして。
ふと見やると、人垣よりすこし離れた後方。とても驚いた様子でこちらを見る一組の男女に目が留まった。
そして絡まった視線に。
「……え?」
私は息を呑んでそのまま身を固まらせた。
「なんで……?」
馬車への恐怖のせいではなく、私の顔から血の気がサァーッと引いていく。
「なんで、あの人たちが……?」
こんなところに?
動揺で震える私の唇が思わずそんな困惑の声を漏らして、私は振っていた手を下ろす。そして、正面を向いて俯く。
すると視界にかかるのは、栗色の髪。それは、先程見た、男の人のほうと全く同じ色味をしていた。
間違いない。
見間違えているはず、ない。
あれは、“エリカ”の両親――。
だけど、
なんで今更。
今更目の前に現れるの?
ただの偶然なのか、理由なんてわからないけれど、そう思わずにはいられなくて。
私は膝の上に置いた手のひらをぎゅっと強く握り、唇を噛み締めた。
「王妃様!! あの、大丈夫でございますか!? お顔の色があまりにも……」
王城へ着き、馬車から降りた私にそんな焦ったような声がかけられる。
声の主は、新しく私付きになった年若い侍女。帰った私の出迎えに来てくれていたのだろう。
私はそんな彼女に「大丈夫よ」と小さく、だけど精一杯の力で微笑んだ。
「少し、馬車が怖かっただけよ。まだあまり慣れてないの。気にすることないわ」
「そう、ですか。……このままお部屋の方に戻られますか?」
「ええ。疲れたし、一人でゆっくり休みたいわ。いいかしら」
取り繕ってそう言うと、眉を下げて私を見つめている侍女は迷った様子を見せて、それでも「はい」と頷いてくれた。
「承知いたしました。では、お部屋の前までご一緒させていただきます」
「……ありがとう」
もう少し。
安全のためにも、彼女の好意を無下にするわけにもいかないから、彼女と一緒に普段通りを繕いながら部屋まで戻った。
どうにか我慢して、扉が閉まったのを確認してから私はそれにドンっと寄りかかる。
一度大きく息を吐き出してから、未だに治まらない動揺を鎮めるため、胸に固く握った拳を押し当てて強く目を閉じた。
瞼の裏に焼き付いているように蘇るのは車窓から見えた、あの二人の姿――。
もう、会うことなんてないと思っていたのに。
久々に目にした二人の姿にここ最近繰り返し見る夢がまた思い出されて、どうしようもなくぐちゃぐちゃに入り乱れた感情が胸を圧迫してきて気持ちが悪い。
それをどうにか押さえつけながら、私は再び目を開いてふらりと足を文机の方へと動かした。
文机に辿り着いた私は椅子を引いて座り、机から震える指先でいつも使っている便箋を取り出してペンを手に取る。
深呼吸しながらペン先にインクを付けることで邪念を無理やり振り切り、集中して普段以上に一気に書き上げるのは兄上への手紙。
『親愛なる兄上へ』
その一文から始めるのは何の変哲もない、いつも通りの手紙。
ありきたりな時候の挨拶から始め、兄上の近況などを尋ねつつ、最近の日常での出来事なんかを私の近況として書き連ねていく。
別に特別な内容を書きたかったわけではないから、これでいい。
兄上は、私のお喋りを聞くのが好きだと言ってくださるから。そして、たまに前世の話なんかも交えると懐かしみながらとても喜んでくださるから。
兄上は、私が“ティア”の記憶を持っていることを嬉しいと言ってくださる。
この記憶があったからこそ、兄上は侵略の手を止めて、レストアと友好を結んでくださった。
だから、やっぱりこの記憶は大切。
そう自分に言い聞かせながら書き終えた手紙を封筒に入れて、熱した封蝋を垂らした。
ぎゅっと印璽を押した私は封をした手紙を両手で持って目の前に掲げ、それを眺める。
手紙を書き始めたときには窓から差し込んでいた夕日がいつの間にかほとんど落ちてしまっていて、今は手紙の輪郭がぼんやりと見える程度だ。
でも、それは私の手の中にしっかりとあるから。
息を大きく吐き出して、「大丈夫、大丈夫」と私は自分に言い聞かせる。
その時、
突然、部屋の扉が開いた音がして、私は吃驚してそちらの方を振り返った。
誰も来ないように言っていたのに、それなのに誰? そう思った私にかけられたのは、「こんなに暗い部屋で何をやっているんだ?」といった陛下の訝しげな声。
手紙を手から滑り落とし、呆然とする私に。
「戻ったと聞いて来たんだが、大丈夫だったか?」
そう問いかけてくる彼のその姿を認識した瞬間、私は椅子から立ち上がって一直線に駆けて勢いのまま、その胸に飛び込み抱きついた。
抱きとめられた感触と温もりに、手紙を書いただけではやっぱりぬぐえなかった不安が、やっと私の胸から消えて行くのを感じる。
代わりに泣きたくなるくらいの安堵が胸にこみ上げた。
私は陛下の背中に回している手の指先にぎゅっと力を込める。
「エリカ?」
いつもにはない私の行動に陛下が不思議そうに私の名を呼びかけてくるけれど。
「陛下」
「……どうした?」
そう尋ねる陛下の胸に顔を埋めたまま私は「好き」と呟いた。
陛下から返される言葉はないけれど、私を抱き締め返す腕の力がぐっと強くなる。
「……ねえ」
「ん?」
「あのね、」
幸せな今があるのはこの記憶のお蔭だって、そう思わせてほしい。
だから、
「私に会えてよかったって、私が、必要だって言って」
これで良かったって。
彼らを必要な犠牲と思いたいわけじゃないけれど、
せめて意味のあったことなのだと思えるように。




