記憶の代償(二)
『なに? これ……』
その日の夜、仕事を終えて帰宅した私を出迎えたのは、いつの間に運び出したのかほとんどの荷物のなくなってガランと静まり返った暗い部屋だった。
『何でこんな突然』
いつかは――。
こんな事態を予測していなかったわけではなかったけれど、
目の前に広がる光景に私の足は力をなくし、ベタリとその場にへたり込んだ。
別れの言葉もなく、呆気なく二人は私を置き捨てて行った。
あの時、二人はどんな想いで私の前から姿を消したのだろう。
あの二人にとって、結局私はどんな存在だったのだろう。
最近の私はそれを考えてばかりいる。
もう、彼らは私のことを忘れてくれただろうか、と。
「王妃様。このようなこと、私としても大変申し上げ辛くはあるのですが、」
王城の中庭に面する回廊で。
呼び止めてきた貴族のおじ様の粛々と、さもこれは国の為だと言わんばかりに取り繕われたその顔に私は「なにか?」と小さく首を傾げてみせながら、内心で億劫なため息を一つ吐きだしていた。
申し上げ辛いなら別にわざわざ申し上げてくれなくてもいいんじゃないだろうか。
どうせ、何を言われるのかなんて分かりきっているのに、聞く必要性さえ見いだせない。
それくらい最近、ずっと機を見計らっていたのであろう高位貴族たちから異口同音に言われて続けていることだから。
「王妃様から、陛下に新しい側室を勧めていただきたいのです」
この言葉を。
スッと目を細めた私とおじ様の間を、ひんやりと冷たく乾いた空気がすり抜けていく。
盛大に執り行われた結婚式も終わり、私が正式な王妃となっておよそ半年。
季節はもうすぐ春を迎えるというのに、どうやらまた冬の寒さが舞い戻って来たらしい。
――レストアは今日も平和だ。
「失礼だと承知で敢えて言わせていただきますが、そもそも陛下の側妃として3年も過ごされながらお子の一人にも恵まれなかった貴女様を王妃に据えられることに私共は反対だったのです。それがどのような手を使われたのか存じませんが、貴女様が陛下を上手いことそそのかされ……いえ、陛下の寵を得られて、更に何をどうされたのかアブレンとの同盟の証とやらで見事その座を射止められた。そのことについてはもう今更何を言うつもりもありません。貴女様の王妃としての力量に問題がないことも認めます。ですが王妃の最大の役割は“世継ぎをもうけること”。貴女様ではそれが望めぬのではないかと、皆の不安が拭えぬのです」
「……まあ」
取りあえず深刻に受け取ったような相槌を打ってあげはしたけれど、心の中では言いづらいとかなんとか言っていたくせにやけに饒舌ねと呆れずにはいられない。まったく、ペラペラとよくも滑らかに舌が回ること。
私に子どもが出来ないなんて。
そんなこと言われても、側妃のころは“ふり”をしていただけだったし、陛下に至っては怪しかったという私の素性を暴くために傍に置いていたにすぎなかったのだから、もちろん、私達の間に何かあったはずがない。振り返れば今の、『長い間、俺を放っていたお前が悪い』とすぐに私にくっついてこようとする陛下とは大違い……と、そうじゃなくって! 結婚式からまだ半年やそこらしか経っていない現状でもう下世話な心配をされることになるとは。本っ当、面倒臭くて困るのよ。……なんてことを正直に話してしまえば、また違う理由で批難されそうだから声に出しては言えないけれど。
だけど、未だに私を排除したいこの人たちにとってこれは格好の口実なのだろう。
「……つまり私が妃として失格だと?」
先の分かりきったお話に長々と付き合わされるのはもうすでにうんざりで、回りくどく伝えて来ようとする相手も手間だろうと私は物わかりの良いふりで手っ取り早くそう尋ねてあげる。
すると彼は待っていましたとばかりに悪気もなく口角を上げてこう答えた。
「いえ。まさか、そのようなことは。王妃様はそのままでよろしいのです。ただ、この国の世継ぎのことを陛下と王妃様にも真剣に考えていただければと思い申し上げているだけでございます」
「だから新たな側妃ですか」
「恐れながら、我々は充分待ったつもりです。王妃様。出来ぬことを他の者に肩代わりしてもらうことは決して恥じることではありません。むしろ円滑に事が運ぶ、奨励されるべき行いなのです。出来ることを、出来る者がすれば良いのです。この国の王妃として陛下と共に立たれるのは貴女様が。ただ、子を産むことだけを他の者に譲ると考えていただければ。勿論、王妃様にも抵抗がおありかもしれません。ですが、何、側妃が無事世継ぎを身ごもるまでの辛抱。ほんの少し間のことと、王妃様も陛下も、重く受け止めずにいただけるとよろしいかと思います」
どんなに彼のお腹の中に真っ黒な私欲で溢れていて、私を丸め込もうとしていようとも、臣下の言葉としてこれは決して的外れなものとは言えないことはわかっている。
だけど、その内容はつまり世継ぎの為に誰かと陛下を共有しろ、もしくは一時的にでも陛下を他の誰かに譲れと言っているわけで、私はその、あんまりな内容に軽い吐き気を感じてしまう。
なのに、
「陛下に側妃を勧めることもまたこの国の王妃としての役目とご理解ください。まったく取り合ってくださらぬ陛下も、王妃様の願いとなれば耳を傾けられましょう。それに、」
おじ様は、わざわざ私の方へ一歩歩み寄り、続けて耳元でこう囁いた。
「その方が王妃様もきっと重荷から解放されて気が楽になられるのではないでしょうか」
「……」
気が楽、ね。
「それとも、王妃様は本当のところ、後ろ盾であるアブレン王と共に我が国の王家を途絶えさせたいと企んでいらっしゃるので?」
私はそれにこみ上げてきた吐き気を無理矢理呑みこんで「……まさかそのようなことはありませんわ」と今度は素っ気なく一蹴して軽く瞳を伏せた。
――ああ、嫌だな。
何も知らないで好き勝手に。
最初の頃は聞き流せていたその内容が、最近では耳障りに聞こえて仕方がない。
もうそろそろいいだろうか。
尚も饒舌な口を閉じる気配のないおじ様の話を適当な相槌である程度聞き流した私は、そう考えて半分ほど閉ざしていた瞼を持ち上げた。その時、
「おい、さっきから聞いてりゃ何が王妃の役目だ」
そこへ突然割って入った声に、私は驚いた。
「なっ……! ヘドマン殿」
見ればいつの間にかオルスがおじ様の背後にいて、明らかに苛立った睨み付けるような瞳でおじ様を見下ろしている。
「そもそも陛下は他に側室なんかとらないってアブレンの王に誓ってるんだ。それを早速反故にするなんて、わざわざアブレンに喧嘩を売るようなもんだぞ。あんたはまだ“レストアとアブレン両国の和平のための結婚”ってやつの意味がわかってねえのかよ。勘弁してくれよな。この王妃を軽んじて、もし何かあったらお前らだけじゃなくこの国自体が叩き潰されるんだぞ。こいつがアブレンに泣いて帰りでもしたらあのシスコンのことだ。本気でやるに決まってる。せめてシスコンじじいが死ぬまで待て」
「しかし、元々この娘はレストアの人間で、」
「あー、はいはい」
オルスはおじ様の反論に煩そうに片手の人差し指で耳の穴を塞ぎながら、「でもあのじじいがそういう風に扱ってるんだから仕方ねえだろ」と一蹴して、そして私の方に向き直る。
「まったく。なかなか来ないと思ったらこんなところで捕まってたのかよ。あまりにもお出でになるのが遅くて迎えに上がりましたよ。急ぎますので、もうお話はこの辺で終わっていただいてよろしいですか? 王妃様?」
……そういえばオルスは今から行く孤児院に護衛としてオルスも付き添ってくれるのだったわ。
それを思い出して、臣下の前だからか、なんだか違和感たっぷりな口調で言ったオルスに私はふっと吹き出しそうになりながらも「ええ」と頷いた。
横目でおじ様に視線を向けると、そんな私たちのやり取りに彼は何か言いたそうに苦々しく歪めた顔を伏せながら「失礼します」と一礼してこの場を去って行く。
私はやっと立ち去ったその姿にふぅと息を吐いて苦笑いでオルスを見上げた。
「助かったわ。ありがとう、オルス」
「……いや。いいけど、王妃になったらなったで大変だな」
「まあ、ね……」
「ん? なんだかいつもの威勢がねえな。流石のお前もうんざりか」
「……うーん」
私が首を傾げて濁すと、オルスなりに気を遣ってくれたのか元気づけるように笑いかけてくれた。
「あんまり真に受けるなよ。あいつらがなんて言おうと新しい側妃なんて陛下が許すわけねえんだから。陛下だってそう言ってただろ?」
「うん、分かってるけど」
「だろ?」
――『この子をレストアの正式な王妃に。確かにそれをこの同盟の条件とするけれど』
兄上が私をティアだと信じて侵略を止めると誓ってくれた国境で兄上は陛下と私にこう仰った。
『私も世を知らぬわけではない。心変わりなんて論外の理由は別として、何らかの事情でどうしても側妃をとる必要が出て来た場合は、それを決して許さないなんて無理なことは言わないよ。ティアも、アブレンでそう教え込まれて育てられてきたんだ。よく理解している。そうだろう? ティア?』
『……っ!』
兄上のその問いかけはきっと、どうしても兄上のいるアブレンではなく陛下の元に行きたいと言った私が、もしそんな事態に陥るようなことがあったときに必要以上に傷つかないようにと、敢えて確認という形で忠告してくれたのではないかと思う。
……忘れていたわけじゃない。それは昔、周りから、耳にタコができるんじゃないかというほど何度も言い含められてきたことだった。他国の王に嫁ぐのなら必要となる覚悟だと。
でも頭では分かっていてもそれを受け入れることなんて出来ないのはもう、すでに経験済みで、きっともう
堪えられないのは明らかで、でも、少しでもその可能性があるのならと陛下から離れてしまう選択なんてしたくない私は俯き、ぐっと唇を噛み締め答えを詰まらせた。
だけど、そんな私を陛下は抱き寄せて、兄上に自ら宣言してくれた。
『無駄な心配をしなくても、俺はどんなに状況に陥ろうとも他に妃を娶るつもりはない。エリカ一人でいい』
と。
意外だったのか、兄上が少し驚いたように目を瞠り、陛下をじっと見つめた後ひどくつまらなそうに息を吐き出した。
『……ほう。ならばその言葉、違えぬように』
“合格だよ”
耳元で、私にだけ聞こえるように囁いた兄上の声を聞きながら、私は、陛下の言葉にホッとすると同時にやっぱり自分の選択は間違いじゃなかったと思った。
不器用なほどに誠実な。陛下がそんな人だって、私は充分知っていたから。
だから、貴族たちが勧めてくる“新しい側妃”なんてものは今のところ気にしていない。同じように言われている陛下が本当に全く相手にしていないことも知っているから余計に。
それよりも今、私の心に揺さぶりを掛けてくるのはそっちじゃなくて……。
そこまで考えて、荷物を持っていない方の手で軽く頭を抱えていると、何も知らないオルスが「それに子どもでも何でもポンポン産んで見せれば誰もお前のこと石女だとか言えなくなるさ」と笑いながら言ってきて、私は更に「あのねえ」と大きくため息を吐き出した。
「そんな簡単に言わないでくれる?」
「ん? 何か問題でもあるのか?」
「問題は……ない、けど」
「けど?」
「う、ううん。何でもない」
つい口を突いて出た躊躇いの言葉をオルスに言及されて、私は慌てて首を左右に振る。
「エリカ」
「問題とかじゃなくて、貴方までさっきの人と同じようなデリカシーのないこと言ってこないでって意味よ。私だってそれなりに気にしてる話題なの」
「あー……。そうとは知らず悪かったよ」
気分を害したふりをしてツンとそっぽを向いて見せると、上手く騙されてくれたらしいオルスが気まずそうに謝罪の言葉を口にした。
本当は嘘なのに。私の不安を誤魔化すために、きっと慰めてくれようとしたのだろうオルスを悪者にしてしまったことを申し訳なく感じるけれど。
「まあ、陛下はお前のこと大切に想ってて、お前さえ居ればいいんだから、さっきも言ったけどあんまり気にするな」
「……うん」
確かに。陛下に、とても大切にされているのは感じる。
相変わらず愛想なんてどこにも無いように見えるけれど、私に触れる手は優しくて、私を必要としてくれる。
2度目の人生とはいえ、いよいよティアが人生を終えた年齢に追いついてしまった私は、初めてその先の部分を歩みはじめたばかりで、実のところ、どんなに周りに騒がれようとも自分が子どもを産むだなんてことは、全くピンと来ていないというのが本音だ。それでも、私のまだ不安定な、王妃としての立場を盤石なものとするためというだけでなく。
純粋に、この人との子どもを抱いてみたいと憧れて、単純に切望するような気持ちが湧き上がってくるのを、私を組み敷く陛下の腕の中で感じたことは何度もある。きっと、とっても可愛い子だ。
それなのに、
――『私のエリカを返してっ!!』
ここのところ毎晩夢に現れる、私に詰め寄る“母”の泣き顔と悲鳴が私を苦しめる。
「おい。エリカ」
「っ! ……な、に?」
「急いでるのは本当だからさっさと行くぞ。お前と一緒に孤児院行きの奴らは皆揃ってるんだ」
「え!? そうなの? 大変っ」
「そんなボケッとしてて今から孤児院の視察と運営状況の確認とか大層なことお前に出来るのかよ。只でさえバカなのに」
お城の中を走るわけにはいかず、でも出来る限りの速度で歩き始めた私に、オルスがケタケタと笑い声をあげて尋ねてきて、私は肩を落として「あのねえ」とオルスも分かっているはずなのにと思いながらも今一度訂正する。
「そんなの、どうせ恰好だけだわ。だから今回は貴方たち護衛だけじゃなく監査の人間にだってついてきてもらうんじゃない。今回の私の役目はただの王家に対する人気取りよ。私、さっきみたいな貴族たちからは未だに邪魔者扱いだけど庶民たちからは応援されてるみたいだし、孤児院なんて私自身が孤児のようなものだから特にね」
「さっきから気になってたけど、じゃあそのでっかい荷物はなんなんだ? もしかして資料でもなかったりとか……」
オルスが視線で示してくる、私が腕に抱えている大きな袋の中身は勿論資料なんかじゃない。
「これ? これは私が選りすぐった子どもたちへのプレゼントよ。色んなおもちゃが入ってるの。これで思いっきり遊ぶ予定だから。勿論、貴方も一緒に」
「は?」
「大丈夫よ。オルスはきっと子どもと一緒に遊ぶのに向いてるんじゃないかと思うのよね」
「何を勝手に。オレは他の護衛と警備の指揮に忙しいのにそんなこと何でやらなくちゃなんねえんだよ。こっちがどれだけ今回の外出に気を張らなきゃいけないかお前、分かってないだろ」
「あら、そうなの?」
そんなの、分かってないわけないけど、あははと笑って、私はオルスと、自分の心に渦巻く不安を誤魔化した。
でもオルスは駄目だとしても私は、せっかくだから目いっぱい子どもたちと遊んで余計なことは考えないようにしなくちゃ。
別に、今まで忘れていたわけじゃない。
でも、今更になってこんなにも両親のことを思い出してしまうのは。
きっと私は怖いのだ。
自分が彼らから奪ったものを得たいと思う自分の浅ましさも。
自分が奪ったものの大きさを知ってしまうことも。
だから身勝手な私は思ってしまう。
二人が私のことなんかなかったことにして、もう全部忘れてくれていたらいいのに、と。
そうすれば、私の罪悪感も薄らいでくれるから。




