こんな日常(三)ジェルベ視点
恋愛事では気持ちがより大きい方が負けなのだと幾度か耳にしたことがある。
そしてそれはきっと本当なのだと実感しながら。
俺はいつも、この我が儘で勝手な妃がたまらなく愛おしく、そして、それと同じくらい憎たらしくて仕方がない。
例えばこんな夜は特にそうだ。
俺はなにやら情けない顔で侍女たちが去っていったドアの方を見つめるエリカの傍まで歩み寄りその額に手を伸ばした。
「熱はないようだが」
――『私、体調が悪いから他の部屋で寝ようかな、って』
エリカはそう言ったけれど。
それならばベティーが大人しく部屋を去っていくはずなどなく。
だからこの結果は案の定で、エリカもあっさりと「それは嘘なの。ごめんなさい」としゅんと俯きながら認める。
やはりか。
そう思いながら、念のために「ならそのシーツは何だ? そんなものを巻き付けて寒いのか?」と尋ねてみる。
するとエリカが首を左右にふるふると振りながら「そういうわけじゃない」と答えて、なんとなく状況を理解した俺は一つ溜息を吐き出した。
まったく。何をやっているのか……。
シーツを体に巻き付ける前。
先ほど目の前を駆け抜けたエリカは、いつも身にまとっているような白い寝衣ではなくやたらと頼りなく感じる薄ピンクの生地でできたそれを着ていた。
そして現在のこの格好と先ほどの騒ぎよう、出て行った侍女の一人が腕にかけていた白い服らしきものから推測するに、なぜかエリカは彼女たちの手によって着たくもないあの寝衣へと無理やり着替えさせられたのだろう。
そこまで考えて、俺は侍女たちに対して“余計なことを”と思わずにいられない。
何を着ていてもどうでもいいとまでは言わないが、結局俺にとっては面倒な作りさえしていなければそれでよく、いつもと違うその寝衣のせいで別室に行かれたり、こうして身構えられたのでは堪らない。
それなら恰好などなんでも構わないからいつものように笑顔で歓迎されたかった。
こんなに落ち着かな気に視線を彷徨わせ拒絶を示されたのでは何のために少しでも早くと政務を終わらせたのかわからない。
だから、
「早く着替えてこい」
小さくため息を吐き出し、衣装部屋へと促した。
それに対してエリカはハッとしたように俯けていた顔を上げてこちらを見る。
きっと急いでそちらの方へ走って逃げ込むだろう。
そう思っていた。
これでエリカも安心するはずだ、と。
けれど。
「でも……」
何故か見開いた瞳を不安げに揺らしたエリカはその場から動かず、胸元で固く握りしめていたシーツの中を見下ろして、またこちらに視線を戻し迷うように口元をゆがめ、そして再びそれをシーツの中に戻す。
着替えたいんじゃなかったのだろうか?
そのまま動く様子のないそんなエリカを不思議に思っていると、「あの、陛下……」とおずおずと呼びかけられて、俺は「なんだ?」と返す。
意を決したようにうなずいた後、小さな歩幅で僅かな距離を詰めたエリカはそっと上目遣いでこちらを見上げてきた。
「あの、ね。お願いがあるんだけど……」
その言葉自体はエリカの口からよく聞くものだ。
だけどそれは普段の明るく弾むようなものだったり「おーねーがーいー」と騒ぎ立てる感じのものとはまた違う。
どちらかというと義兄に向けるような計算されたねだり方だ。
だけど相変わらず不安そうな色を見せるエリカの表情に、俺は大人しくその“お願い”というものを言ってみろと視線で促した。
そういえばベティーも『エリカ様が折り入ってお話したいことがあるそうですわ』と言っていたが。
「あの、」
エリカがもう一度言いよどむ。
「あのねっ」
何か食べたい菓子でもできたと言うには少し大げさすぎるし、これは今滞在中の義兄からアブレンへの里帰りでも提案されたのだろうか。
そうだとすると勿論却下だが。
「怒らないで聞いてほしいんだけど」
「だから何だ」
なかなか言おうとしないエリカを促す。
だけど、少し大きめに息を吸い込んだエリカが勢いをつけて口にしたのは思いもよらぬ“お願い”で。
「陛下のこと、名前で呼んでもいいかしらっ」
「…………は?」
それはあまりに突然言い出されたことで意図が全くつかめない。
俺は訝しさに思わず眉を顰めた。
「何故だ?」
「べ、別に深い意味なんてないのよ。だけど、兄上が私は陛下の妃なのに“陛下”ってしか呼ばないのは他人行儀だ、って。兄上もアブレンの国王だから紛らわしいって言って、えっと……。無理にとは言わないし、一回だけでもいいのだけれど。ど、どうかしら? やっぱり嫌……?」
「別に構わないが……」
「え?」
案の定義兄の指金のようではあるが、なんだそんなことかとやや脱力しながら答えた俺に、エリカがきょとんとして、そしてこちらを凝視しながら恐る恐る口を開く。
「いいの? “私”が、陛下を敬称じゃなくて名前で呼びたいっていってるのよ?」
「別に本来どう呼ばれようと何もこだわりがあるわけじゃないからな」
ただ自分の立場上、それが自然と“国王陛下”で固定されているだけで、俺にとって別に名前など個人を区別しやすくする記号の一つでしかない。誰にどう呼ばれたいとか深く望んだことがないほどにはこだわりも関心もないものだ。
だけど、エリカは何を疑っているのかそれでは納得できなかったようで「でも、最初に一緒に過ごした夜にあなたは名前で呼ぶのはやめろと言ったわ」と反論してくる。
そういえばそういう会話をしたような気がしないでもないが。
「普通に考えて、素性の怪しいほぼ初対面の人間に馴れ馴れしく名で呼ばれるのを喜んで受け入れる方がおかしいと思うが」
「じゃっ、じゃあ素性が怪しくなくて顔見知りなら誰でも大丈夫だってこと!?」
それはまた極端だし、自分に対してそんなことをしようと思う人間なんていないだろうとは思いつつも、何やらエリカの瞳が縋るようにこちらを見つめてくるから取り敢えず「ああ」と頷いてみた。
なのに、
「なんだ。そっか。特別だからじゃなかったんだ」
特別じゃない方が嬉しいのだろうか。
嬉しそうにエリカは頬を手で包み込み口元を綻ばせる。
いつものことだが、その単純なはずの思考回路はときにさっぱり分からないものとなる。
そして、
「うん。じゃあ問題も解決したことだし、私、着替えてくるっ! ちょっと待っててね、陛下」
そう言って晴れ晴れとした上機嫌でくるりと踵を返して駆けだそうとするエリカの肩を俺は咄嗟につかみ捕えた。
「? なあに? 陛下?」
なあにって……。
「……名前」
「え?」
「呼ばないのか?」
「へ?」
きょとんとエリカはこちらを見詰めてくるが戸惑いと疑問符を浮かべたいのはこちらの方だ。
「他人行儀で紛らわしいんだろう?」
「あっ、それならもう大丈夫だから。気にしないで?」
「……」
何が急に大丈夫になったのか。
あんなふうに切実な様子で頼んでおいてのこの方向転換に、俺は湧き上がった苛立ちを隠すことなく端的に命じた。
「呼べ」
びくりと身体を震わせたエリカは、不思議そうに首を傾げて「呼んでほしいの?」と尋ねてくる。
俺がそれに「ああ」と頷くとエリカは意外だと言わんばかりの表情を浮かべて途端に戸惑いだす。
「い、いいけど……」
おずおずと口を開いたエリカが、だけどちゃんとそれらしい行動をとったのは俺を見上げながら一音目を発音したところまでだった。
「ジェ……」
小さくその音だけ漏らしたエリカは一度口を噤み、幾度か口を開け閉めした後、顔をみるみる赤面させて挙動不審気味にうろたえだす。
「ちょっと待って!」
そして仕舞いにはあからさまに怯みながら後退していった。
「む、無理……」
「無理?」
何がだ、と思わず片眉をピクリと持ち上げて低く問うと、今度は勢いよく顔を上げたエリカがシーツを両手で硬く握りしめたまま左右に首を振る。
「いや、ちょっとこれ、予想以上に照れるというか……。やっぱり今更だわ」
その気にさせておいて今更なんて、それこそこちらの台詞だと思うのだが。
「そうだ! そういえば私、最初の日に一度呼んだはずだもの。だから、それで帳消しでいいんじゃないかしら」
「なるか。そんな前の話」
「だって、貴方、さっき呼ばれ方にこだわりはないって。だから!」
「呼べ」
必死に拒もうとするエリカに俺は再度命じた。
確かにこだわりも関心もなかった。
だが、提案されてみてとても興味がわいたのだ。
この唇から紡がれる名はどれほど自分の耳に甘く響くのだろうかと。
それなのに、
「嫌よ。無理っ」
自分から言い出したことのはずなのに往生際の悪いエリカへ、ならばと俺は片手を腰に伸ばし軽く抱きしめて、もう片方の手をキッと抵抗を示す顔に添えて耳元に口づけた。
そのまま敢えて唇を避けて添えた手と口付けの位置を徐々に下げていく。
「ちょっ、なっ?」
それが首筋まで降りて、俺がエリカの手に指をかけたとき、困惑したエリカから抗議の声が上がった。
「このまま続けていいなら別に呼ばなくていい」
つまり、この下にある寝衣を見せることになりたくないならさっさと呼べと言外に脅す。
けれどシーツを固く握りしめるエリカには、実質何の抵抗も出来ないはずで。
「そんなの卑怯っ」
「どうでもいい」
「んっ」
エリカの背に回していた手でその体を撫でると一気に身体から力が抜けていき、そして胸元へと唇を下ろしたとき、
「あの、陛下」
「なんだ?」
俺へかけられた声に応える。
まだ理性が残っているこの状況で先をねだるようなことはエリカに限って絶対に有り得ない。となるとようやく観念する気になったのかと思った。
のだが。
こちらに向けられたのは予想していたものとは全く違うその言葉。
「痕っ。もう残さないでね」
「は?」
「侍女たちがこれが何かちゃんと気付いてたみたいで、その、そういう目で見られてたなんてやっぱり恥ずかしいから、もうつけないでって言ったのっ」
「……言いたいことはそれだけか?」
空気の異変を感じたのか、エリカが頬を引きつらせながら目を泳がせる。
「えっと、やっぱり私、体調が悪いみたいだから別室に行ってもいいかしら……?」
「ふーん」
「え? えええええーーーーー!!!????」
翌朝。
「もうっ。これをどうやって隠せっていうのよ!?」
昨夜、俺が噛みついた痕が残る首筋を抑えながらエリカが嘆きの声を上げていた。
「侍女の皆はもう諦めるしかないとしても、こんなの兄上に見られたら恥ずかしすぎてもう顔を合わせられないじゃない」
「ならせいぜい消えるまで引きこもるか、その侍女たちと一緒に隠す努力をするんだな」
むしろ顔を合わせづらくなってくれた方が俺としては都合がいいくらいだと吐き捨てると、エリカは「誰のせいだと思ってるの!?」と手にしていた手鏡を隣で横になったまま頬杖をついて様子を眺めていた俺に向かって投げつけてきた。
力が出ないのかあまり威力はなかったが。
俺はエリカの手首を引き寄せそのままぐらついた体を組み敷いて断言する。
「あれは嫌。これは駄目。勝手ばかり言うお前の自業自得以外何がある?」
するとエリカはむーっとバツが悪そうに顔をしかめ、そして直後何かを企んだように悪い微笑みを浮かべて腕を俺の首に絡め引き寄せた。
「結局無理やり呼ばせたくせに。ねえ、ジェルベ様」
そのままがぶりと同じ場所を咬み返されて。
「仕返し」
ふんっと俺の下でそっぽを向きながらそう呟く。
だけど、平気なふりをしつつもその精一杯さを感じさせる響きで呼ばれた名と、耳まで真っ赤に染めた姿はまるで逆効果にしかなっていないと本人は気付いているのだろうか。
だから、
「え、ちょっ、もう無理っ! それにもうすぐベティー達が起こしに来る時間だからっ。ダメだってばーー」
俺はやっぱり今日も愛しい愛しい我が妃に見事翻弄される羽目になるのだった。
*その後*
「ところで仕返しは別にいいんだが、これが実際同じように痕になった場合、俺がお前のように衣装や装身具で誤魔化すことも不可能だと、ちゃんと分かっていてやったのか?」
「!!!! お願い、消えて~~~」