こんな日常(二)エリカ視点
教訓:無暗に嫉妬なんかするものじゃない
その日の夜。
いつものようにお風呂で清めた身体を侍女たちから香油で磨いてもらい、差し出された寝衣へ言われるまま袖に手を通しながら私はぼんやりと一人躊躇いに心を揺らしていた。
名前……――。
「どうかなさいましたか? エリカ様」
ベティ―からそんな声がかけられて、今度は髪の手入れをしてもらうため椅子に腰かけていた私は目の前に膝をついて覗き込んでくる彼女へと視線を向けた。
基本的にこの時間、いつも楽しく侍女たちとお喋りしている私がぼんやりしたまま大人しいから、きっと気にかけてくれたのだろう。
「ねえ、ベティ―。陛下って……」
陛下って……。
ぼんやりとしたままそう問いかけて、でもやっぱりと思い直して私は「ううん。いい」と小さく首を振った。
そんな私に、ベティーは不思議そうに再度「エリカ様?」と呼びかけてくる。
私はそんな彼女の視線を受けて、どうしようと瞳を揺らした。
彼女は元々陛下のお母さま付きの侍女で、陛下のことも、生まれたときから傍にいるというだけあって本当に良く知っていて、とても頼りになる存在だ。
そして、私は彼女の優しいこの眼差しに少しばかり弱いらしい。
促されるように見つめられると、結局はどうしても気になってしまっている事柄と相まって、観念した私は恐る恐る、再度、問いなおすことにした。
「あの、ね。やっぱり、陛下は私から名前で呼ばれるのは嫌かしら」
「お名前で、でございますか?」
「え、ええ」
『本来呼び方一つで親密さが分かるというものだよ。ティアが誰よりも彼と親しいはずなのに』
陛下のことを名前で呼ぶ、ということ自体は簡単。
普段、彼のことを“陛下”としか呼ばない私がいきなり名前で呼んでみたら、兄上の仰ったとおり多少は動揺だってさせられる、と思う。
だけど、本当はもうそういうのはどうでもよくって、ただ気になっているのは、
それを、彼がどう思うか――。
「怒ったり、するかしら」
止めてくれと、言われてしまうかしら。
そんな不安が心にもやもやもやもや漂い続けている。
「そのようなことは有り得ないかと」
何故か緊張感を孕んだ様子で、ベティーはそう断言してくれたけれど。
「でもね、最初にもね、陛下には名前で呼ばれるの好きじゃないって言われたし」
「それは……あくまで以前のお話でございましょう?」
「そうなんだけど、あの……、それが誰かの特別な呼び方だったりとか、するんじゃないかなーって思って、あの……」
恐る恐る、私は意を決して。でもベティ―の反応を伺いながらポツリとベティ―にそう尋ねた。
ジェルベ様、と。
アリス様が、陛下をそう呼んでいたことを知っている。
“誰か”と濁しはしたけれど。
他に陛下のことを名前で呼んでいる人はランベールくらいしか知らないし、奴は陛下の叔父だし“様”なんてつけていないから少し違うかもしれないし。
敢えて尋ねたことなんてないから陛下の中でアリス様が今どんなふうに処理されているのか分からない。もうこの世にはおられない方だし、我ながらこんなのは不毛な嫉妬だとも思う。
今の私が躍起になったところで過去はどうしようもないものだもの。
だけど、
――『ティアが誰よりも彼と親しいはずなのに』
兄上の言葉通り、私だってそうでありたいと思う。
「私ね、あんまり心が広くないの。だからね、陛下が誰かに許していることを私に許してくれないのは嫌だと思うの。でもそんなの私の勝手だし……。ねえ、ベティ―はどう思う? 訊いてみても大丈夫かしら」
アリス様に。ううん、彼女だけじゃなくて陛下のことをよく知っているベティ―やオルス、アルフレッドにだって負けているところなんてあってほしくない。
別に、今更陛下を名前で呼びたいなんて思ってはいないし、一度きりのことなんだけれど。
だけど、拒否されたらと考えると、すごく落ち込んでしまうだけじゃなくって、きっと陛下を困らせる事態に陥るだろうことも分っているから、心の内に沸いた闘争心のまま無暗に尋ねてしまうこともできなくて凄く迷うのだ。
だから私の勝算がいかほどのものなのかを知りたくて尋ねたのだけれど、何故かその瞬間、私の髪を丁寧に梳いてくれていた侍女たちの手は止まり、ベティーは何やら型に取ったようなにっこりとした笑みを思いっきり顔に張り付けてこう言った。
「とりあえず、そっくりそのまま陛下にお伝えしたらよろしいかと」
「あのっ、ベティ―様。念のためにエリカ様にはとっておきの寝衣へのお着替えをお願いいたしましょうか!?」
「え、ええ。そうね。すぐに用意してちょうだい」
ベティーがそう答えるなり、侍女の一人が慌てた様子で衣裳部屋へと駆け込んでいく。
「え? なんで着替え? 念のためってどういう意味!?」
なんでいつの間にかみんな、目が血走らん勢いなのだろうか。
そして困惑する私へと戻ってきた侍女が差し出してきたのは薄ピンクのシフォン生地に繊細な刺繍が施されたすごく綺麗だけど、うん、絶対それ全てが透けるよね! と慄かずにはいられないような代物で。
見覚えのあるそれは、確か私が初夜の日に全力で拒否した寝衣だ。間違いない。
そして、余計なお世話なことに私に用意されている寝衣は全てリボン一つで簡単に脱げてしまう仕組みになっていて、今着ているものは背中の方にそれはある。
後ろの方で先ほどまで使っていた櫛をさっと置いた侍女が「エリカ様、寝衣を失礼いたします」と手を伸ばしてきて、目の前では例の寝衣が捧げ持たれ……。
危機を感じた私は慌てて椅子から立ち上がり壁際に逃げ込んだ。
だけど侍女たちは「さあ!」と意気込んだ様子で追いかけてきて。
「も、もしかして、陛下を名前で呼びたいなんて言ったらそんなに怒るのかしら? だから、そんなので誤魔化す必要があるの? でも、私、色気なんてものないからそんなの着ても何も効果がないと思うの」
悲しいかな。相変わらず私の体は貧相なまま、さして見ごたえのあるものではない。
だから色気で怒りを誤魔化せ作戦は使えないと思う。
陛下もそんなもので誤魔化せる人ではない、と信じたい。
すると、侍女たちの視線が静かに、そして何か意味ありげにゆっくりと私の胸元に移動した。
どうしたのだろうとその視線の先を追っていくと、寝衣から覗くそこには赤い痕が一つ……。
っ!!
今までいくらそれがあったとしても誰も何も言わなかったから全然気にしてないものかと思ってたのに!
「ち、違うわ。これは……」
何も違わないけど、でもっ。
「大丈夫ですわ。陛下はきっとお喜びになりますから、エリカ様は何も気にせず、わたくし共にお任せください。さあっ!!!」
「いやいやいやいや、それだけは嫌ーー!!」
「絶対お似合いになりますから~」
「いいのっ。もう名前で呼ぶのは諦めるから、勘弁してーー」
「……随分にぎやかなようだが、何をやっているんだ?」
「「「「陛下!!」」」」
騒がしい部屋に突然低い声が響き、私ははっと振り返る。
そして手際のよすぎる侍女たちによって見事なタイミングで着替えが完了となっていた私は慌ててベッドに駆け寄り勢いよくシーツをはぎ取って体に巻き付ける。
時間にして3秒程度の早業だった。
きっと陛下には見られてないと神に祈ろう。
後はこのまま逃げれば何とかなる。
なのに!
「何でもないのよ。ちょっと、私、体調が悪いから他の部屋で寝ようかな、って相談を」
「陛下。エリカ様が折り入ってお話したいことがあるそうですわ。それではわたくしたちは失礼いたしますから、あとはお二人で」
そう言ってそそくさとベティーをはじめとする侍女たちは部屋から出て行ってしまって……。
そんな……。
私はパタンと閉められたドアの音を、絶望の気持ちで聞くこととなってしまった。




