ティア姫の大冒険(二)
「ねえ、兄上。早く早く!」
私は小声で秘密の地下通路に続くのだという扉の中の石階段から、まだお部屋の中にいらっしゃる兄上を呼んだ。
「絶対に、今回だけだよ」と念を押す兄上の言葉にしっかりと頷いて、開かれたのは直系の王族だけが知ることを許される物であるらしい通路への扉。有事の際、王族が密かに城外へ逃れることが出来るように。国を守る者を決して失わないために存在しているというこんなものがまさか父上の執務室の、本棚を隠し扉として存在していたなんて。
初めて存在を知り、促されて先にそこへと足を踏み入れた私はきょろきょろと視線を彷徨わせながら兄上が続いてくるのを待つ。だけど、兄上は「すぐに行くから」と返事をしてくるだけでなかなか続いてこない。
もう、兄上は何をしてらっしゃるのかしら。
早くしないと父上が執務室に帰って来られるかもしれない。そしたら見つかってしまうわ。それにこんなに暗いところに一人だけというのもとても心細い。
兄上が用意してくださった灯りを一つ手にしているけれど、ゆらゆら揺れる炎はなんだか心許なくて、数段ほど下へ降りた階段へともう一度足をかけて、入口から兄上の様子を窺おうとした時だった。漸く、兄上が薄く開いたままにしていた扉に手をかけてこちらに姿を現した。
「もう! 遅いわ。何をしていらしたの?」
「うーん。これから外に出るための準備を念のためにね」
「……ふーん?」
外に出るための準備って何かしら? 兄上の姿をよく見てみても、その手には私と同じく灯りがあるだけで大きな荷物を抱えているわけではないし……。
私が首を傾げていると、兄上は閉じた扉の内側にある、なにやらそこに嵌め込まれている、古の文字の刻まれたいくつもの石板をまるでパズルのように動かしている。
「何をなさっているの?」と私が訊くと、兄上はこの扉に取り付けられた鍵の仕掛けを教えてくれた。鍵をかける言葉と開ける言葉。それはこの国を守る王族の一員として、何度となく父上から教えられてきたもの。
兄上が最後の一文字を並べ終えると、ことり、と奥で何かが落ちるような音がした。そして、兄上は「じゃあ行こうか」と私を促す。私は大きく頷いて兄上の隣に並んだ。
暗く、細い路を、灯りを翳して、ただ真っ直ぐと進むために足を動かして行くと、路の先にあるはずのものへの期待に、私の胸がまた楽しく弾んで来る。
「ねえねえ、兄上。私ね、街が見たい。海が見たい。外に行ったらね、お城の中にはないものを沢山見るの」
自然と明るくなる声で語りかけ、はしゃいでいると、だけど兄上が私を見ながらなんだかとても困ったような苦笑を浮かべた。「何?」と首を傾げると、首を左右に振った兄上から、「いや。また私はティアに上手いこと嵌められたようだな、と思ってね」と言われてしまって、私は「そんなことないもの」と否定しながらもくすくすと声を立てて笑ってしまった。
地下通路は、石の塔の中にいる時のように声が大きく反響する。なんだかとても面白い。一人っきりだと心細かったこの暗闇も、兄上が隣に居たら逆になんだかちっとも怖いことなんかなくてワクワクしてくる。
そうして、あっという間に辿り着いた路の突き当り。そこにあったのは、通路に入る際に使ったものと対を成しているかのようによく似た石階段。
私を手で制して、先にそれを上っていった兄上が、真上の、天井が他より窪んでいる部分に取り付けられた取っ手に手をかける。そのまま兄上がぐっと力をこめて横に動かすと、耳障りな石同士が擦れ合う音と共に細い光が暗い地下通路に差し込んだ。
兄上は開いたそこからゆっくりと顔を出し、辺りの様子を窺って、そして階段を上りきって扉の外へと一瞬姿を消してしまった。
私が待っていると、兄上がこちらに顔をだし、上の方から私に手を差し伸べてくる。
「おいで、ティア」
――ああ、いよいよ。
兄上の手を取りながら、私はドキドキと鼓動を大きく響かせてゆっくりと階段を上る。
きっとこの先にあるのは、初めて踏む、王城の外の世界。
大きな期待と不安が混じりあう。
私は、真上から降り注ぐ光の、あまりの眩しさに目を細めながら兄上のもとへ、……外への一歩を踏みしめた。
「……こ、こ?」
私は兄上の服を両手でぎゅっと握りしめ、恐る恐る周囲をぐるりと周囲を見回す。
そこは勝手に街の真ん中だと思っていたのに、思いの外、しんと静まり返っていて、直ぐ横には白く大きな像が立っている。それはまるでお城の礼拝堂の片隅の光景によく似ていて、私は兄上を見上げて思わず「本当にここはお城の外なの?」と半信半疑で尋ねてしまった。
兄上はそんな私ににこりと微笑んで、私たちが出てきた常時は石板を装っているのだろう石の扉をもう一度動かしてから、私の手を引いて像と外壁の陰になっているらしい狭いその場所から私を連れ出した。
「ほら、外だろう?」
「あ……」
兄上に促されて顔を上げた私は、そこに広がった光景に目を見開いた。
アブレン城のことなら隅から隅までよく知っている。どこに居ても見慣れた光景が広がっているはずだ。
けれど、ここは――。
「――ティア!?」
それはほとんど衝動的に。
私は、外壁に囲まれた狭い庭のようなこの場所を駆け出した。
やっぱり知らない。こんな場所。
こんな庭も、建物も。
お城の礼拝堂に似ているけれど全く違う。
だってこれは、お城のよりもずっと簡素で小さな建物。地を踏みしめて駆ける庭もなんだかとても狭くてすぐに外壁の門扉らしきものを見つけることが出来た。
簡素な木製の門扉。それをくぐって私は更に外へと飛び出る。
この、更に外には、今度はどんな光景が広がっているの?
そんな好奇心が胸いっぱいに広がって。
だけど、門を出た次の瞬間、私はそのまま何かにぶつかってしまって、初めて味わった衝撃に思わず足がふらつき尻餅をついてしまった。
どうやらぶつかった相手であるらしいおばさんが「大丈夫かい?」と手を差し伸べてくる。
その手に手を重ねて引っ張り立たせてもらうと、「前を見ないで走ったら危ないよ」とまるで軽く叱るようにおばさんは言って、私のドレスを軽くはたいてくれて。そして「気を付けるんだよ」と言い残してすぐに去って行ってしまった。
私はやけにあっけないそんな彼女の後姿を、吃驚と、目を丸くしながら見つめる。
……信じられない。
たったそれだけだなんて。
これが城の中ならば、当然皆が私に道をあけてくれて、ぶつかるなんてことないわ。間違えてぶつかるようなことがあっても、きっと相手はもっと怪我がないかもっと真剣に確認してくるはずだし、ましてやあんなふうに私に注意するなんて……。
そんなことが出来るのは父上と母上、それに兄上と傍につかえている数人の口うるさい侍女たちだけだわ。
それに。
私はおばさんの姿が遠くに消えたところで路地であるのだろうそこを行きかう人々の姿を、ぐるりと見渡した。
私が、ここにいるというのに。そのまま素通りしていく皆の姿。
勿論、ちらりと、私を見てくる人はいて、目が合うこともある。にこりと笑いかけられることもあるけれど、でもただそれだけで。すぐに一緒に歩いている人と話をしたり、何もないかのように皆、視線を元に戻して去っていく。
「ティア」
後ろから、ため息交じりに兄上に頭を小突かれたけれど、私は振り返らずに、呆然とただその光景を見ていた。
「ねえ、兄上」
「なんだい?」
「誰もティアのこと気にしないの」
私の言葉に兄上は「うん。誰もティアが王女であることに気付いていないからね」と頷く。
「気に入らないかい?」
そう問われて。私はその言葉にふるふると首を左右に振った。
「ううん、違うわ」
本来あるべきはずの、お城の中では当然のものであるその対応。
それを不快に感じたことなど別にない。
だけど、
「嬉しいの」
「そう」
「うん!」
だけど、少しだけ、それは寂しいから。
とても嬉しいの。
私がくるりと兄上の方を向くと、兄上は優しく私に微笑みかける。その後ろには、私が生まれてからこれまでずっと過ごしてきたお城がそびえて見えた。
「これで私はただの“ティア”なのね! 誰も、私に気が付かないし、私を捕まえてあそこに無理矢理連れ戻そうなんてしない! 私は自由になったのね!!」
ここでは、いつもされているような私に対する特別扱いはない。
ここにいる私は、きっとただの小さな、9歳の女の子で。
それって、とても凄いことよ!
「父上たちが気づくまでの間は、だけど」
「それなら早く冒険しなくちゃ! ねえ、街はどっちなの?」
私は、兄上が「あっちだよ」と指差した方へと再び駆けだした。
「ねえ、兄上も! 早く早くっ」
「ティア! だからそんなに走ったら危ないよ。ほら、よく前を見て」
「大丈夫。もうちゃんと分かってるわ」
今度は人にぶつからないように気を付けながら。
次第に密度の増していく行く人の流れに私の期待は高まっていく。
やがて現れたのは、多くの人と露店のひしめく大通り。
そこはとても賑やかで、とても活気づいていて。
いつも、きれいに整列して、畏まっている大人たちしか見たことのない私には、人々が自然と行き交う姿を目の当たりにするのは初めてで。
立ち止った私は遅れて後ろからやって来た兄上を振り返って兄上に確認する。
「ここがハイリアの街ね!?」
そう尋ねると兄上はにこりと微笑んで頷いた。
――これが城下の街。
私は「すごいすごい!」」とはしゃぎながら、兄上の手を取って、兄上を軸にしてくるくると回った。
周りの人たちが、何事だろうというような、好奇の目で見ていたけれど、それでもやっぱりみんなは私が誰であるかなんてことに気づかなくて。人々の態度が変わることはなくて、またそれが面白い。
私はそのまま兄上の手を引っ張って、早速露店めぐりに乗り出した。
とても簡素な、細い木の棒に布を張っただけの造りの露店。
この露店は、この国の民だけでなく、よその国からやって来た商人たちが開いているものも多くて、夜になったら全部片付けられて、いなくなってしまうんだよと兄上が教えてくれる。
アブレンは貿易が盛んな国だから誰でもお店を出しやすいようになっているらしい。
いつも、教科書と教師たちの話によってしか知ることのできなかった世界。
でも、露店の前を通りながら聞く兄上の話は、いつもの“お勉強”なんかよりもすんなりと私の頭に入ってくる。
「ねえ、兄上、兄上! あれはなに?」
そんな中、私の目を一際引いたのは、赤と黒の縞模様の、なんだかとても毒々しい色合いをした、毛むくじゃらの丸いもの。
それが大きな台の上に山積みされている。
私が少し警戒しながら近づくと、露店主のおじさんが笑って私たちを迎えてくれる。
「珍しいな。お嬢ちゃんはラミュの実を知らないのか」
おじさんの言葉に、私はこくりと頷いた。
「うん。私が知っているのは黄色くて柔らかなラミュのほうだけよ」
「え?」
何故か私の返答に不思議そうな顔をしているおじさんに、首を傾げると、隣にいる兄上がクスクスと笑い声をあげる。
「これがその、黄色くて柔らかなラミュなんだよ。ティア。この固い殻を割って食べるんだ」
「お嬢ちゃんはそんなことも知らないのか……」
「! え? だって……」
そんなことも、って??
私は信じられない思いで兄上を見上げる。
食事に出る時はいつも綺麗に切り分けられてお皿に盛られていたんだもの。だから、最初からあんなものなのだと……。
元がどんな形かなんて私は知らないわ。
なんだかバカにされたようでむぅと兄上を睨むと、おじさんがそんな私に「お嬢ちゃんは、ラミュは好きかい?」と訊いてきた。
私が「とっても好きよ」と答えると、
「なら、割りたてのラミュを食べてみたいと思わないかい? ラミュは割ってからの時間経過で果肉の味が少し変わるんだ。割りたては甘さが強くて一番うまいぞ。どうだい?」
ニヤリ、と笑って私にラミュの実を差し出してくる。おじさんの言葉に私が「食べてみたい!」と手を伸ばすと、だけど、おじさんはひょいとラミュの実を遠ざけて「1ディールだよ」と言って反対の手のひらを私に向かって差し出してきた。
「1ディール……?」
何のことだかわからず、きょとんとしていると、兄上が苦笑しながら「商売上手ですね」とおじさんの手の上に丸くて平べったい、鈍色に輝く何かを置く。
「あ……。お金?」
前に一度だけ見たことがある、その存在を私はふと思い出した。
確か、私付きの教師が『これを使って人々は物を売り買いし、生活しているのですよ』と言っていた。
そしてどうやら私の推測は当たったらしく、私に言葉に兄上が「そうだよ」と頷く。
「私も! 私もお買い物をしてみたい!!」
「うん」
それから、私はお行儀悪く割りたての甘いラミュにかぶりつきながら、お金を握りしめて露店めぐりを楽しんだ。
露店に売られているのは初めて目にするものばかりで物珍しくて、兄上から「お金は考えて使いなさい」と言われたけれど、その加減もわからなくて、楽しくお買い物をしていたらあっという間におなかがいっぱいになってしまって、その上、兄上が荷物で埋もれていた。
「ティア……」
「だって……。あ、ねえ、あそこのお店で最後にするから許して? ね?」
「……いや、もうお終いにしていいんじゃないかな」
「だって、ほら見て。あそこに並べられている首飾りがとても綺麗なの。もし欲しいものがあっても大きくないからこれ以上荷物にはならないし、いいでしょ?」
そう言って、渋々頷いた兄上を引っ張ってそのお店に行くと、きらきらと輝く宝石が沢山で、私の目は釘付けになる。綺麗なんだけど、私が持っている装飾品よりもとても素朴な温かみが感じられて、私は思わず「うわぁ!」と歓声を上げた。
「どうだい? 気に入ってくれたかい?」
店主のおばさんに、そう声をかけられて私は「うん!」と頷いた。
「ここのは子どもの小遣いでも買える値段だからね、じっくり見てお行き」
「ええ。ねえ、兄上。どれがティアに一番似合うかしら?」
「うーん。そうだね。首飾りなら、この青色のものも似合うし、紫色の、花をかたどったものもいいんじゃないかな……。ティアなら全部、とても似合うと思うけれど」
「おや、じゃあ全部買ってくれてもいいんだよ?」
そこで、おばさんがからかうように言ってくるから、私も「そうね」と笑う。
「うーん。でもね……」
でも、これだけ買い込んでおいて今更ではあるけれど、この、兄上がくれたお金は、元はこの人たちが働いて、国に納めくれたお金だと、さっき教えられたから。
本当に全部欲しいなとも思うけれどそれもよくないかな、と私は真剣に悩んで……。
「じゃあ、この紫!」
選んだのは、兄上が可愛いと言った紫のお花の首飾り。
そんな私に、おばさんが少しだけ驚いたような歓声をくれる。
「あんた、目が高いねぇ。これはこの店の首飾りの中で一番の高級品だよ」
「うん! とっても可愛くて気に入ったの」
だけど、私が顔をあげると、おばさんはなんだか申し訳なさそうな苦笑にその表情を変えた。
「でも、これ50ディールもするからね……。持ってないだろう?」
「大丈夫」
「え?」
おばさんの言葉に私は余裕で深く頷いて、お金を入れていた袋を探る。
50ディールくらい……。
けれど、
あれ?
まさかと思って袋を覗き込んでみても、ディール硬貨が数枚しか見当たらなくて。
――え? いつの間に?
私が吃驚して慌てた、
その瞬間。
「じゃあ、これで」
「え?」
そこでスッとお金をおばさんに渡してくれたのは兄上。
てっきり兄上は私にあるだけのお金全部を渡してくれていたのだと思っていたのに。
兄上は「こうなることは分かっていたからね。ティアに全額渡すわけないだろう?」と計算済みだよというように笑って。
「そんなことないもの」
私はむくれてみたけれど、この結果を前にそう言い返すのが精一杯だった。
兄上はそんな私の首から、お城からつけてきていた首飾りをとって、買ったばかりの首飾りに付け替えてくれる。
私の首から外された首飾りの大きな1つの石が、赤に、黄色に、青に、キラキラと兄上の手の上で色を変えながら光った。
それを見ていたおばさんが、
「これはたまげた。よく見るとそれは虹色の石かい?」
よほど驚いたのかそう言って兄上の手にかけられた鎖にぶら下がる石をまじまじと覗き込んでいて、私は少し得意げになって胸を張る。
「異国でとれる珍しい石なんですって。父上がくださった大事なものなのよ」
「へー。私は本当はもう一つ、ちゃんとした宝石店を営んでたりもするんだけどね、こんなの初めて見たよ。それに……」
「え?」
「……いや。あんたたちはいったいどこの金持ちの子たちだろうかと思ってね。まあ、大事なものなら気を付けるんだよ。今、この辺では盗みが多発してるんだ」
その言葉に、兄上の瞳がすっと細まる。
父上と同じくこの国のことを大切に想っている兄上だもの。あまり治安の良くなさそうなその話が気にかかったのだろう。
首飾りをしまいながら、慎重に、でもさりげない様子で、兄上はおばさんに尋ねる。
「盗み、ですか」
「ああ。この前も……、って、あら」
だけど、言葉の途中でおばさんは話をやめて、私たちの後ろへ向かって手招きするようなしぐさをしながらにこやかに声をかける。
「こんにちは。ソフィーさん」
それにこたえるように、後ろで人が立ち止る気配がして私たちも振り返ってみた。
「こんにちは」
そこにいたのは、私と同じくらいの年ごろの男の子をはじめとする、数人の子どもたち。そして――。
その子たちを連れた、どう見てもアブレンの人間ではない蜂蜜色をした髪を結い上げた、上品そうな女の人が控え目におばさんへと微笑みかけていた。