ティア姫の大冒険(一)
――外の世界をこの目で見てみたいと思った。
私が暮らすこのアブレン城の、外の世界を。
一度だけでいいの。だって、何も知らないなんてつまらないでしょ?
「兄上、兄上!」
アブレンのお城の中。幼い私の、明るい声が大きく響く。
片腕に夢の詰まった児童書を抱き締めて。兄上のお部屋の扉を勢いよく開け放つと、本棚の前に立って本を広げていた兄上が驚いたようにこちらに振り向いた。
「……ティア?」
その姿に私がパタパタと足音を立てながら駆け寄ると、兄上は手にしていた本を棚に戻して、私と視線を合わせるように腰を屈めてくれる。
「いったい、どうしたんだい?」
目を瞬かせてそう問いかけてくる兄上に、私は訊いてくれるのを待ってました! とばかりに勢いよく、胸に抱いていた児童書を「これ」兄上に差し出して、用意していた言葉をはっきりと声に出す。
「あのね、私ね、冒険をしたいの!」
「……え?」
差し出したのは『レイトの大冒険』という本。
「この本のお話がね、すごいのよ。レイトっていう男の子の仲間にね、私と同じ、王女がいてね、その娘もお城の外に出てレイトたちと一緒に冒険するのよ。いろんな町に行って、森に入ったり海に出たり。大きなね、獣とも闘うの。ねえ、私もその王女のように外に出て色んな世界を見てみたいわ」
私にとって驚きいっぱいの物語だった。
私と同じ立場である“王女様”が仲間と一緒に苦難に立ち向かい喜びを共にする。そんな、この城の中では決して味わえない体験をする王女に。私は彼女の体験に心底憧れて。ついつい自分を重ね合わせてハラハラドキドキして。
本を読み終えた後の興奮をそのままに、私は兄上のところにやって来たのだ。
私も彼女と同じことをしたい、と訴えに。
だけど、その場に落ちたのは何故か戸惑いを含んだ暫くの沈黙。
「……ティア?」
兄上が、なんだか恐る恐る窺うような響きで口にされた私の名に、私は「なあに?」と思いっきり期待を込めて兄上を見上げる。
冒険って魅力的でしょ? 兄上だっていいなって思うでしょ?
兄上ならきっと分かってくれると信じて、「ね? だから一緒に冒険に行きましょう?」と語りかけた。
けれど、兄上は「うーん」と困ったような微笑みを浮かべる。
あれ?
そこで私は、どうやら兄上の賛同は全く得られていないことを悟った。
だって、兄上は私の頭に手を伸ばしながら、宥めるように言うんだもの。
「冒険というのはね、ティアが思っているほど簡単なものじゃないんだよ。本の世界と現実は違う。無理だよ」
「そんな! 大変だってことはちゃんと分かっているわ!」
それくらい当然じゃない。と咄嗟に反論したけれど、兄上は首をゆるく横に振る。そして、私の期待を粉々に打ち砕いていく。
「分かってないよ。冒険に出たらいつもティアの身の回りの世話を全てしてくれている侍女たちもいないんだ。それがどんな生活かわかる?」
「自分のことくらい、きっと自分でもできるもの。大丈夫よ。それに、兄上が一緒にいてくれたら困ったときは助けてくれるでしょう?」
「僕は一緒に行ってあげられないよ。ここで、これからも父上のもとで学ばなければならないことがたくさんあるからね。ティアもそうだろう? ちっとも淑女教育が進んでないと侍女たちが嘆いていたよ」
ぴしゃりと言われたのはそんなこと。そして、私の頭をまるで慰めるようにぽんぽんと優しく叩く。
「どうしても城の外に出てみたいと言うのなら父上にお願いしてみればどうかな。冒険、とは違うかもしれないけれど、ティアももう9歳だ。社会勉強という形でならもしかすると父上も考えてくださるかもしれない」
「……嫌よ! 社会勉強でも、父上は私が外に出るなんて危ないことするのを嫌うもの。お願いしても絶対に許してくださらないし、もし許してくださることがあってもそれは馬車の中から、たくさんの護衛付きでになるわ。今までだってずっとそうだったじゃない。だから私は冒険をしたいの! 自由に外を歩きたいのよ」
「ティア。だから、それは無理なんだよ。なぜ父上が危険なことをするのを嫌うのかわかるかい? 勿論、心配だからというのもあるけれど、何かあったら多くの者たちをも巻き込むことになるからだ。もう少し、自分が王族であることの自覚を持ちなさい」
兄上が厳しい顔を作って頭ごなしに私にそう言い聞かせてきた。
でも、
「でも! 兄上が身分を隠して偶に城下におりてること、私、知っているのよ。兄上ばっかり許されて、ずるいわ」
「それは僕が一昨年10歳になって立太子したからだよ。次代の王として必要な勉強なんだって。遊びじゃないよ。ちゃんと護衛だってついてる」
「じゃあ、立太子しない私は? なんで扱いが違うの!? 私だって父上が守る国の自然な姿を見てみたいのに」
私の不満の言葉に、それでも首を横に振る兄上の態度を見て私はむむぅと一度口を閉ざした。
兄上がなんと言っても私は冒険に出かけて外を自由に歩いてみたい。危険があることも分かっているわ。でも、この本のように、それで得ることもあるはずよ。
だけど、兄上は駄目だと言う。
それなら一人で冒険に出る?
……ううん。それはとっても心細いわ。
だから兄上を説得しないと。その為には、
奥の手を使うしかない、か。
一番、兄上に有効な手段。もう無理矢理でも何でもいい。
私は兄上をじっと見つめながら下唇を噛み締めて、顔を俯けることで勝負の体勢を整える。
意識するのは、哀しげで、ポツリと零すようなそんな声。
「私は……」
そして、少しだけ間を開けて、そこに感情を載せて、少しだけ声を震わせる。
「王女だからって私にはそれすら許されないわ。自分の足で城の外に立てない。小さな空間に押し込められるの」
「っ……」
息の詰まる気配。
場に落ちた沈黙に私は確かな手ごたえを感じた。見えないけれど兄上の表情が手に取るようにわかるわ。
私は俯けていた顔をもう一度上げ、作り上げた分厚い膜を張る瞳で兄上を見つめる。
「ねえ、兄上。私はずっとお城の中なの? こうやって閉じ込められたまま一生が終っていくの? 私はそんなふうに生きて行かなければならないの? 少しだけでいいのよ。だから……」
不満を悲しみに置き変えて、トドメとばかりにそっと瞳を伏せると、溜めていた涙がはらりと頬を伝う。
「……ティア」
気遣うように発せられた兄上のその声音に、私は勝利を確信して、相変わらず嘘泣きの効果は絶大ねと心の中でほくそ笑んだ。
父上や母上、侍女たちだとこうはいかない。
やっぱり持つべきものは優しくて、誰よりも私に甘い兄上だ。
数分後、「大好きよ」と笑いかける私に、心底複雑そうな微笑みを返す兄上がいた。




