七二、私の幸せ
「兄上」
その夜、私は陛下たちの居る天幕から抜け出して、兄上が一晩を過ごされることになっているアブレン側の監視塔の一室を訪れた。
兄上も、私たちも、今日はこの地で夜を過ごして、そして朝方それぞれ発つことになっている。レストアに戻る私にとって、今夜が兄上と過ごすことが出来る最後の夜だ。
けれど、兄上は扉を叩いた私に躊躇ったようにしながら首を傾げて尋ねてくる。
「ティア……。いいのかい? あっちにいなくて。久しぶりだろうに」
「大丈夫よ」
私は、兄上の許可もないまま勝手に部屋に入り、そしてソファに座る兄上の隣に腰かけて微笑んだ。
「これからずっと一緒にいるの。陛下なら分かってくれるわ。あとでご機嫌取りが大変かもしれないけど、それでも陛下はいつだってご機嫌なんてよくないもの。平気よ」
そう言った私に、だけど兄上は何故か苦笑した。私はその意味が分からず首を傾げて問いかける。
「どうしたの?」
「いや、ティアがご機嫌取りとはね、と思って。私はいつもティアのご機嫌をとる方だったから」
「まあ」
“そんなことないわ”、と言おうと思ったけれど、明らかに今よりもずっと世間知らずの甘ったれだった私を想うとそうだったかもしれない……と私は兄上と一緒になって笑う。
そして、その笑いが少し治まったころ、私は改まって兄上に向き直った。
「兄上」
「なんだい?」と兄上が小さく首を傾げる。
「ありがとう」
「ん?」
「色々と、その……」
信じてくださったこと。戦争を思い留まって、そして不可侵条約を結んで、そしてまた、兄として私に接してくださる。
そのことがとても嬉しくて、思わず顔を緩ませた私の頭の上に、兄上が手をポンと置いた。そして、親指で軽く私の前髪を掻き揚げて目を細める。
「……生まれ変わりか」
何かを想うように私を見つめる兄上に、私はニコリと微笑むことで応えた。
「ティア」
なに? と私は上目で兄上を見上げる。すると、そこには少し切なげな兄上。
「本当は、君をこのまま連れ帰って、ずっと一緒にいられたらと思うけれど……」
そこで兄上は一度言葉を途切らせて、ふっと笑う。
「でも、君が彼を愛しているのをもう充分見せつけられてしまったから……、残念だけど諦めるよ」
そう言って、兄上はご自分の腰から何かを取り外し、シャラリと音をたてるそれを私の頭に付けてくれた。
その音はとても覚えのあるもの。数本の細い銀の鎖にたくさんの宝石を散りばめた、母上の形見でありティアのお気に入りだった髪飾り。
「幸せにおなり。そして、あの日の辛さが無駄なものではなかったと思わせておくれ。信じる意味を、こんな世界も愛おしいものなのだと私にまた教えて」
「ええ、必ず。必ずよ、兄上」
私は大きく頷いて、頬に添えられた手に手を重ねる。
もう一度と時を戻してあの頃からやり直すことは出来ないけれど、あの日に囚われてしまっていた私たちの時間の針をまたここから進められるように。
「君がまた生まれてきて、こうして再び会うことが出来て良かった」
「私もよ。ねえ、いつでも遊びにいらして。歓迎するわ。今の私が、……エリカが生きている場所もご覧になって」
「ああ」
兄上が頷く。
「私のしてきたことの後始末が終わったら是非にね」
*―*―*
「ねえ、兄上。どう? 似合うかしら?」
それから数か月が経ったこの日、真っ白なドレスを身に纏った私は、裾をつまみ兄上に向かって問いかけていた。
レストア随一の腕を持つ職人たちが集まり、長い月日をかけて作り上げてくれたドレス。この特別なドレスはいつも着ているものよりもボリュームがあって少しだけ動きづらいけれど、どの角度から見ても繊細な意匠で、何度もため息が出るほど美しい。
兄上は、そんな私の姿に、目を細める。
「とてもよく似合うよ。流石、姿は変わっても私の妹だ。誰よりも美しい花嫁だよ」
「ふふっ」
今日、これから結婚式を行って、側妃から正式にレストアの王妃になる私。
庶民の出であるエリカにはきっと難しいと思われていた王妃への道は、アブレンの王である兄上が私を養女にしてくださって、そしてこの結婚を両国の和平の証とすると仰ってくださったことにより、いとも簡単に、誰一人として反対などできないものにしてしまった。
何故正真正銘のレストア人で、ただの庶民の小娘がアブレン王の養女ということに? といった疑問が城中に巻き起こったみたいだけれど、その答えは私たちだけが知ることだ。
兄上の言葉とドレスの美しさに、私は満足感に浸りながら笑みを浮かべて、もう一度この綺麗なドレスを見るために鏡に向かい合う。
けれど、そこになんとも不愉快な声が聞こえてきた。
「おい、そこのバカ兄妹。現実見ろよ。明らかに“誰よりも”は言いすぎだろ」
……。
オルスめ。折角ひとがいい気分だったのに、水を掛けやがって。
私は兄上と一緒になって、オルスが入ってきた扉の方を振り返る。
「なんですって!?」
「なにかな?」
オルスは私の迫力に、というよりはどちらかというと兄上の笑顔とともに放たれた問いかけに、一瞬びくりと身をのけぞらせて、苦笑いを浮かべた。
「冗談だよ。綺麗だな。うん。見事な“馬子にも衣装”っぷりだ」
「……全然褒めてないじゃないっ!」
「オレにしては充分褒めてやった」
「でもでもっ、本当にお綺麗ですわ。エリカ様!! わたくし感動してしまいました」
「マリア……」
そこで、私がレストアに戻って来てから、以前と同じように侍女として私に仕えてくれているマリアがオルスの後ろからひょっこり顔を出し、手を組み合わせ、瞳をキラキラさせながらそう言ってくれた。
そして、マリアは連れだってやって来たらしいアルフレッドの方へと向き直る。
「ねえ、アル兄様。アル兄様も素敵だと思われるでしょう? マリアも早くウエディングドレスが着たいですわ」
「勝手に着れば良いのでは? お好きなように」
「そうではなくて! 私も早くアル様のお嫁さんになりたいという意味ですのに。もうっ、分かっていらっしゃるくせに、アル様は意地悪ですわ」
「ですから……、勝手にすれば良いと言ったでしょう? 日取りもドレスも、マリアの希望を優先させます。それとも私が決めたほうがいいですか?」
「……へ?」
ため息交じりに、うんざりとしたように言われたその言葉に。
これは……??
皆がアルフレッドの言葉に“え?”と固まった。けれどすぐに呆然とした困惑からハッと戻ってきたらしいマリアが「ア、ア、ア、ア、ア、アル様……?」と動揺の声を上げている中、アルフレッドはマリアの反応に、満足げな笑顔だけ向けて、それからこちらに歩み寄ってくる。
けれど、私はその姿に思わず体を強張らせた。
いけない。この数か月に及んでこの人から施された王妃教育のせいで、もうアルフレッドには恐怖しか感じられなくなってしまった。
怖い。笑顔だけじゃなく、もう彼の存在自体が怖い。
「この度はおめでとうございます。エリカ嬢。とても素敵ですよ」
「あ、ありがとうございます」
「でも、よろしいですか? 王妃たる者これから……」
やっぱりー!
「はい! 分かっております! これから王妃としての責任を持って精一杯頑張らせていただきます!」
案の定なお小言の始まりに、私はそれが本格的なものにならないうちにとアルフレッドの言葉を遮り、慌てて返事をした。嫌だ、もう嫌だ。分かっているけどこんな日まで色々と行動や受け答え一つ一つにケチを付けられたくない。
そんな時、「いい心がけだな」、とアルフレッドの背後の、扉からもう一人。
着付けが終わったのか、婚礼用の白い衣で正装をした陛下がやって来た。
光沢のある白の生地に、アブレンから持ち込まれた金糸で細かな刺繍を施されたキラキラの衣装が、陛下のプラチナブロンドと見事に調和していて。
「綺麗……」
私は自分が無意識に呟いた言葉にハッとして、もう一度鏡で自分の姿を確認する。
これは、どうしよう……。負けてるかもしれない……。いや、負けた。絶対に!
愕然とする中聞こえてきた、オルスの「さすが陛下だ」という誇らしげな声がなんだかとても憎らしい。
そんな中、隣にいる兄上が一人クスクスと笑っている。
私が、どうしたの? と視線を上げて問うと、兄上は「いや、相変わらずティアは美しいものが好きだなと思って」と、なんだかとても爽やかに、そして何故か陛下を見ながら答えた。
確かに綺麗なのは好きだけれど……。
反論できずにいる私をよそに、兄上はそのまま陛下に向かって続ける。
「私にはティアが君を、顔以外のどこが良くて選んだのか分からないけれど、」
「兄上!」
「をいっ!」
それは兄上が陛下をよく知らないだけで、一体何を言い出すんだと私とオルスがそう声を上げる。陛下はそれを受けて不機嫌そうに兄上を睨んだ。
けれど、
「それでも、ティアが望むからこの結婚に協力したんだ。この子が側室だなんて冗談じゃないからね。けれど……、もし、君とこの国がティアを泣かせるようなことがあったらすぐにこちらが引き取るよ。いいね?」
それは間違いなく兄上の警告で、陛下はそれに「ああ」と頷く。
「兄上っ」
さすが兄上だ。私の心配をして、こんなことを言ってくれるなんて、なんて優しいのだろう。私は兄上の腕にしがみ付く。本当は抱き着きたかったのだけれど、嵩張るドレスのせいで今はこれが精一杯だ。
そんな私たちの姿に、オルスは呆れたような声で陛下に訴える。
「なあ、陛下。……なんかこれすごい小舅付きだぞ」
小舅とは失礼な。私はオルスの声を無視して兄上に語りかける。
「ねえ、兄上。やっぱりこの式が終わったらまたアブレンに帰ってしまわれるなんて寂しいわ。しばらく滞在されたらいかがかしら」
「うん。実は、私もそろそろ退位を考えていてね。後始末も済んできたことだし、王位をギードに任せて私はもう隠居をしようかと思っているんだよ。だから今回は大人しく帰るけれど、そのときはここに……」
そこですかさず上がったのは陛下の不機嫌を隠しもしない低い声。
「もう二度と来るな」
「口が悪いですよ、陛下。和平のためですし少しの滞在くらい」
「全然少しのつもりではなさそうだが? それに、隠居したら問題ない。和平は新しい王と上手く話をつければいい」
「老い先短いだろう私から、可愛い妹と会う機会を奪うつもりかな?」
「そもそも、例え隠居しても、アブレンで絶大な力を持っていた王がここに居座るとなると、今度はこちらばかりがアブレンから肩を持たれていると他国から捉えられて反感を買うだろ。大陸の情勢が乱れかねない」
「どうにかしなさい。それくらい。それに、私が会いに来ないとティアが泣くよ?」
「ねっ、兄上」
兄上に小首を傾げて同意すると、陛下が自分の方へと私を引き寄せる。
こんな風に皆でぎゃーぎゃーと冗談を言いながら騒いでいられるのは、とても楽しい。
そこにランベールがやって来て「なんだかすごい殺気だね」と、面白そうに笑うものだから、私も一緒に笑ってしまった。
礼拝堂での、多くの参列者を招いての盛大な挙式も済み、私と陛下は国民たちへのお披露目のためにお城のバルコニーに出た。
沢山の人達が私たちの姿に歓声を上げて出迎えてくれる。
私は、手すりの方へと駆け寄って少しだけ身を乗り出し、下にいる皆を見た。
「わぁー! こういうのって久しぶり。歓声が気持ちいー」
私が手を振ると、一際大きな皆の声が響き渡る。それはとても懐かしい感覚で、皆にこの正式な婚姻を祝福してもらっているようで、なんだかとても嬉しく感じられた。
「いい気なものだな」と陛下は呆れたように言ったけれど、私は「うん」とそれに頷く。
勿論、ここに立つ者として、王妃として、これから自分が陛下と同等の責任を背負うことになるのだとは分かっている。大変なこともきっとたくさんあるだろう。けれど……。
中央広場の掲示板で、“側室募集”の一枚の張り紙を見た、3年前のあの日を思い出す。
ふふっと笑う私に陛下が不審そうな声で「なんだ?」と問いかけてきて、私は後ろの陛下の方へと振り返って答えた。
「なんでもないわ。ただ、“私の玉の輿計画”は大成功ね、ってそう思ったの」
あの日、あの時に企てた玉の輿計画。それはとんでもないほど予想外に、かけがえのないものをたくさん私にもたらしてくれた。そこには辛く苦しかった体験も含まれているけれど、今となってはそのどれもが大切なもの。
そして、これからもきっと私に様々なものを与え、幸せに導いてくれるはずだ。
「私ね、今度兄上がいらした時に、私がここにやって来て過ごした、今までのことを話して聞かせるの。これまで、お互い忙しくてゆっくりと時間を取ることが出来なかったから。ねえ、今度は貴方のこともいっぱい話すわ。兄上にも、貴方のことを知って、好きになっていただけるように」
「……逆効果だろ。あの兄には」
陛下はため息を吐きながらそう言った。
何で逆効果だろうと首を傾げる私の腕を、陛下が引き寄せる。
「そんなことしなくていいから、エリカはずっと俺の傍に居ろ。もう、離す気はないんだ」
そして耳元で「愛してる」と囁いた陛下が、私の唇にキスを落とす。
その瞬間、良く晴れ渡ったレストアの首都・カリアに、割れんばかりの大歓声が響き渡った。
応援ありがとうございました!!
これからも番外編等を書いていこうと思います。
よろしければ、そちらもお付き合いよろしくお願いします。
菊花




