七一、信じる心
「大丈夫だよ。レストア側に戻れば、あとは君の好きにすればいい。命が惜しいのならば、すぐにこの場から逃げ出せばいいし、あちらの王の傍に居ると言うのならそれを選べばいい。状況は変わっている。レストアの思惑通りことが進むとするならば、こちらは少々厳しい。何も躊躇することはないはずだ」
だから迷わず帰ればいいと、そう兄上は言うけれど。
「違う……。違う、そうじゃない!!」
それまで兄上の言葉をただ聞いていた私は、大きく頭を振り、兄上の命令によって、私の両脇に立ち、腕を掴んで私をレストア側に連れて行こうとしているらしい兵たちの手を全身で振り払いながら、思いっきり叫んだ。
私の知らないうちに状況が変わっていると兄上は言う。何が起こって、その裏にどういう事情があるのか私には分からないけれど、現状においてレストアにも勝算はあるのだと。
でも、
だから、なに?
私の身の安全とか、勝敗の確率とかそんなのどうでもいいのに。そうじゃない。私にとって重要なのは。それ以前の問題なのに。
「私、は、戦なんてしてほしくないの! どっちが勝つかじゃない。戦そのものが嫌なの! 平和なのがいい。陛下だって、レストアだってそう思ってる。兄上が、信じられないというのなら信じなくていいから! それでも私たちは兄上を裏切らない。約束するから、だから、お願いだから傷つけないで! 傷つけあわないで!!」
私は、自分の言っていることがいかに支離滅裂であるかを理解しながらも、必死でそう兄上へと訴えた。
けれど、兄上はそんな私の言葉に何も反応を返してはくれない。ただ、静かに私を見つめるだけ。私の知らない間に、私との決別を勝手に決めていた兄上は、もう、自分の決断を覆す気も、私を“ティア”として見る気も更々ないのだろう。
悔しさと、やりきれなさが私を襲う。
どうすればいいのか分からない。これまで、兄上に信じてもらえるように頑張ってきたつもりだった。それでも、結局こんなふうに拒絶されて。これ以上、何を言えば兄上の心に響くと言うの?
あの時、兄上を置いて逝ってしまった私には知ることが出来ない。けれど、クレオに裏切られて、ルエノとモスエオラと共に集中攻撃されたときの激動を思い浮べるのはあまりに容易く、それを一人背負った兄上の傷は、きっと私が想像もできないくらい、とても深いものなのだろう。
もう裏切りには耐えきれないと、己の心を護らなければならないほどに。
これは、もしかすると私に対する罰なのかもしれないしれないなと思う。あの時、兄上との約束を守らずエミリオに乗ることを選んだ、悲しませ、肝心な時に兄上を支えられなかった私の。
本当に、取り返しのつかないことだったのだと。
私は、降ろした両手をギュッと握りしめて拳を作る。
でも……。
でも、だからといって諦められない。
ううん、だからこそ、諦めちゃいけない。こんなこと――。
戦がどうなったところで、結局はこれから先も、兄上はこんなふうに生きていくつもりなんだというのが分かるもの。そんなの、やっぱり悲しくて堪らない。
だから、
私は兄上をキッと睨み付けて、立ち塞がるように、兄上からレストアを護るように両手を大きく広げて、訴える。
「私はまだレストアには帰らないわ! 兄上が、戦をしないと言ってくれるまでここから動かない」
分かってる。私が、ここでどう踏ん張っても、周りの男たちの手にかかれば呆気ないほど簡単に、レストア側に放り捨てられてしまうだろうということは。
これは、もう子どもの駄々のようなものだ。最後の悪あがき。
それでも、
「絶対に、レストアに手を出させない!!」
冷たい風が、私たちの間を吹き抜ける中、私は強くそう決意を宣言した。
私の声が辺りに大きく響き渡って、その後、ハッとしたように、再び私の両脇に居た兵たちが私を捕えにかかってくる。
もう一度彼らを振りほどこうとしたけれど、今度は向こうもしっかりと、痛いほどに力強く腕を掴んできて、私は思わず顔を歪めた。それでも、彼らに決して引き摺られて行ってしまわないようにしっかりと足に力を込める。
そんな私を尚も静かに眺めていた兄上は、そこでふと、小さく首を傾げて、それから瞳を細めた。そして薄く冷たい、嘲けるような微笑みを浮かべ、落ち着いた声音で「やめなさい」と私を掴む兵たちに一言命じる。
彼らは兄上の命令に戸惑ったようにしながらも、さっと私から手を離し、一歩下がった。
彼らは、兄上の忠実な兵だ。恐らく、今、ここで兄上が彼らに「潰せ」と命じれば、私の存在など関係なく、すぐにレストアへの攻撃は開始してしまうのだろう。
兄上は何を考え、何をしようとしている? 何故、私を放してくれたのだろうか?
警戒しながら、私は兄上を見る。
同時に、私の背後にいるはずの陛下が気になって、後ろを振り返ってその姿を確認したくなったけれど、今の状況ではそれも不用意にできない。それがなんだかもどかしくて、私は小さく唇を噛んだ。
兄上は、そんな私の方へ一歩足を踏み出して、徐に、腰に下げていた剣に手をかけ、それを鞘から抜く。
しんと静まり返った場の中で、小さな金属音が大きく響いた。
柄にも、刀身にも、綺麗な装飾の施された、王家の宝剣。ティアが生きていたころは、常に父上の腰にあったもの。
それがすっと持ち上げられ、その切っ先が、私の喉元へと向けられる。
――なに?
私は、そんな兄上の行動に、目を見開き、体を緊張で固まらせながらもゴクリと生唾を呑む。
なにを、しようというの?
まさか……?
そんな最悪の考えが頭をよぎったけれど、私の顔をジッと真剣な表情で見つめてくる兄上は、「それならば」と言って、切っ先を私から逸らし下に向け、そのまま剣を私に差し出してきた。
私は詰めていた息をほっと吐き出す。
同時に、差し出されたそれをどうすればいいのか分からず、混乱しながら佇んでいると、兄上は手を伸ばし、私の手を無理やり取ってその柄を握らせてきた。
けれど、押し付けられた手の中の重たい剣を、私は上手く持つことが出来ない。重力に逆らえなかった剣の切っ先がざくりと雪混じりの地面に突き刺さった。
「兄上?」
漸く、小さな戸惑いの声が私の口から漏れる。
こんなものを私に握らせて、一体どうさせようというつもりなのだろう。
剣に向けた視線をもう一度兄上に戻すと、私をじっと見つめる兄上は、口元に怪しげな笑みを作った。とても大らかでいて、冷たい瞳の色。
私はその姿を呆然と見つめる。誰だろう? この人は……。
そんな中、兄上は何故か私の握る剣の刀身へと手を伸ばし、まるで支えるように片手で持ち上げて、後ろへ下がり、あろうことか先ほど私に向けたその切っ先を自分の胸に軽く押し当てた。
「陛下!」
すかさず武骨な将軍が声を上げたけれど、兄上は彼を目で制して、小さく頷く。そして、兄上の行動に戸惑う私を、もう一度見た。
「ティア」
兄上が、再び私のことをそう呼ぶ。
今度は私の良く知る、とても優しい凪いだ声。
私は兄上を見つめ返すことでそれに応えた。
でもなんだろう? 漸く、また私の言葉を聞いてくれる気になったらしい兄上に安心するどころか全然良い予感がしないのは。それどころか、背筋に冷たいものが伝うのを感じる。
兄上を凝視したまま動けずにいる私に、兄上は空いているほうの腕を精一杯伸ばし、どうにか私に届いたその指先で、私の頬を撫でるようになぞった。
そして、微笑みながら言う。
「それならば、こうやって止めればいい」
「……え?」
「戦をしたくないのだろう?」
兄上にそう問いかけられて、私は訳が分からなくなる。
つまり、戦をしたくないのならこうやって止めればいいと兄上は言っているのだろうけれど、肝心の“こうやって”の意味が分からない。
上手く頭が回らないけれど、けれどいくらなんでも兄上が私に“ずっとこのままの体勢でいろ”と言っているわけではないことくらいは理解できた。でも、だけど、それならば……?
混乱を呈す私に、兄上は続ける。
「このまま一歩踏み出すだけでいい。そうすれば私を貫けるよ。私がここで死ねばアブレンがレストアを攻撃することはなくなる」
その言葉に、
頭の中が真っ白に染まる。
「どう、して……? 何を言っているの? なんで私が兄上を殺さなければならないの?」
声が震えてどうしようもない。冗談として受け流そうと笑みを作ろうとしたけれど、それはとてもぎこちないものになってしまった。
だけど、そんな私に対して、兄上は淡々と私に語る。
「言っただろう? 私は他国を信じることができない。生きている限りこの侵略を止めることができないんだ。だから……」
兄上が一度瞳を伏せて、そして私を見つめる。
「護りたいんだろう? レストアを。だから、君が。まるで本当にあの子の生まれ変わりのような……。あの子の生まれ変わりだという君のその手で私を止めておくれ。もう……、この辛く苦しいばかりの現実から、私を解放してほしい」
兄上は剣を持っていない方の、持ち上げた掌を見つめながら、それを握りしめて口元に微笑みを浮かべた。
でも、その瞳はとても真剣で。
「交換条件だよ。君が選ぶんだ」
カタカタと、剣を持つ手が震える。だけど、切っ先は依然兄上の手によって焦点を合わされたまま。それどころか先ほどよりも強く、ぐっと兄上の胸に押し付けられたような気がする。
私は自分を落ち着かせるためにも緩く頭を左右に振って兄上を見つめた。
「いや……。そんなのいや」
なんでそうなるの?
まるでそれを望んでいるように兄上は言うけれど、そんなこと出来るわけがない。だけど、
「それならば、私はレストアに攻め入るよ?」
そんな風に兄上は私を静かに脅す。
それでもと私は再度首を振った。
……そんなの、どっちも嫌だ。
お願い分かって。
どれくらい兄上を見つめそう訴えていたいただろうか。
私の掌から、握らされていた剣の柄が滑り落ちた。
それはわざとであったのかもしれないし、いつの間にか掌をぐっしょりと濡らしていた汗のせいなのかもしれなかった。私自身もどちらのせいなのかはわからない。
ただ、私は落としたそれを拾い上げる気など起きず、ただぼんやりとその姿を見下ろしていた。
すると、兄上はそんな私に何か含みのある笑みを浮かべて、「何もできないなら早くお戻り」とそれだけ言って落ちた剣をそのままに、踵を返して背を向け、そして去って行った。
将軍をはじめとする兵たちが、あっという間に兄上を取り囲んでいく。その中で、兄上が代わりの剣を受け取り表情を改めて、彼らに何かを告げているのが見えた。
アブレンの兵たちが動き出す。何とも言えない緊迫感がさらに増して、素早く体制が整えられていく。
私はこれから戦を始めようとしているのであろう兄上たちのその様子を、ただ見つめていた。
戦が始まる?
ああ、そうだ。ついに始まるのだ。
一度始まってしまえば、お互い無傷ではいられない。
陛下か兄上――レストアかアブレン、どちらかが失われるまで終わらない。
私は、もう何が何だか訳が分からなくなった頭で、それでも懸命に考える。
――私はどうすればいいの?
選びたくなんかないけれど、もし、選ばなければならないならば。
兄上が、どんな説得も、言葉も聞き入れてくださらないなら。
レストアを侵すというのなら。
――護らなきゃいけないの。
例え、どんな手を使ってでも。今の、私がいるべきなのはあちらだから。
そう、アブレンでのあの雪降る日に思った。
だから、
恐れていたそのときが、ここだと言うのなら。
涙が、頬を伝うのを感じる。
護りたいの。だから、選ばなければならない。
アブレンへの道のりの途中に見た空っぽの街とそこに残った血痕、アブレンで行われていたフルト人の処刑、そして、これから起こるのであろう戦争の様子が頭に浮かぶ。
もう、昔の兄上に戻っていただけないのなら。
もう、兄上の繰り返す侵略の歴史なんて終わらせなければ。これ以上、無駄な犠牲なんて生み出してはいけないわ。
そのためにも……。
私は、兄上が残していった、足元に落ちたままの剣を拾い上げる。
そして、その柄をぎゅっと握りしめて力いっぱい持ち上げた。
ずしりとした重みが手首にかかり、煌めく刀身が私の姿を長く映し出す。
私はそのまま、剣を手に、兄上をしっかりと見据えて、そして、一歩を踏み出した。
覚悟をもって焦点を定める。
兄上が振り返って、駆け寄る私の姿に、口元に弧を描く。
兄上は、まるで待ち受けるように私に向き直った。
そう、このまま突き進めばいい。兄上の望むように、まっすぐと飛び込むようにして兄上の胸にこの剣を突き立てれば――。
兄上は、微笑みを深くする。
だけど、その表情はなんだかとても泣きそうに悲しげに見えて。
ああ、でもやっぱり。
そう思ってしまって。
私は、振り上げた剣の切っ先を勢いよくザクリと、地面へと突きたてた。
その瞬間、兄上が驚いたように目を見開いて私を見る。横の方からは、私の首のすぐ近くで、何か風を切った、威圧感のあるものが止まった気配がした。
「――っ」
何も出来なかった自分が悔しい。
だけど、それ以上に……。
私は、顔を上げて兄上をキッと睨み付け息を吸い込んだ。そしておなかの底から大声で叫ぶ。兄上の心まで、ちゃんと響くように。
「兄上のバカ!!!!」
そう。兄上なんて大ばか者だ。
私の声が周囲に木霊する。
言葉と一緒に涙も溢れてきたけれど、私はそれを拭わずに続けた。もういい。それよりも、大事なことを、はっきりと伝えるなきゃ。
建前とか遠慮なんか取り払った、私の本当の想いを。
「選べるわけなんて、ないじゃない」
どうして、選べるというの?
「兄上がレストアを手にかけたなら、私は兄上を恨むわ」
そう。きっと、思いっきり。この世の誰よりも憎んで恨むわ。
「だけどね、もし、ここで、私が兄上を殺すことがあっても、私は兄上を恨むの。なんでわからないの? 失う者の辛さが。少しでも、私が死んだときに悲しんでくださったのなら、分からないはずないのに。私にも同じ想いをさせるの? 何故、私にそれをさせようと言うの? 言ったのに。今でも私は兄上が大好きなの。だから、だから……っ」
分かっているの。兄上がレストアと敵対すると決めてしまったのなら、この状況においてこんなどっち付かずなこと、出来はしないと。我が儘で中途半端なことは分かっているの。でも、出来ないわ。どうしようもないの。
だから、私はもう一度剣を地面から抜き取って力の限りそれを持ち上げて思いっきり放り捨ててやった。
そして強い意志を込めて、毅然と兄上を睨みあげる。でも、涙で分厚く膜を張った瞳は、よく見えなくて、もう堪えきれなくなった嗚咽がその場に響く。
しばらく落ちた沈黙に、微かに雪を踏みしめる音が鳴り、ゆっくりとした足取りで兄上が一歩こちらに踏み出してきたのが、なんとなくぼんやりと見えた気がした。
兄上は、そんな私の頭にそっと手を乗せる。それは戸惑っているようにぎこちなく、恐る恐るといったものではあったけれど、まるでティアの幼いころにしてくれていたあやす様な仕草で。
そしてほんの少し焦ったように聞こえたのは謝罪の言葉。
「すまないティア。私が悪かったから。だから泣かないでおくれ。私は……君の涙には弱いのだから」
「嫌よ! わ、わた、しは、こんなことする兄上なんて嫌いだもの」
「だけど、……私にとって、君は私の大切な妹だ。君は間違いなく。そうだろう? ティア」
私を“妹”だと確認してくるその声には、もう疑いのような響きはどこにもなくて。
兄上は私を優しく抱きしめながら小さく言った。
「ごめん。信じるよ。君がティアだと。君の記憶も、変わらぬまっすぐさも」
そして、兄上は腕の力を少し強める。
「ありがとう。裏切らぬその心を。それがあれば、私はようやく、恐れずに闇から出ることが出来る。だから、もうレストアを攻撃したりはしないよ。これは私の最後の願いであり賭けだったんだ」
攻撃、しない?
私は漸く兄上に分かってもらえたことと、兄上のその言葉に安心し、力が抜けるような感覚に襲われて、兄上にしがみ付いた。
良かった。
でも、そうしながらも、
「……どういうこと?」
願い? 賭け? 私はその言葉の意味が分からず顔を上げて兄上を見た。兄上は、そんな私の、目元に溜まっている涙を指の背で拭い取る。
「きっとね。君がレストアへ帰らなければと、心のどこかで思ってた。そして、素直に帰らなかった君を見て、ほんの少し、もう一度だけ信じてみたくなったんだ。もし、君が剣を突き立てなければ、とね」
「それは……、つまり兄上は私を試すために剣を握らせたということ??」
まさかと、そう私が問いかけたとき、私の横で何やら剣を収める金属音が聞こえてきた。
私は、私の横に立つ兵が持つその音の正体を横目で見て、途端に顔が青ざめるのを感じながら「……兄上?」と問いかける。
もしかして、さっき首の近くで感じたあの風を切った威圧感って……。
すると兄上は、気まずげな苦笑いを浮かべる。
「本当にここで終わらせてくれたらと願う心はあったけれど、それでも王である私が、そんなに無責任なことを出来るわけがないだろう?」
何?……怖い。怖い怖い怖い。
「私……、兄上のこと、信じていたのに! こんなことなさる方だとは思わなかったわ。私の心を弄んで、その上まさか殺そうとされるなんてっ」
「すまない。謝るから、拗ねないでおくれ」
私が、兄上から離れてそっぽを向くと、兄上が困ったように眉を下げる。
でも、これは納得できることじゃないと思う。嵌め方があまりにも酷すぎる。けれど、兄上はまるで自嘲するように微笑みながら言う。
「自ら終わりを望むなんて無責任な振る舞いが許されるなら、もうとっくにしているさ。それが出来ないからこそ、ここは苦しい」
兄上はレストアの、陛下のいる方をじっと見つめた。そして私に手を差し出してくる。
「ほら、ティア。行こう」
再び表情を穏やかに戻した兄上。
何処に行くというのだろう。分からぬまま、私はそれでも兄上の手を取って、促されるとおりに足を動かし付いて歩く。
周りのアブレンの兵たちが、さっと私たちに路を空けた。
そうして、兄上はそのまま国境を越えて、同じようにレストアの武官たちが作った路を、数人の護衛を引きつれながら進んで行く。
レストアの武官たちは警戒しながらも、アブレンの王である兄上が国境を越えたというのに何もしない。
対する兄上も、迷いのない足取りで堂々と進んでいく。
どういうこと?
そう、呆然としているうちにたどり着いたのは陛下の前。およそ1年ぶりの陛下はとても険しい顔で兄上を見ている。
そして一瞬、兄上から私に視線を向けた陛下の不機嫌そうな顔に、私は咄嗟に兄上の後ろに隠れた。
そんな私を、陛下の横にいるオルスが睨み付けながら、何か言いたそうにしているけれど、取り敢えず、私はその目からも視線を逸らしておいた。
陛下がどういうつもりなのか分からないけど、今は怖くてとてもじゃないけれどむやみに近づけない。
兄上が後ろに回った私を庇ってくれた。
そして、レストアの兵たちは、身構えて陛下を護る。そんな中、兄上は陛下に語りかけた。
「君たちの提案を受け入れようと思う。話をしよう」
兄上がにこりと微笑みながら目で陛下たちの後ろにある天幕を指して言った。それに、陛下の護衛たちが僅かに動揺を見せたけれど、「大丈夫。裏はないよ。この子にかけて誓おう」と、兄上が言って、陛下が目配せして彼らを封じた。
「ああ」と頷いた陛下は、私にはこれと言った言葉も掛けず天幕へと入って行く。その後ろを護衛たちが付いて行き、兄上と私もその後に続いた。
「陛下たちの提案って何?」
私は相変わらず状況がつかめぬまま兄上にそう問いかけた。けれど、兄上が答えてくれるその前に、天幕に足を踏み入れた私たちを出迎えた人物を目にして兄上は足を止めた。
「久しぶりだな。ランベール」
「これは、アブレンの国王陛下。久方ぶりでございます」
天幕の中央に立ち、なんとも気取った礼をしてくるランベールに、兄上は苦笑を漏らす。
「歳を取ったな」
「お互い様さ」
「……なんで、ここにランベール様まで?」
ここは戦場になる恐れがあったのに。なんで戦とは無縁そうなランベールがここにいるのか。
全く事態が呑みこめず困惑する私にランベールは、「姫に会いたかったからだよ」と訳の分からないことを言ってきて、そして今度は顔を顰める私の隣にいる兄上に、にっこりと微笑みを向けた。
「ここへ来た、ということは、話を受けていただける、というわけだね」
「白々しいものだな。結末が分かっていたからわざわざここに来ていたのだろうに」
「僕は、姫の力を信じていただけだよ。姫を誰よりも愛していたヘリクスに、姫の想いが通じないわけがないとね」
「……そうだな」
――ああ。
そう、兄上が瞳を伏せて、ふっと笑う。
私はその姿に寄り添って、そんな私たちに、ランベールが「懐かしい光景だね」と瞳を細めた。
「で? 提案ってなんなの?」
「それはね……」
尋ねた私に、兄上が何やら胸元から書状を一通取り出して、私に渡してくれた。
私は促され、それを開いて文字を追う。
アブレン語で書かれたその書状。
だけど、どうやらそれはレストアから送られたものらしい。文末を確認すると、そこには陛下の名が記されている。
内容は、レストアがほぼすべての周辺諸国と同盟を結んだこと。そして、アブレンがレストアを攻撃した時点で、その国々が協力し、徹底してアブレンを潰しにかかるという脅しめいたもの。……そういえば、兄上が、今はレストアの優勢であるというようなことを言っていたのを思い出す。でも、
「同盟って、どういうこと? なんで他の国がレストアの味方をしてくれるの?」
戦争に加勢する、というのは他国にとってそう簡単に了承できることではないはずだ。なのに何故?
そう首を傾げる私に、ランベールが詳しい説明を加えてくれる。
「地図を思い浮かべてもらえばわかると思うんだけど、レストアの東西には山々が連なっていてね、今はその山とレストアが、レストアの北方にある国々をアブレンから護る防壁となっている形なんだ」
「……それで?」
「つまり、レストアがアブレンに討たれたら?」
他の国々も一気に侵略しやすくなる。特に北の方の国々はレストアよりもいくらか国力が劣ったはずだ。そしてアブレンがレストアを呑みこめばますます強大となる。
ここでアブレンの拡大を封じなければ、もう歯止めが利かなくなると言っても過言ではないはずだ。そうなれば……。
「そういう話をね、色んな国でしてきんだよ。僕も歳だというのにこんなことを押し付けられて、まったく、ジェルベもアルフレッド君も実に容赦がない。でも、こっちはフルトとの同盟を渋ったという過去があるから少し説得が難しいかとも思ったんだけど。それでも……やっぱりやってみないと分からないものだね」
そう言いながら、ランベールはニッと笑みを浮かべた。
全く口で言うほど苦労したようには見えないのは、どうせこの男のことだから相手の国々を上手いこと誑かしたんだろうなと分かるせいだろうか。
私は続きに目を通すため、視線をランベールからもう一度書状に戻す。
そこに、今度は兄上の声が重なった。
「だから、アブレンを潰されたくなかったら大人しく不可侵条約を結べ、とね書かれていたんだよ」
私はその言葉に顔を上げる。
「不可侵条約? じゃあ、兄上は……」
「勿論、潰せるものなら潰してみればいいと、そう思ってここに来た。むしろ、これで漸くアブレンと共に散ることが出来るんじゃないかとさえ思えた。……でも、」
兄上が、私の涙の痕の残る目元を親指でこすって小さく笑う。
「君がいてくれるなら、もういいよ。それに、少々国土を大きくしすぎた。これをまとめるのもなかなか大変でね。もうこれを機に侵略はやめるよ」
「あにうえーー!」
私は感極まって兄上に抱き着くために手を伸ばす。
ここにいるのは、間違いなくあの頃のままの兄上だ。私の、大好きな――。
だけど、
何故だか急に私は後方に腕を引っ張られて兄上から引き離されてしまった。
――なに?
トンと背中に当たったものを私は仰ぎ見る。
腕を掴まれた時点で何となくわかってはいたけれど、それはやっぱり陛下で、陛下は私の手から書状を奪い取って、それをそのまま私が飛び込むはずだった兄上の胸へと押し付けた。
「これに、一緒に書いていたはずだが」
「……それは君が一方的に送り付けものだろう? 私は知らないな」
口元に弧を描いてちょっと突き放すような態度で陛下と対峙する兄上が受け取ることのなかった紙は、そのまま下に滑り落ちていく。
だけど、私はそんな二人のやりとりを見ながらピシリと固まっていた。
どうしよう……。そんな焦りのようなものを感じる。
ここに来た時からずっと感じていた恐怖と緊張が急に大きくなって、二人の声は聞こえるのに、どくどくと煩い自分の鼓動にかき消されて、二人が何を話しているのかさっぱり理解することができなかった。
だって、後ろには1年ぶりの陛下がいるんだもの。久しぶりすぎて、どんな顔をしたら良いのか分からない。
1年ぶりに会う陛下が何故不機嫌だったのか、どうしようもなく気になってしまって無暗に動くことが出来ない。
だけど、
コツリと足音を響かせて、私の横にやって来たオルスが私にため息を吐き出しながら先ほど滑り落ちていった書状を差し出してくる。
私はよく分からずそれを両手で受け取って、オルスに促されるままに視線を落とした。
さっきは気が付かなかった。陛下の署名の後。
付け加えるように走り書きされたその一文に――。
「心配ばっかかけさせやがって。このバカ」
オルスのその言葉を聞きながら、顔に、熱がどんどん上ってくるのを感じた。
不機嫌だったそのわけが、よくよく考えればいかにも陛下らしくて。
兄上が、私の変化に気が付いたのか「……ティア?」と、少し心配そうに声をかけてきたけれど、私は今まで押しとどめていたものが溢れだしてくるのを止められない。
律していた心が緩んでしまうのはあっという間で。
ああ、やっぱり――。
気が付いたら涙が零れ落ちてきて、それは頬を濡らしていく。
そして、私は体を反転させて、そのまま陛下へと抱きついた。
――『さっさとエリカを返せ』
書状に書かれていたその一文。
帰ってきたかったこの場所。
「待たせてごめんなさい、陛下」
陛下が私を受け止める。
私は、涙を手の甲で拭って顔を上げて陛下を見た。
「でも……」
今は文句とか苦情じみた言葉なんて聞きたくないわ。けれど、きっと陛下はこのまま素直に私を甘やかすような言葉を口にしてくれないと分かっているから。だから、私は自らねだる。
「私、頑張って来たのよ。ねえ、褒めてくれる?」
そんな私の問いかけに、
「……ああ」と私の髪を梳いた陛下は、初めて、私にとても柔らかな微笑みを見せてくれて、驚いた私はもっとその顔を見ていたかったのに。けれどあっと言う間にその腕の中に閉じ込められてしまった。




