七十、夢の終わり
全面改稿いたしました。
以前とは完全別物となっております。
改稿前のものを読んでくださった方々にはご迷惑おかけして申し訳ありません。
心よりお詫び申し上げます。
その終わりが訪れたのは、私にとって突然だった。
いつもとなんら変わらぬ朝食の席で、傍らに控える給仕たちに見守られながら、私は海の食材と野菜がたっぷりと入ったスープを口に運んでいた。
結局あれから何かが動くことはなく、ただ、以前にもまして私を甘やかすように様々なものを与えてくる兄上の元、私は表面上の穏やかな日常に浸っている。
レストアは今、どうなっているのだろう。
内心ではそれが気になって仕方がなくて、でも尋ねるわけにはいかなくて、焦り落ち着かぬ気持ちを抱えながらも、結局はどう身動きをとればよいのか分からぬままに時を過ごし、暦の上ではいつの間にやら少しずつ春が近づいてきていた。とはいえ、まだまだ寒い日が続いていて、温かいスープが身に染み入るようでとても美味しいところは変わりないのだけれど。
兄上は、私のことをどう考え、これからどうするつもりなのだろうか?
私は、口に運んでいたスプーンを降ろし、目の前の兄上の様子を窺うようにちらりと視線を向けた。
けれど、それに気が付いたらしい兄上がお肉にフォークを刺す手を止めて私を見つめ、「どうしたんだい?」と問いかけてきて、それになんとなく焦った私はさっと目の前の食卓に視線を泳がせ、当たり障りのない話題を振る。
「……うん。なんとなく、今日の朝食はなんでこんなにご馳走なんだろうと思って」
「ん?」
勿論、国王である兄上の食卓に出されるものはいつも豪華で、さまざまな食材をふんだんに使ったご馳走ばかりではあるのだけれど、今日は一段と力が入っている気がする。朝食なのに、それこそ城を上げての夜会で出されるような凝った物ばかりだ。
いったいどうしたんだろうと小さく首を傾げる私に、兄上は曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「今日は、少し出かけようと思っていてね。腹ごしらえだよ」
「お出かけになられるの?」
「ああ。ティアも一緒だけれどね」
「……え?」
聞いていないその話に、私は小さく目を瞠った。
だって、出かけるって珍しい。私が城外に出られることなんて前世でだって滅多になかったことだし、こんな何の話もなく突然……。
けれど、
「いいだろう?」
兄上のそれはまるで了承することを決定としているような問いかけ方で、私はよく意味の分からぬまま深く考えず、こくりと一つ頷いた。
そう。ただ、軽い気持ちで。
だけど、それからバタバタと外出着に着替えて準備をした私は、それをすぐに後悔することとなってしまった。
だって、私が促されて入れられたのは二頭立ての馬車の中……。
「どうかしたのかい?」
一緒に馬車に乗り込んだ兄上が席に座り、不思議そうな顔で馬車の中で立ちすくむ私にそう尋ねてくる。
どうかしたかって……。
「馬が……」
「馬?」
思わず本音を言いかけて、けれど心配そうにこちらを見る兄上の顔に、“いけない”と慌てて笑顔を作って兄上を安心させるように首を左右に振った。
「な、なんでもないわ」
敢えて言う必要なんか、ないわ。こんなこと。
私は出来る限りゆっくりと慎重に、兄上の向かいの座席に腰かけた。でも、ただ大人しくそのまま座っていると、どうしても顔と体が強張ってしまうのを抑えきれずに、せめてと傍らに置かれたクッションを手に取って抱きしめ、自分の中に感じる恐怖を抑え込む。
「それで、どこに行くの?」
私は話題を逸らすように、それを兄上に尋ねた。
でも、本当はずっと気になって仕方なかった。嫌な、予感がする。
これはただの行楽とか視察のための外出じゃないのかもしれないと、お城から外に出て感じたから。
だって、前世でだって見たことがないほどに馬車の前後を固める隊列はとても大きいもので、私と共に馬車に乗る兄上はそうではないけれど、他の人間は皆きっちりと武装している。
父上が視察に出るのを何度も見送ったことはあるけれど、規模がまるで違う。あの頃と国の大きさ自体が違うと言われたらそれまでだけれど……、それでも。
どこに行くの? 何かが、ある?
そんな疑念を抱く私に、だけど兄上から返ってきたのは何かを含むような「着いてからのお楽しみだよ」という言葉で、「そう」と頷きながら、やっぱり私もこの外出について行くべきだと覚悟を決めた。
本当はただの気軽なお出かけならば留守番をしたいところだけど、とその思いを呑みこむ。
オレリアの荒治療がこんなときにも役に立つとは。結局、あの荒治療中、怖さがなくなったとかいう嬉しいことはおきなかったけれど、それでも少しは慣れたし、荷馬車よりはましだと思うことが出来ているもの。
だけど、出発の為、車輪が小さくきしみ、がたりと揺れを感じて、びくりと身が竦んでしまうのはやっぱりどうしようもない。
そんな私の様子に、兄上は思い当ったのだろう。
「……馬って、もしかして、ティアは馬に乗ることが怖いのかい?」
躊躇うように発された問いかけに、
私はなんとか作った曖昧な笑みで返した。
すると、兄上は顔を苦く歪めて押し黙ってしまう。だって、落馬したことがティアの死因だったから。
少しでも私がティアなのだと信じてくれているのならば、兄上が心を痛めるのなんて分かりきってる。ずっと、ティアの死に罪悪感を抱いてくれていたのだ。そんな必要ないのに。
だから、少しでも兄上の気が楽になるのならと私は慌てて言い訳を口にした。
「ち、違うのよっ。あの時のことだけが原因じゃないわ。とどめを刺したのはレストアの貴族たちよ。私に嫌がらせなんてしてくるからまた落ちかけて、それで馬が駄目になっただけ」
「嫌がらせ?」
兄上が険しく目を細めて私に問いかけてくる。
あ、やばい。決してレストアの心象を悪くするわけにはいかないのに。
「でもね、大丈夫よっ。その時はね、陛下が助けてくれたの。だから、大したことは何もなかったの」
焦ってそう弁明してみたけれど、兄上の顔はさらに厳しく冷たいものになってしまって、危険を感じた私はそこでぐっと言葉を詰まらせた。
ここで、兄上が攻め入ろうとしている国の陛下の話なんてすべきではなかったかもしれない。もしくは、やっぱりまだ、私の口からレストアの名を出すべきではなかったかもしれない。
どうしよう……。
そう考えていると、
「君は……、向こうの国王の側妃だそうだね」
ともすれば車輪の回る音にかき消されそうな程の、呟くような声でそれを言葉にされて、私はハッと顔を上げた。
兄上から、具体的に“今”の私について触れられたことなんて初めてだ。
そして、何故それを知っているのだろう。兄上には言っていなかったはずなのに。一瞬そう動揺したけれど、そういえばギードに、マルコたちのその後を調べてもらうための交換条件として教えていたことを思いだした。
今更と思い教えながらも、私がティアとして振る舞うことを望んでいる兄上の耳にはまだ入れない方がいいかと思って、念のために口止めをしていたのに、あの真面目な忠臣はどうやら私との約束を守ってはくれなかったらしい。そんな彼は今回は王城に残っている。
仕方がないか、と思いつつ、変な誤解があると困るので私はその情報に若干の修正を加えることにする。
「偽物だったけれどね。酷いの。陛下達ったらね、私がアブレンからの間者なんじゃないかって疑って、私を傍に置くことにしたんですって。アブレンとレストアの作法は少し違うなんて、私、そんなこと知らずに、あのお城でティアとして生きていたときの記憶を活用しちゃったものだから」
小さく首を傾げ、苦笑しながらそれを話すと、兄上は複雑そうな苦笑を返してくれる。
「ティア」
「なに?」
「まだ着くまでに日もかかるから、……聞かせておくれ。君が生まれ変わってから過ごした日々を」
「え……?」
まさか、兄上からそんな事を尋ねられる日が来るなんて思っていなかった私は、それでも兄上の私を見る促すような柔らかな眼差しに「え、ええ。勿論」と二つ返事で頷いて、何処に向かっているのかもわからない、不安に揺れる馬車の中で兄上に話して聞かせた。とは言っても、陛下たちの情報を漏らすような真似をするわけにもいかないから、主にエリカとして生まれてお城に行くまでのことばかりだったけれど。庶民として生まれて初めて知ったことを。生きるということ、働くということ、王城では知り得なかった楽しかったこと、苦しかったこと。初めて兄上と離れて歩んだ人生の、色んなことを。
何日たっても、止まることのない馬車の中、語るその話を、兄上は瞳を伏せながらじっと聞いていた。
ただ、ただ静かに、そして何かを決断しようとするように。
そうして、馬車が止まり、兄上が「着いたよ」と言ったのは、出発からおよそひと月後のことだった。
私は、その言葉に、恐る恐る馬車の窓から外を覗き込む。
そこにあるのは、一面の銀世界。アブレンにも雪は降ったけれど、結局は1日しか見られなかった光景だ。
方角からして、もしかしてとずっと思っていた。春になろうとしているはずなのに、進むにつれ気温がだんだん下がっているのも感じていた。
予感はあった。
だけど、こうやって目の当たりにして、私の心が緊張で震える。
すぐ近くにあるのはいつか遠目で見たアブレンの監視塔。レストアとの国境に置かれたそれと同じ形。間違いない。
つまり、ここは――。
「兄上……?」
「おいで」
馬車の外から手をすっと差し伸べられて、私はその手をとり足を地面へと降ろした。
ザクリ、と薄く積もった足元の雪が小さく鳴った。
地上に降り立った私は、改めて辺りを見回してみる。
冷や汗が吹き出てきて、嫌なものに鼓動が大きく鳴り響く。
国境ギリギリのこの場所で、周りにいるのは、兄上の数少ない腹心である将軍をはじめとする、私たちと一緒にアブレン城からやって来た沢山の騎馬兵たち。それから、以前、兄上からも聞かされていた、レストアをいつでも攻撃できるよう配置されていたのだろう兵たちもいる。彼らは隙無く武装し、正に臨戦態勢と言った様子で、兄上に礼を払いながらも国境の向こう側を険しい表情で睨んでいた。
そしてその先には、
やはり同じように国境に沿って並びこちらを警戒している、無数のレストアの兵たち。
――なんで?
両者の間に流れる何とも言えない緊迫感に、ピリピリとした痛さを感じた。
――嫌だ。
「あに、うえ?」
これはなに?
どうするの?
言葉にも出せずに戸惑いと不安に押しつぶされそうになりながら兄上を見上げると、兄上は私ににこりと弱く微笑みかける。
そして私の頭を、兄上は2度ほどゆっくりと撫でて、そのまま後ろへ一歩下がって、優しい声音で私に告げる。
「ここでお別れだ。君はレストアに帰りなさい」
「……え?」
どういう、ことだろうか。
兄上の言った言葉の意味が分からない。
お別れって……。
私は呆然としたまま、カラカラに乾きつつある口から掠れた声を絞り出して問いかける。
「なん、で?」
突然、何を言っているの?
なんでここでお別れなの? なんで私にレストアに帰れと言うの?
帰ったその後、兄上はレストアをどうするつもりなの? 全然、今の雰囲気は友好的なものとは言えないくせに。
兄上を見詰め、そして少しでも状況を確認するために私は国境越しのレストアにもう一度、目を向けた。何も見逃すことのないように。
その時、レストアの武官たちの後ろに、それまでよく分からなかったけれど大きな白い天幕が見えて、私たちが来たことの伝令を受けたのか、中から数人、人が出てくるのが分かった。
それを見つめながら、その中の人影が見覚えのあるものであることに気が付いて私は目を見開く。
あれは……、
「……陛下?」
武装するでもなく、いつもの白い衣を纏い、そこに立って私たちを見るその姿。
遠目であるけれど、間違いない。
「なんで陛下まで……」
よく見ると傍らの護衛の中にはオルスもいた。
更に訳が分からなくなってしまう。
いや、分からないではなくって、分かりたく、ないんだ。
揃った兵たちに、両国の国王。そして、この雰囲気が何を引き起こそうというのかなんて、そんなこと……。
その想像はあまりにも容易く、だけど私は、兄上も陛下もしっかり武装していないことに私は縋って、今すぐ他の、ちゃんとした、安心できるような“理由”を聞きたくて。もう一度兄上を睨みつけるように見つめる。
あまりのことに目頭がじんと熱くなるのを感じた。
「……どういうこと? ねえ、兄上!!」
お願いだから、違うと、大丈夫だと言ってほしい。
必死に、兄上の衣装を握りしめて広げられた距離をもう一度なくすように縋りつく。だけど、兄上は私の両手首を掴んで、その手で引きはがしてしまった。
掴んだ手首さえもあっけなく離して再び私から距離を取った兄上は、やはり穏やかに笑っているように見えるけれど。
だけど、そこから感じたのは明らかな、拒絶。
――どうして?
呆然とする私の言葉は音にならず、ただ唇だけがその形をなぞる。
「今までのお礼だ。せめて、直接、君をレストアに返してあげようと思ってね」
見上げる私に兄上が告げるのは勝手な、惜別の言葉。
「とても、楽しかったよ。君と過ごすことが出来て。良い夢を見ることが出来た。あの日、声一つ上げることも出来ず、ずっと胸にあり続けた慟哭が、魂を引き裂かれたような痛みが、どうしようもないほどの空しさが、漸く和らいだような、そんな幸福を感じられた」
「そんなふうに思ってくれるなら! どうして!? 夢なんかじゃないわっ。信じてくれないの? 私は本当に……」
そう言い募る私に、兄上はゆるく首を左右に振って否定する。
「信じたいと、このまま信じられたならさぞ幸せだろうと、そうやって縋っていたいと望む心もある。だけどそれ以上に、……私には無理なんだよ。もう二度と、あんな愚かな過ちを繰り返さぬためにも。私は何かを信じることが出来ない。信じぬことを止めてしまったら私は自分を保てなくなってしまう。進み続けなければ自分を見失う。だから、夢はもう終わりだ。レストアの謀略も、同時にね」
――もし、その夢が覚めたなら、その時はレストアの未来も
信じてもらうことが、叶わぬと言うのなら。
覚めない夢はないと言うのなら。
私をレストアに帰すこと。
それが兄上の、宣戦布告。




