七、新たな日常
書庫の白くて薄い生地のカーテンがふわりと風に舞う。
するとカーテンに隠されていた窓から、一瞬だけ中庭に面した回廊が見えた。
やっぱり綺麗だわ。
ちょうど国王陛下が数人の文官を引き連れて歩いているところだった。
黒いローブの文官姿の男たちの中に一人だけ、光沢のある白い生地に銀糸で装飾された衣を纏う彼のその姿は持ち前のプラチナブロンドと相俟って神々しくも見える。
観賞用には持って来いだ。
「どうかされましたか? エリカ様」
下のほうからそんな声をかけられて私はハッとそちらを見下ろした。
見れば侍女のマリアが梯子の上にいる私を心配そうに見上げているところだった。
この城の書庫は大きさも然ること乍らその所蔵数も莫大で、いくつもの背の高い本棚が並べられている。高いところにある本は梯子を使わなければ見ることも取ることもできない。
マリアのこの顔を見るに、「大丈夫だから」と梯子を上った私の言葉にどうやら納得しきれていなかったようだ。
「ううん、なんでもないのよ」
本当に何もないから私は頭をゆるく振ってマリアにそう笑いかける。
「本、こちらで受け取ります」
「ありがと」
手がふさがったまま降りるのは流石に危ない。
私は降りることに集中するために、本棚から取り出した数冊の本を腕を伸ばしてマリアに差し出した。
「もう、本ならわたくしが取ってまいりますのに」
梯子を降り切った私にマリアは頬を膨らませて苦情を言う。
同い年のこの侍女はちょっと幼さが残ったかわいい娘だ。
「これくらい大丈夫だって」
私はマリアを宥めるように言って、預けていた本を受け取った。
私が王城にやってきた日からひと月が経った。
あの日、私と共に謁見の間に残されたアルフレッドは陛下に命じられたとおり簡単に城内を案内してくれた。
広くて入り組んだつくりの王城は一度歩いたくらいでは到底覚えられるものではなかった。
結局、どこをどうして行き着いたのか分からないまま、私はとある一室に入るよう促された。
南側に面していて美しい庭園を見渡せる、眺めと日当たりの格別によい部屋。
これが私に与えられた側室用の部屋だと教えられた。
そこには既にマリアを含む侍女が5人控えていて、副侍女長を務めているというベティーを筆頭としたその5人がこれから私に仕えることになると紹介された。一人ひとりと挨拶を交わし、いよいよ私の王城生活は始まった。
私に宛がわれた侍女たちは皆が皆、とても優秀な女性のようだ。
与えられた仕事を手際よくこなしていく。
そればかりではなく、ここの侍女たちはとても過保護なのか細やかなのか、いつもさりげなく私について回り色々と気をきかせてくれる。まさに痒いとことにも手が届く仕事ぶりには感心してしまうほどだ。
その上、私の生まれの身分について嫌味一つ言わず、嫌な顔も一切しない。
いい侍女たちに恵まれたものだ。
私はというと、このひと月でゆったりとした王城での暮らしにもすっかり慣れ、側妃生活を満喫していた。
質のいいドレスに煌びやかなアクセサリーを身に着けると、今の私もなかなか満更でもなくなってウキウキしてくる。
せかせか働かなくてもいいから「今日はなにしようかな」なんて平和なことを考えることが出来る。
お茶に読書、庭園を散歩。たまにお昼寝なんてしてみたり。まさに至福!!
そうそう! これよこれ! この生活よ。
いいわぁ。やっぱり側室になってよかった。
そんな喜びを噛みしめる毎日。
「今日は何を借りられたんですか?」
書庫から戻る途中、マリアにそう尋ねられて、私は持っていた本のタイトルを一冊ずつ読み上げる。
「えっと、ケイル著・蘇った犬、ゲルー著・見果てぬ空、それから、あぁレンブリック著のレイトの大冒険だわ」
読む本のタイトルを聞かれるのはいつものことだから何の抵抗もなくそれを読み上げる。この国の侍女たちは仕える主人の趣味趣向まで把握する必要があるようだ。大変ね。
だけど、いつもなら「そうなんですか。面白いといいですね」という言葉が返ってくるのに今日はなんだか様子が違った。
「それだけ、アブレンの言語、ですのね」
「あぁ。そうね」
いつの間にか歩を止めていたマリアを振り返ると、彼女は訝しげに眉を寄せて少し首をかしげつつ私をジッと見つめていた。
確かにレイトの大冒険だけ私が前世で生きた国・アブレンのものだけれど、それがどうかしたのだろうか?
「エリカ様はアブレン語が出来るのですか?」
「出来るわよ」
どちらかというとレストアではまともな教育を受けていたわけではないから書く方に至ってはアブレン語の方が得意だったりする。
「アブレンに行ったことがおありなんですか?」
「……いや、ないけど……」
いつも以上に食いついてくるマリアに私は少し戸惑った。
「では、何故アブレン語が?」
「昔、ちょっとね……」
何故と聞かれましても……。
あぁ、どうやってごまかせばいいのか分からないわっ。
でも確かに下層庶民が他の国の言語を習得しているなんておかしな話かもしれないわね。
かといって「前世が~」なんて言ったら変人認定されてしまうし。どうしよう。
アブレンの本を選んだのは失敗だった。
言葉を濁す私には構わずさらにマリアは質問を浴びせてくる。
「その本はどんな内容なんでしょう?」
「え? ただの冒険ファンタジーだけど」
これは前世の私が幼いころに大好きだった本だ。さっき本棚で偶然見つけて懐かしくてつい手に取ってしまった。
今はこんなだけれど、昔は外の世界にすごく憧れた時期があった。レイトのように海を越え山を越えたくさんの仲間たちと冒険してみたいと夢見たあの頃。
兄上にどうしてもとお願いして一緒に城から抜け出して、でもすぐに見つかってみんなにすごく怒られたのは今ではいい思い出。
「あの、それわたくしも読んでみたくなっちゃいました。読み終わったら私にも貸していただけますか?」
マリアが切羽詰まったようにそうお願いしてくる。
何にそんなに惹かれたのかしら?
「え? それならマリアからどうぞ」
私はマリアの気迫に負けておずおずと本を差し出した。
するとマリアはぱぁっと安心したような笑顔を見せてその本を両腕で抱きしめた。
どうしたんだ? この娘。
そういえば、
「ねぇ、マリアは今のアブレンのこと知っている?」
懐かしいアブレン。
私が死んだあとあの国はどうなったのかしら。
書庫にアブレンの歴史書らしいものは見当たらなかったし、マリアが知っているなら教えてもらいたかった。
「エリカ様はご存じないんですか?」
今度はこちらを探るようにマリアが私を見た。
「ええ、何か知らない? 今の国王が何代目だとか。平和にやってるかとか」
「え、えぇ。わたくしもあまり詳しくはないのですが確か今18代・ヘリクス国王が治めていたはずです」
「18代ヘリクス!?」
兄上だ!
17代は父上だったし、私が死んだ当時皇太子だった兄上の名前は間違いなくヘリクスだった。そうか。兄上は立派に国王になったんだ!
でも、その兄上が上国王になっているということは、もう父上がこの世に居ないということ。
――そうか。
覚悟はしていたけれどなんだかすごく物悲しい想いが私の胸を支配してきて、でも今、泣いたりなんかしたら変だから、鼻と目の奥がツンとしてくるのを振り払うために更に詳しいことをマリアに訊ねる。
「今、その国王は何歳くらいなの?」
それが分かれば、あれから何年経ったのか分かる。
私のその質問攻めに今度はマリアのほうが戸惑っている。眉間に皺を寄せながら、どうやら記憶の糸を辿っているようだ。
「たしか……、60くらいだったと思うのですがちょっとはっきりとは……」
60くらいだということは、当時兄上は23歳だったからあれから37年くらいたっていることになる。
思っていたよりもそんなに年月は経っていなかったけれど、ついこの間のことでもない。
アブレンもいろいろと変わってしまっているんだろうか。
「あそこは相変わらず平和な国なのかしら? 治政の方は上手くいってるの?」
どうなっているのか知りたくてさらに質問を重ねた私の言葉にマリアは顔を曇らせた。
あれ? あまり思わしくない?
マリアは緑色の瞳を泳がせ、まるで言葉を選び一語一語噛み砕くようにして話し出す。
「治政は……、上手くいっていると言えば上手くいっているのかもしれません。ですが、今の国王様に代わってから軍事力に力を入れだし、周りの国を次から次に侵略していると聞きます。ちょうどこの前も隣の国のフルトがかの国に滅ぼされたばかりです。次は我が国ではないかという噂もありますわ」
「そう、なの……?」
マリアは私の問いかけに大きく頷いた。
ショックだった。
いつも朗らかで優しかった兄上。
戦争の無意味さを常に論じていた。
その兄上がよその国を侵略??
簡単には信じられないその話。
何故、そんなことになってしまったのだろうか?
時は人をも変えてしまうものなのだろうか?
疑問に思うと同時に、もし何かがあったのなら、兄上の力になれないだろうかと、つい考えてしまう。
私は手元に残っている2冊の本をギュッと抱きしめた。
前世の私と今世の私は別人だ。
例え何かがあったのだとしても、あの国ではもう、兄上のために私に出来ることは何もないのだ。
彼にとっても今の私は“妹”ではなく“ただの小娘”なのだから。
私は心によぎった兄上への想いを振り払うため頭を数度横に振った。