六八、雪
アブレンの地にしては珍しい、痛いほどに冷たく凍えるような寒空の下。それに耐えつつ地面に跪いた私は、瞳を伏せながら静かに祈りを捧げていた。
アブレン城の敷地内に設けられた礼拝堂の片隅にある立派な馬の石像。墓標であるその下にはこれまで、王家のために働き死んでいった馬たちが今、安らかに眠っている。
勿論、あのエミリオもこの場所に。
あの日、私を乗せていたエミリオは私を振り落とした後もしばらく駆け抜けたらしく、のちの捜索によって随分と離れた場所で絶命している姿が発見されたらしい。
私が死んだあとの知らない話。
兄上が、ティアの死をどう受け止めているのかはっきりと分からず、私をまだティアとして認めてきってはいない兄上にそれを尋ねていいものか流石に迷っていた。けれど、ギードがフォンシェの息子だと知って、彼にならと思い切って尋ねてみたのだ。
もう、今となっては古い話であるけれど、もしかするとと思って。
少し戸惑ったように瞳を彷徨わせてそれでも私の頼みに頷いてくれたギードは、見た目の印象どおり生真面目な性質らしく、期待通り彼の父親であるフォンシェに尋ね、その上古い記録を漁ったりまでしてくれたようだ。そうして分かった情報を後日私に報告してくれた。
やはり、エミリオには薬が盛られていたらしいこと。エミリオが急に暴れだしたのは、そのことによる発作であったこと。すぐに犯人として義姉上が捕えられたこと。それはあまりにも手際の良いもので、おそらく兄上は事件以前より義姉上を疑われていたのではないか、ということ。
義姉上は、クレオをはじめとする三国が一斉にアブレンに奇襲を仕掛けてきた後、それを撃退した兄上の手によって処刑され、彼女の亡骸はそのままクレオに送り返されたらしい。
そして、私が一番知りたかったマルコのその後。
彼は、懸念していたとおり私が死んだ責任を問われ、一度は牢に入れられたという。けれど、三国が突然攻め入ってきた混乱によって迅速な対応を求められた王家は、戦の準備による馬の采配を、誰よりも馬にのことを把握しているマルコに頼み、それに頷いてくれた彼は王家の為にと精いっぱい尽力してくれたらしい。私のせいで、ひどい目に遭ったというのに。マルコは、私を恨むこともなく、最後まで王家に尽くし、そして、父上が亡くなり義姉上が処刑される頃、自ら命を絶ったそうだ。王女である私を死なせてしまったという自責の念に耐えかねて。その後、彼の遺体がどうなったのかは分からなかった。親族に引き取られたのか、結局は罪人という身分を負ってしまったゆえに捨て置かれたのか。
だから代わりに。私は、彼の愛した馬たちが眠るこの場所で、マルコへと祈りをささげる。
“ごめんなさい”
そんな謝罪を少しでも伝えられるように。彼への、抱えきれないほどの感謝の念を届けられるように。
静かなその場所で、暫くそうしていると、ふと背後で砂を踏むような音が小さく聞こえたような気がして、私は伏せていた瞳を開けた。
だんだんと近寄ってくる人の気配。
私は後ろを振り返りながら立ち上がる。
「ここにいたんだね、ティア」
「兄上……」
兄上が、私を見つめながらゆっくりと近づいてくる。
錯覚でなければ、ここ最近、兄上の表情が柔らかいものに変わってきたように思う。傍までやって来た兄上は、「体を冷やすよ」とその腕にかけていた毛皮の上掛けを私に着せてくれた。
「どこにもいないから探していたんだ。今日は特に寒いというのに、外になんかいるものじゃないよ」
「大丈夫。平気よ?」
過保護な兄上の言葉に、私は小さく苦笑を漏らす。いくらアブレンにとっては一際寒い日だと言っても、もっと寒さの厳しいレストアで生きていた私にとってはこれくらい、取り立てて言うほどでもないのに。
そんなことを思って、私はまただと兄上に気付かれないようにそっと浮かべた笑みをそのままに軽く瞳を伏せた。
「それで、ここで何を?」
「え、っと……」
尋ねられて俯けていた顔を上げて兄上を見ると、兄上も分かったのかもしれない。私の後ろにある馬の石像を見たその瞳が翳る。
「お墓参りをね」
「……そうか」
その瞳の色を見て、私は敢えて“誰の”とは言わなかった。
兄上はどう受け止めるのだろう。そう思って反応を窺って見たけれど、短く答えを返した兄上はそのまま何かを想い、考えるようにそのまま石像をぼんやりと見るだけ。
流れるのはなんとなく重い、しばしの沈黙。
それでも、見守るように兄上を見つめていると、ふいに兄上はゆっくりとこちらに振り向いた。その口元には無理して作ったような、微かな微笑みが浮かんでいる。
「ギードから聞いたよ。ティアにあの日のことを調べて欲しいと頼まれたと」
え?
その言葉に私は少し驚く。
黙っていてって言ったのに。確かにギードにとっての主は私ではなく兄上ではあるけれど。
けれどそれにどう答えればいいのか分からず言葉を詰まらせた私を、兄上は笑みを消し、じっと、見詰めてくる。
「君は……」
なに?
私を見つめるのは、静かだけど、とても強い眼差しで。
でも、呟くように小さな声は、どこか半信半疑で。
「……ティアは、私を恨んでいるかい?」
「え?」
恨むって、何故?
「何故、私が兄上を恨むというの?」
突然のその問いかけの意味がよく分からず、私は小さく首を傾げる。
すると、兄上の表情が、そこで少しだけ臆したように躊躇いの色を浮かべた。
まるで、それを口にするのを厭うように、兄上は苦しげに顔を歪める。
それでも、私が兄上から視線を外さず、どういうこと? とただその答えを待っていると、兄上は迷いを振り払い意を決したようにその瞳でひたと私を見据えた。
「あの日、約束を破った私を。予測できたはずの危険から目を背け、君を死に追いやってしまったから」
その瞳が見るのは“私”ではなく、私の中にいるティア。
兄上は、片手を伸ばし目を見開いた私の頬を包む。外気よりも更に、ひやりと冷たい感触。
「どうし、て?」
どうして、そんな。
兄上に頬を包まれたまま、ハッとした私は急いで、必死になって首を左右に振る。そんなことないわ。
兄上が、ティアを“死に追いやった”だなんて。
なんで――。
違うわ。そんなこと。
違う!
「私は、兄上のことが大好きよ」
私は、兄上に、はっきりとそう宣言する。
あの頃とは違う、変わってしまった兄上も、大好きな想いに変わりはない。
そもそも、あれは、
「あれは兄上の責任じゃない。私だって、兄上との約束を破ったわ。ちゃんとマルコの言うことをきかずに、エミリオに乗りたいと我が儘を言ったから、だから……」
全て私が悪かったの。もし、あの時兄上の言いつけを守って、大人しく自分の馬に乗っていればあのこと自体は起こらなかったのだから。
だから、一欠けらだって兄上を恨んでなんかいない。そもそも、そんな感情を抱くという考えすらもなかった。
むしろ、私は……。
私の頬から兄上の手がそっと離れていく。
それを感じながら、私は、どうしたらこの距離を縮められるのだろうと苦しいほどのもどかしさを感じる。
今の私は、どこまで伝えることが出来る? どこまで信じてもらうことができる?
そんなことを考えながら無言のまま見上げて兄上を見詰め続けていると、私の視界の中で小さく白いものがふわりと舞い落ちてきたのに気が付いた。
アブレンではとても珍しい、雪。
とても冷えると思ったら。私はそれを見上げながら、自然とくすりと小さく微笑んでしまうのを自分で感じた。とても愛おしくて、そして。
私は、一度雪に奪われた視線を、今度はもう一度、同じように雪を見上げる兄上に向ける。
「ねえ、兄上。覚えている? 私たちが幼いころにね、兄上が絵本を読んでくださったの。雪降る街の物語。街がね、一面白く覆われている絵に、私、本当に雪が積もっているところが見てみたいって兄上に訴えたの。ここではそんな景色、見たことなかったから」
「……ああ。あれは大変だった」
兄上が、小さく目を瞠った後、穏やかに微かな苦笑いを浮かべながらそれに同意する。
「本物の雪が積もっているところは、雪がたくさん降ってくれないことには見せてあげることが出来ないけれど代わりにって、私の上に小さな白い花を降らせてくれたわ。とっても綺麗だった」
『おいで』と連れ出された庭一面に降り積もった花の雪。
「ずっと信じてた。雪はきっとあんなに優しいものだって」
それが、前世の私だった。
「でもね、全然違ったの」
私は、兄上ににこりと笑いかける。
ここに居たら知らなかったこと。あの日がなかったらきっと知れなかったこと。きっとあの日がなかったら、アブレンの危機に私は、例えランベールとの縁談があったとしても無理を言ってでもここに残って、兄上の傍に居ることを望んだだろうから。
「本当の雪はね、あんなふうにいい香りなんかしないの。積もったらね、足元は取られて歩きにくいし足の感覚がなくなるくらいに冷たくて、辛いったらないわ。綺麗は綺麗だけど、実際のところ生活するにあたって不便以外の何物でもなくって。それが、私が生まれ変わって知った現実だったの」
知ったのは厳しい現実。
「だけどね、同時に本当は雪が温かいことも私は知ることが出来たわ。少し触れただけだとすごく冷たいけれど、寄せ集めたその中はね、とても温かいのよ。分かりにくいけれどね。それに、白く輝く姿はやっぱり何よりも綺麗で。だけど、やっぱりねご機嫌を損ねたらとっても怖いのよ。そんな人にね、私は出会えたの。だから、私は幸せなの」
雪は、あの地を治める陛下のよう。あの温もりを知れて、触れることが出来て私は幸せだった。
「兄上。私はね、ここに伝えに来たの。私にとって兄上は今でも大好きな人よ。妹として愛してくれて、守ってくれたもの。それなのに、私はあの日約束を破ってお別れも言えずに、兄上を一人ぼっちにしてしまったわ。……ごめんなさい。苦しみを一人で背負わせてしまって、欠片も役に立てなくて。それなのに何も知らなかった私はこんな運命を幸せだと感じたの。恨まれるのは、私の方だわ」
「ティア……」
静かに、兄上の瞳から一筋の涙が流れ落ちる。
私は、それに手を伸ばしてそっと拭い、そのまま抱き着く。
「泣かないで。恨んでなんかいない。また戻ってきたの。もう一人じゃない。兄上にはティアがいるわ。私は今も変わらず、兄上の味方よ」
「……懐かしい言葉だ」
そう言って、兄上は私を抱き返すように腕を回す。
「懐かしい?」
「ああ。幼いころに、周囲の重圧と己の力の間で苦しみ落ち込んでいる私によく言ってくれた。同じように『兄上にはティアがいるわ』とね」
「そう、だったかしら?」
「そうだよ。私にはその言葉がとても嬉しかった」
兄上が落ち込んでいる姿なんて、見たことがあったかしら。兄上はいつもしっかりされていた記憶しかないけれど。
でも、私の言葉で兄上を慰めることが出来ていたのなら、私も嬉しいわ。
そして、なんだかここに戻ってきて、初めて兄上の心にちゃんと触れることが出来たような喜びに、私はクスクスと、無理やりでなく自然な気持ちで笑うことができた。
兄上から離れて見上げてみると、そこには穏やかに笑う兄上。
よかった――。
けれど、その時、
「陛下。申し訳ありませんっ!」
そんな声が聞こえて、そちらへと視線を向けると、遠くからギードが駆け寄ってくるのが見えた。
私は一歩下がって彼を迎える。
「どうした?」
「それが……」
兄上の問いに、ギードが気まずそうに私をちらりと見る。そして、小声で兄上の耳元に告げる言葉から漏れ聞こえてきたのは“レストア”の名。
その瞬間、私と兄上の表情が強張る。
そして、ギードが差し出した書類を手にしながら兄上は、「もう寒いから中に戻りなさい」とだけ私に言って、ギードと共にどこかへと去っていった。
けれど、その背中を見送る私は、ここから動くことが出来ない。
あの書類は、どういった内容なのだろう。いよいよ何かを動かすつもりなのだろうか。それが気になってしまって。
私のことを、兄上は信じ始めてくれていると思う。
けれど、私を信じてくれることと、レストアに攻め入ること。それとこれとはやはり別なのかもしれない。結局、私ではどうしようもないことなのかもしれない。私では止めることのできないこと……。
そう思うと、怖くて、私は寒さではないものにぶるりと小さく身を震わせて自分を抱きしめた。
空から降る雪は、先ほどよりもその姿を大きくしてしんしんと降り注ぐ。
恨んでなんかいないわ。
「けれど、きっと恨んでしまうわ」
兄上がレストアを攻撃して全てを壊してしまったら、陛下を手にかけようというのなら、その時はきっと。
私は知ってしまったから。雪の冷たさも、温かさも。
こうやって、アブレンに戻ってきたことで、私はもう自分がティアではないことを思い知った。だって、私の中には常にレストアがあるのだから。
兄上がたくさん贈ってくれたアブレンのドレスは、昔と変わりない胸下に切り替えがあるデザインだった。レストアのドレスのようにコルセットでウエストをぎゅうぎゅうと絞る必要もないそれは、今の私にとってはなんだかとても心許なく感じられた。日当たりを重視しているレストアのお城と違ってこっちはどの部屋も日差しを避けて設計されているからどこも薄暗くて、ついついお日様が恋しくなって外にばかりいる。兄上にどんな音楽が聞きたいのか問われたあの日も、本当は真っ先にレストアの伝統曲が思い浮かんだ。明るい曲よりも、あの儚げで切ない旋律が聞きたかった。
懐かしんでいるわけでも、無いものねだりなんかでもないと言い切れる想い。だって、私はエリカだから。
もう、私はティアではない。何も知らなかったあの頃には戻れない。
私は、掌を差し出してそこに雪を置き、そのまま掌を硬く閉じて胸に抱きしめる。
護るの。私が。
「……陛下」
大切だから。
ちゃんと陛下のところへ帰るって約束したから。今の、私がいるべきなのはあちらだから。
“私がいる”。兄上に言ったその言葉に嘘はない。今でも、兄上の味方である心に変わりはない。
でも、それでも兄上がレストアを侵すと言うのなら、
その時は、私も戦わなければならない。
絶対に、譲れないの。例え、どんな手を使ってでも、護らなきゃいけないの。
だから、お願い。兄上。
私に、選ばせないで――。




