六六、祈り
「これはまた恐ろしい」
レストア王城の執務室で。
遥か遠いアブレンの地より届けられた手紙に目を通し終えたアルフレッドは、感情的に書きなぐられたその内容に苦笑を浮かべ首を左右にゆるく振った。
どうやら自分たちはこの手紙の差出人である彼女をとても怒らせてしまっているらしい。
手紙を元の折り目に倣って畳みながら目の前のジェルベを見てみれば、なるほど。先にこれを読んだ彼が、口を引き結んだまま執務机に頬杖をつき、面白くなさそうに視線を横に向けているのも納得だ。
こんなふうにぶつけられても、彼女以上の想いをジェルベは抱いているはずなのだから。
「で? あいつについて、今度こそなにか分かったのか?」
アルフレッドが読み終えたのを確認してか、ジェルベの後ろに控えるオルスがそう問いかけてきた。窓へと軽く体を凭れかけて腕組みをしている彼はすっと鋭い視線でアルフレッドの手に握られたままの手紙を指す。
「エリカと一緒にアブレンに行った奴からの手紙なんだろ? あいつが今どうしてるのか、分かったのかよ」
アルフレッドはそれに対して「いえ、何も」と控えめな微笑みを浮かべ肩を落として答えた。
エリカ・チェスリーがこの地を旅立って8か月。
およそ3か月前にアブレンに着いたという彼女が、今どこでどうしているのか分かっていない。
彼女の道案内兼護衛としてアブレンまでの道を共にするよう依頼していたオレリア・バイエからその後についての報告が、アブレンに潜ませている早馬を使ってこうして定期的に届いてはいるが、彼女たちも何一つ掴めていないらしく、いつもこうして届く手紙には、一切の消息が不明なエリカ・チェスリーを心配する想いと、彼女がどんな役目を負っているのか碌に説明をしないこちらに対する怒り、そして現状へのもどかしさが書き綴られているばかりだ。
そんな現状に、オルスは苛立たしげに短い濃い金の髪を掻き毟る。
「まったく、何やってるんだよ。あのバカは。連絡ひとつ寄越さないでこっちに心配ばっかかけさせやがって! せめて生きてるか死んでるかぐらい報せろよ。常識がないんじゃないか?」
「……そう、ですね」
不満を訴えるオルスに、死んでいたらそもそも報せる術などないではないですか、といった指摘は取り敢えずしないでおく。
普段は、陛下の決めたことには口を出さないとばかりに静観を決め込んでいるオルスが、本当は気が気でないくらいにエリカ・チェスリーを心配していることを知っている。ジェルベとオルス、この二人にとってそんな冗談で済ませられる状況ではないだろう。そして、自分自身も、賭けた希望が失敗に終わったとは思いたくない。
だから、
「大丈夫ですよ。便りがないのは元気な証拠と言いますし、それに何よりオレリアたちのこの報告によると、エリカ嬢はまだ処刑台には上がっていない」
「別に殺すのは処刑台じゃなくても」
出来るだろ。という反論のその最後の言葉をオルスは躊躇ったように口の中にとどめた。
見れば、強張った表情をした二人。
それぞれに、覚悟がないわけではない。万が一、という可能性があることを分かっていながら彼女を送り出したのだ。けれど、やはり恐れを振り切れるわけでもない。
そんな彼らに、アルフレッドは敢えてオルスが濁した言葉も含めて一度深く頷く。
「ええ。確かにそうですね。処刑台でなくとも命を奪うことは出来るでしょう」
そして、さらに顔を強張らせた二人を安心させるべく、アルフレッドはくすりと微笑みかけた。
「しかし、エリカ嬢が不審者として城の者に捕えられた場合、やはり、こちらに対する見せしめも兼ねて処刑台行きとなるはずです。ですが、この手紙によると、少なくともエリカ嬢がアブレン城に向かってからひと月の間、これといった処刑は行われていません」
これまでの、アブレン王のやり方からして、そうしないはずがない。
もし、勝手に城に侵入した彼女の後ろに誰がついているかわかっていなかったとしても、やはり念のためにとあちらは公開処刑を行うことで、そのいるやも知れぬ相手に対して警告をしてくるはずだ。
それに、彼女が向こうに着いた後、どのような行動をとったのか分かってはいないが、城に入る前に殺されているとも考えがたい。城下に身元不明の遺体が転がっていたという話も手紙にはなかったから。
今、一番懸念すべきなのは、どこかで捕えられて拷問でもされているのではないかということだが。
それを、ジェルベも理解しているのだろう。
「だが、向こうは変わらずこっちに兵を向けようとしている」
アルフレッドの言葉を否定するように苦々しげにそう吐き出した。
ジェルベの言うとおり、こちらに向かって、すでにアブレンが軍を進めているという報せが届いたのも事実だ。
状況は何も好転することなく、動き出している。
まだ、賭けは終わってはいない。彼女の消息が分かっていないだけの今の段階では、まだ希望が潰えたわけではない。
しかし、彼女が無事で、目的を果たしたというのならば、軍は足を止めていいはずだ。だが、その気配はない。
戦争の始まりの予感に、城内だけでなく、城下の街さえも今では緊迫感に包まれている。
最悪の事態が迫っているのかもしれない。
彼女の力がない限り、こちらが今働きかけていることも、どの程度の有効性を持てるのか分からないのだから。
勝つか、負けるか。
どこまで自分たちは太刀打ちできるのだろう。
そう考えると、今は彼女の心配もだが、同時にあらゆる方面からアブレンとの戦に備えて対策を練ることを優先しなければならない。
そんなことを思っていると、ジェルベが椅子から立ち上がり、オルスの方へと足を向け、そして、そこにある窓から外を眺める。
「なあ、アルフレッド」
「なんです?」
「……戦が始まれば、どれほどの人間が死ぬんだろうな」
静かに、国中に想いを馳せるようにそんな事を尋ねられて。
「……さあ。でも、それを最小限にとどめるようにするのが私たちの責任でしょう?」
そう答えれば、ジェルベは振り返ってアルフレッドを見る。そして、無表情のまま、ぽつりと零した。
「ここは嫌な場所だな。俺が誰かしらの手で殺される覚悟だけなら昔からあるが」
「陛下っ!」
オルスが咄嗟に抗議の声を上げる。
「別に死にたいと思っているわけじゃない」とジェルベは言うけれど。
だが、その覚悟を持つことは仕方がないだろうなとアルフレッドは思った。
幼いころからジェルベは貴族たちの権力争いの中、アリスと共に命を狙われることも多かった。前王の元にようやく生まれた王太子といえど、その妃候補がエヴァンズの娘、アリスとなっていたことで、反エヴァンズ派の人間にとっては邪魔だったのだ。アリスと同時にジェルベも。二人が揃っている限り、次代までも自分たちに陽は射さない。それならばまた、王妃でなくとも、いや、今度は自分たちの息のかかった女にでも代わりの王太子を産ませればよい。そんな考えのもとに。
他人の考えで簡単に道を決められる。それなのに、責任ばかりは重く、奪われるものも多い。
嫌な、立場。
そしてそれは、今まさにこちらを攻撃しようとしているアブレンの王とて例外ではないとアルフレッドは思う。かつて、彼も全てを奪われているのだから。
「アルフレッド」
「はい?」
静かな声で名を呼ばれ、返事をすれば真剣な瞳がアルフレッドを見据えている。
その彼の雰囲気に、アルフレッドもゆっくりとジェルベへと向き直った。
「そろそろ教えてくれないか? 何のためにエリカをアブレンにやったのかを」
そう、問われて。
アルフレッドは、軽く瞳を伏せて小さく息を吐き出す。
もう、この辺で観念して白状すべきなのだろうか。
あまりに無謀だと、自分でも分かっていた。可能性は僅かで簡単に上手くいくことではないとも。彼女を危険に曝し、ジェルベに辛い想いをさせると知っていながらも、それでも、と思い、仕向けたその理由。
それは――。
小さく息を吸い込み、ジェルベと視線を合わせて口を開く。
語るのは父から聞かされた情報と、自分の推測。
「彼女は……、アブレン王の大切な妹君だったんです」
とても可愛がっていたと父が言っていた、アブレン王の妹。
アブレンで開かれた夜会で見る彼らの姿は人々が見とれるほどに仲睦まじく、特に、周りから美姫と名高い妹を護るように、アブレン王はいつも傍らに彼女を置いていたという。下手な人間は近づけてももらえなかったんだよと、父は言っていた。
そんな彼女。
「……それで?」
だからなんだ、とジェルベがその瞳を厳しいものに変える。
分かっている。ジェルベが何を言いたいのかは。だから、アルフレッドは頷きながらそれに答えた。
「確かに、……今の彼女はティア王女ではない別人です。容姿も、話す言語も、身分も境遇もティア王女とは全く違います。けれど、」
そう。けれど、と思ったのだ。
「けれど、彼女が彼女であることは変わりません」
浮かべた笑みを濃くしてそう言えば、ジェルベとオルスが二人して推し量るように眉根を寄せたのが分かった。
「どういう、意味だ?」
ジェルベがそう尋ねてくる。
「そのままの意味ですよ。例え見た目が変わってしまっても、きっと彼女は彼女のままなのではないかと思ったんです。どんな境遇に立たされようと、真っ直ぐと前を見据える美しさも、無邪気な輝きも、彼女は何も失いはしなかった。だからこそ、私たちは彼女を怪しみ掴めないものに躍起になり、父は彼女の過去に気が付いた。そうでしょう?」
「……あいつがそんな大層なものとは思えない」
少し苦々しげにそう言ったオルスは、それでもそれ以上の反論をしなかった。
そして、しばらく沈黙した後、再びオルスが口を開く。
「……だからってな、アル。なんであいつをアブレンにやるって話になるんだよ」
オルスらしくなくあまり張りのない声だ。
そしてその問いに、アルフレッドは「それはですね」と、過去の記憶を手繰り寄せた。とても印象的な、あの日――。
「昔、私がアブレンへ行ったときのことなのですが」
もう、何年も前のことだ。
アリスが急に死んで、予定されていたジェルベとアリスの結婚式が取りやめになったその後。事態が落ち着いてから式に招待していた各国へ、迷惑をかけたことに対する謝罪と、外交を兼ね宰相になった挨拶をするために周辺の様々な国を回ったことがあった。
その時に立ち寄ったアブレンで。
その頃のアブレンは、まだこちらに対してこれほどまでに頑なではなく、門前払いまではされず、快くとは言わないまでも公式に城に入れてもらうことは出来たのだ。そのときに、
「アブレン王と謁見した際にね、思ったんです。陛下に似ているなって」
「似てる?」
疑問を口にするオルスに「ええ」とアルフレッドは頷いた。
「私が名乗り、目を合わせたその瞬間にね、それまで冷たいばかりだった彼の表情が、苦々しくまるで殺意でも抱いたかのように憎しみの色を浮かべたんです」
まるで目障りなものを切りつけて消し去ってしまいたいとでも思ったような、そんな恐ろしい鋭さを感じた。
「陛下はそんなおっかない表情しない」
「そうではなくて」
ムッとしたように反論したオルスを目で制して、アルフレッドはその続きを話す。
「そのすぐ後、僅かに、本当に僅かだったのですが、彼の顔が苦しげに歪んだんです。それはまるでアリスの死に傷つく陛下のように。悲しみと共に、してもしきれぬ後悔と懺悔を抱えて苦しむその姿によく似ているように感じたんです。そして、今にして思えばあれは亡くした妹君を想っていたのではないかな、と」
「……なんでそんな思考になるんだよ」
「だって私は、ティア王女が生きていれば存在していない人間でしたから」
父と彼女の婚約について、こちらが返事をする前に彼女が亡くなったと、父はそう言っていた。けれど、それはもうすでに、内々で決まっている状態にあったのかもしれないとアルフレッドは思う。当時のアブレンがいかほどのものだったのかは分からないが、それでもやはりこれ以上に良い話はなかったはずなのだから、国のために、こちらが断るはずもない。話が来た時点で諸手を挙げて諾の意向を示していたとしてもおかしくはない。
「彼女が、ティア王女がもし生きていれば、彼女が父の妻となり、私が生まれることはきっとなかった。だからこそあの時、彼にとって私は大切なものを奪われ、壊されたの証に見えたのではないかと思うんです。現実が、望まぬ形になったその事実を見せつけられたように感じたから、私はあのような憎しみのこもった表情を向けられたのではないかと」
そして、その直後、アブレンとの国交は完全に閉ざされた。
それは元から他国と友好関係を築くことをしなくなったアブレンにとっては珍しい動きではなかったし、自分が何か失敗をした覚えもなかったから特別その訪問自体を問題視はしていなかった。だが、その時に、父は一言「読み違えたかもしれないね」と言っていたような気がする。
それが意味することはやはり、彼もまた失ったものへ対する想いを捨てきれずにいるのではないかということ。
ならば、
「彼にはもう誰の言葉も届きません。けれど、彼女の言葉ならと思わずにはいられなかった。姿かたちは変わってしまったけれど、もし彼女の正体に気が付いてくれさえすれば……。それが彼女をアブレンに、と望んだ理由です」
そう、言い終えたアルフレッドにジェルベは小さく息を吐き出して腕を組む。
「……本当に無謀だな」
「ええ」
「エリカといい、お前たちは簡単にそれを望むがこんな妄言じみたこと普通は相手にもされないというのに」
「……そうですね。ですが、」
「だが」
アルフレッドの言葉を遮って、
「伝わっていればいいなと俺も思う」
ジェルベは腕を解き、再び後ろを向いて外を見た。
そして、まるで願うように、
「それが、アブレンの王の救いになるのなら」
それは、同じ王という立場から出た言葉なのか。それとも失った者に傷つく想いを彼もまた痛いほどに知っているからこそ出た言葉なのか。
そんなジェルベの言葉にオルスはふんっと鼻を鳴らす。
「まったくだ。他にもいろいろあったとはいえ、あんなバカのせいで戦争なんて御免だしな」
やってられねえと、両腕を上げて伸びをするオルスに、ジェルベとアルフレッドはふっと表情を緩めそれぞれ頷いた。
「そうだな」
「そうですね」
だからどうか、と遠いアブレンの地に祈りながら――。




