六三、足音
――足音が、聞こえる。
大陸の中でも温暖である土地の気候に合わせ、風通し良く、そして夏の強い日差しを避けるよう設計し建てられたとされるアブレン城の、なんとなく薄暗い部屋の中。
かつては、“皇太子の間”と呼ばれていたその室内で、軽く俯き、部屋の壁際に置かれたベッドに腰掛けていた老齢の男が伏せていた瞼を静かに持ち上げる。
駆け足で、誰かが近づいてくる気配。
聞こえてくるそれに、何かを求めるように。有り得ないと頭で分かっていながらもそれを無視して男が顔を上げれば、高いところで結い上げた、今はほとんど白に変わってしまった黒髪も微かな音を立てて小さく揺れる。
足音が、この部屋の前で止まった。しかし次に硬い扉が控えめに鳴らされる音に、男は案の定浮かべていた期待を断ち切られ、その痛みに耐えるように一瞬硬く瞳を閉じた。
そして再び開いた瞳で扉を見た男は温度を感じさせない硬質な声で「誰だ」と問いかける。
それに対して、扉の向こうの人物は声を張り上げて名を名乗った。その声と名に入室を許可すれば、扉は開かれ、現在男の補佐役という役目を負い、軍の指揮の一部も任されている武官姿の男が姿を現す。傍系とはいえ王家の血を引くがまだ若い、生真面目そうな顔つきのその男は入室と同時に畏まった様子で頭を下げた。本来の、この国の男たちのほとんどがそうであったようにこの男の頭上にも漆黒の髪が一つに結われている。
武官姿の若い男は礼の形をとったまま恭しく言葉を発した。
「お邪魔をいたしまして申し訳ございません、陛下。急ぎご報告したいことがございまして」
男が偶に閉じこもるこの部屋にいるときは、人が寄りつくのを嫌うことを知っているからこその言葉であろう。男が仕方がないとそれに一つ頷き「構わぬ」と許可の言葉を口にすると、漸く若い男は顔を上げた。
「それで、何用だ」
男は訊ねる。わざわざ分かっていてここに来たのだ。なにがあったというのか。
男が若い男を見遣れば、彼は真面目そうな顔をさらに硬いものにする。
「……レストアに、若干ですが異様な動きが見られたと報告がございまして」
「ほう……」
「届いた報告書がこちらに」
前に進み出た若い男が差し出してきた紙の束を、男は受け取り中身を確認する。そして、そこに記された内容に一通り目を通すと、男は薄く口元に笑みを作った。
やはりか、と言うように。
あちらもとっくに気付いている。
そして、男もレストアが何かしらの動きを見せることは容易に想定出来ていた。そもそも昔、外交でこの国をよく訪れていた食わせ者のあの男がいながら、今まで何の動きも見せないことが不気味なくらいだったのだから。報告書を読む限り、何を狙い動いているのかは現時点では読み取れないが、どちらにせよあっちにとってもいよいよ、ということだろう。
「で、ギード。フルトの方はどうなっている?」
ギードと呼ばれた若い男は返された報告書を受け取りながら、その問いかけに神妙な顔つきで頷き、それに答える。
「今日の分の処刑は滞りなく。これで処刑は一段落しました。今のところ他に怪しい動きをする者は見当たりませんので、取り敢えず鎮圧は一段落といったところではないかと」
「そうか。ならば、」
徐にベッドから立ち上がった男はゆったりとした足取りで部屋を横切り、反対側の壁に付けられた文机の方へと向かう。その上に広げられたのはこの大陸の古い地図。それには、元のアブレンだった場所から広がるようにゲームの駒が置かれている。一番最近置かれたのは“フルト”と記されたところにある駒。
男はその地図を一度眺めて、“レストア”とある部分にも手に取ったそれを置いた。
「ならば火種が小さきうちに、早速レストアに兵を向けるとしよう」
「っ! しかし、陛下のお体もあまり……。これ以上は、」
珍しく、男に異論を述べようとしているらしいギードを男は冷たい青の瞳で見据え、「ギード」と名を呼ぶことでその言葉の続きを切り捨てる。
男の態度にギードは大人しく口を噤んだ。
自分の体がもう戦に出られるほど若くはないことも分かっているし、かつての男がそうであったように彼が侵略という名の争いをあまり好んでいないことも男は察している。
しかし、誰がなんと言ったところで男には他国への侵略を止める気などさらさらない。
止めるわけにはいかないのだ。この大切な地を守るために、決して。例えどんな大国になろうとも、最後まで気を抜くことも油断することも出来はしない。
再び、裏切られるくらいならば進み続けなければ。
それに、と男は思う。
「例えこれが私にとっての最後の戦になろうとも構わぬのだ。だからせめてあの、目障りな国を」
今後の侵略を想定しての、地形の問題だけではない。
どうしても、この弱りかけた体に多少無理がかかろうとも死が訪れるその時までに目障りで仕方がないあの国を潰してしまいたい。そうしてあの国をアブレンの一部として取り込んでしまいさえすれば。
クレオもルエノも、モスエオラもとうの昔に全て滅ぼした。
レストアを滅ぼすことによって今更、もう何かが報われるわけではないと、充分すぎるほどに分かっている。
けれども。
『兄上っ!』
そう男を呼ぶ無邪気な笑顔を無理矢理思い出す。もう、それは幻影のように薄れてしまって今となっては曖昧な姿しか思い浮かべることが出来ないけれど。
痛む心が、レストアの滅亡を望む。
――もし。
思ってしまうのはそんなこと。
男にとって、レストアはそれを否定する目障りな存在でしかない。
だから、その目障りで不愉快な存在を滅ぼすことで、僅かな夢想を抱き、縋る術を手に入れられるならば。
そうすれば――。
『申し訳、ありませんでした。ヘリクス様』
処刑のその時、この男から全てを奪う一役を担ったその女は顔を伏せ、地面を握りしめながらそう言った。
“申し訳ありません”
簡単な、そんな言葉で何を赦されると思っているのだろうか。
赦しを得られるとでも思っているのだろうか。
それを口にすれば、懺悔と自責の念から解放されることを赦されるというのだろうか。
そんなことは有り得ない。
躊躇うことなく、女へと自ら剣を振り下ろし息の根を止めながら男は冷えた心でそう思った。
疑いながらも感じた情に、信じるという、愚かな決断をしたのはあの時の自分。
その結果がこれだ。
自分の間違った判断によって礼拝堂に横たえられることとなった愛しい妹の変わり果てた姿も、その後に襲い掛かってきた激動も。
謝ったところでどうにもならない。いくら後悔したところで決して赦されない。苦しみという名の痛みが男を襲いつづける。
誰かが自分を裁いてくれたなら。自棄になったように侵略を進めながら、それでもこの国の主となった男は本当の意味で裁きを望むことは出来ない。冷静に、勝利へと導いて行く必要がある。この国のために。
そして、狂ってしまうことも赦されず、けれど狂ってしまった心の中で、
もし、というそれに縋れば切なさを伴いつつもその痛みが一瞬だが和らぐことに気付いたのはいつだったか。
信じることは無駄なことだ。
現実は辛いものだ。
だから、どちらにせよ。あちらに動きがあったのなら尚更、あの国は潰してしまわなければと思う。
そうすることで救いが求められると信じて。
男に唯一残された大切な、この国の力を持って潰してしまおうと。
例え、これが間違った道だとしても、もうこうすることしか出来ないのだから。
「……さて、あっちはどんな手に出るつもりだろうな」
何が男をここまで駆り立てるのか、理解できていないようで戸惑いを含む瞳で見つめてくるギードを横目に。
心に浮かぶ苦々しさとは裏腹に、愉しげな声を上げた男はコツリという音を立てて足を踏み出した。
「執務室に戻る」
早速、兵を集め攻め入る準備を行うとしよう。
男は、ギードにそう宣言して、目の前を通る際、頭を下げた彼を引き連れ部屋から出た。
アブレン城の執務室に、双方の足音が近付く。
廊下を進む男の歩に合わせるように、
シャラリと何かが小さな音を立てた。
*お知らせ*
この度、『私の玉の輿計画!』がフロンティアワークス様のレーベル、“アリアンローズ”にて書籍化されることになりました。
少し詳しいことは本日の活動報告にてお知らせしております。
こんなに素敵な機会に恵まれましたのも偏に、これまで玉の輿を読んでくださった方、応援してくださった皆様のお蔭です。
どうもありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
菊花




