六十、旅立ち
「着いた……」
恐怖心を煽る蹄の音と不規則に襲ってくる揺れに耐えること数十分。
漸く静止した馬車から脱出し地上に降り立つことが出来た私は、その瞬間ずっと張りつめていた緊張から解放されへなへなと力なくその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか!? エリカ様」
慌てたような声を上げ、マリアが私に続いて馬車を降り近づいてくる気配を感じて、私は地面を見つめたままこくんと小さく頷く。
大丈夫だ。今回は何もなかった。私は無事だ。
目の前に両手持ってきてそれを開いて見つめる。
傷を負うこともなくちゃんと存在している私の体。
「ふふふふふ」
嫌だわ。安心感からなんだか気でも触れたように不気味な笑い声が自分の口から洩れ出してきた。
体が小刻みに震えているのはきっと馬車の中で冷や汗をたくさん掻いたからではないわ。心に湧き上がるのはおかしな興奮による高揚感。
そうよ。だって私は――。
私は顔を上げてここまで馬車を引っ張ってきた馬たちに視線をやる。そして精いっぱいににやりと口の端を上げた。
勝った。
遂に私は勝ったわ!
どう? これが私の実力よ。裏で変な小細工さえされていなければね、馬なんて恐るるに足りぬ存在なのよ。むしろ可愛らしい子猫のようなものね。それとも、従順な犬かしら?
今回は馬車に乗っていただけだという事実を無視して私は馬たちへ堂々と視線で勝利宣言を行う。馬たちは全く私の挑発的な視線など気にしていないけれど! それはどうでもいいわ。だって私は勝ったのだから。
「ふふふふふふふ」
「エ、エリカさま?」
更に笑みを深める私にマリアが恐れ慄いたように私の傍から一歩後ずさっていった。
それからどうにか正気を取り戻し気持ちを落ち着かせた私はマリアと共にオードラン邸へと招き入れられ、用意された部屋で簡単な旅の支度と着替えを終えてから、今、応接間にてランベールの奥さんであるアンジェリーナ様とマリアと3人でお茶をしていたりする。
「もう少し待っていてね。そろそろあの人もお城から戻ると思うから」
アルフレッドとよく似た面差しのご婦人にゆったりとした微笑みを向けられた私は、とりあえずヘラリと笑い返しながらそれに頷く。
きっとアンジェリーナ様はなんとなく落ち着かず身を固まらせながら不自然に視線を動かしている私の姿を見てそう言ってくれたのだろう。私が、私たちとほぼ入れ違いにお城に出向いたというランベールの帰りを気にしているのだと思って。だが違う。はっきり言って奴がいつ帰ってくるかなんてそんなに問題ではない。
勿論、早いに越したことはないし彼が引き合わせてくれることになっているアブレンまでの道のりを共にしてくれるという人のことも気になってはいる。けれど。
それよりも、だ。
先ほどから私が居心地悪くしているのは、別のことが原因だったりする。そしてその原因は他でもない私の正面に座るこのアンジェリーナ様自身。
だってなんだかすごく見られているんだもの。間にマリアとの会話を挟みつつ、「楽しい旅になるといいわね」なんてのほほんと言いながら気が付けばじーーーっと! 睨むでも探るようでもないただ向けられるこの視線は何? なんなの? 訳が分からないんだけど!! うん、だめだ。なんとなく、ずっと気づかないふりで大人しくやり過ごしていたけれどやっぱり気になるわ。
だから、とうとう私は意を決し、そのアンジェリーナ様の視線を受け止めてまっすぐと向かい合った。
「あの、……何か?」
けれどそんな私の問いに、あっさりと柔らかく笑って「いいえ? 何も」と彼女は否定する。
いや、何もないなんてことはないだろう。私が心の中でそんな反論をした時、
「悪いね、姫。これはアンジェの癖のようなものだから悪く思わないでやっておくれ」
「ひっ!」
なぜか突然背後の耳元から聞こえた低い声に私は吃驚して思わずソファから腰を少し浮かせて振り返る。そこにはいつの間に部屋に入って来ていたのかランベールが立っていた。
「あら、お帰りなさいませ」
立ち上がって出迎えるアンジェリーナ様へランベールが「ただいま」と笑顔を向けながら歩み寄りその頬にキスを一つ落とす。
愛妻家、ねえ。
確かにこの場面だけ切り取って見るとそう見えなくもない。とは言っても他でもこんなことしてそうで全然信用できないけれど。実際どうなんだか。そんな下世話なことを思いながらマリアと二人、一緒になって席を立つとそれに気が付いたらしいランベールに再び座るように勧められる。そしてランベール自身もアンジェリーナ様と共にソファへと腰を降ろした。
「お疲れですのね」
隣で侍女から差し出されたお茶に口を付けるランベールに向かってアンジェリーナ様がそう話しかける。
ずっとにこやかにしているランベールを見てもそうは感じないけど疲れている? 私はそう疑問に思ったのだけれど、ランベールはアンジェリーナ様の言葉に小さく息を吐いてソファの肘掛けに頬杖をついた。
「少し、ね。ジェルベといいアルフレッド君といい、なかなか無茶を言う。お蔭で会議の場が大混乱さ。どうやらこれから僕も大分走りまわされることになりそうだしね」
「まあ。そんなこと仰って、貴方だって一枚噛んでいらっしゃるのではなくて?」
「そんなことないさ。僕はただの調整役なのだから」
そんな二人の会話を聞きながら私は首を傾げる。
陛下とアルフレッド? 無茶なことって何かしら。それを訊ねようとしたけれどその前に、
「それで、君は何か分かったかな?」
試すような笑みを浮かべてランベールがそうアンジェリーナ様に問いかけた。それに対し、彼女は何かを心得ているみたいににっこり微笑む。そして、
「この方ね」
何故か私の方を見てそう言ったアンジェリーナ様にランベールは吃驚したように瞳を見開いて、一拍置いた後可笑しそうに笑いだした。
「さすがアンジェはなんでもお見通しだ。でも、念のために言っておくけれどそれは昔のことであのときから僕は君だけだよ」
「それも存じ上げておりますわ」
ふわりと答えるアンジェリーナ様。何かを理解し合っているらしいこの夫婦の会話は何について話しているのかよく分からなくって隣に座るマリアに視線で問いかけてみたけれど、マリアもよく分かっていないのかそんな私に困ったような顔で首を傾げるだけだった。
それからしばらく和やかにお茶をしていると、この屋敷に仕える老齢の執事が応接間の扉を叩いた。
「旦那様、お連れしました」
その言葉に、ランベールと共に私も執事のほうに注目する。『お連れした』それはきっといよいよ私の待ち人がやってきたということ。
「やあ、わざわざすまないね」
ランベールが執事の背後にいる人物へと声をかける。すると、進み出て私たちの前に姿を現したのは燃えるような赤毛を結い上げた若く美しい女性と、同じ赤毛で髭面の、やけにどっしりとした体格のおじさまだった。旅装束に身を包んだ彼女たちはしっかりとした足取りで部屋の中に入ってきた。
「構わないよ。王家直々の頼みとあらば、ね」
良く通る声で凛と言い放った女性を隣のおじさまが「こら」と落ち着いた重低音で窘める。
「ですがよろしいのでしょうか。我々が公爵様の要望に異を唱えることはいたしませんがとても素人の、それも若い女性にとって楽な道のりとは」
その言葉に、ランベールは“どうかな?”と問うように私に視線を向ける。私はそれを受け止めて重く頷き、そのおじさまにをしっかりと見据えてソファから立ち上がった。
「危険も苦難も重々承知しております。それでもどうか私をアブレンへ連れて行ってください。お願いします」
「だそうだ。よろしく頼むよ」
「承知いたしました」
ランベールの言葉に、おじさまは深々と頭を下げる。
そしてランベールは立ち上がってそんな私たちの間に入り、すっと手でおじさまと女性を私に指し示した。
「紹介しよう。この二人は王家に代々仕えてくれている一族の者で、ロドリグ・バイエとその娘のオレリアだ。表向きは大陸中を股にかける行商人として生計を立てていて、その実他国の内情を密かに探る役目を担っている」
つまりは、行商人を装ったレストアの密偵ということか。この人たちが抜け穴を使い、アブレンへの密入国を行える術を持つ、限られた者。
私は、一歩彼らの前に進み出る。
「エリカ・チェスリーと申します。どうぞよろしくお願いします」
危険だというアブレンまでの道の供を頼んだ、密入国どころか旅すらも初めての私は多少なりとも足手まといになってしまうことだろう。
そのことはどうしようもないことで、だからと言って譲れるものでもないけれど、彼女たちには少しばかり心苦しく思うところもあって挨拶と共にそういう思いも込めて彼らに向かって頭を下げようとしたけれど、それは女性の方に手首を掴まれたことによって遮られた。
彼女は私にからりと力強く笑いかけてくる。
「よろしくね。エリカ、でいいかな。それとも側妃サマがいい?」
「エリカでいいわ」
「了解。アタシのことはオレリアでいいよ。父さんのことも適当に呼んでやって。さあ、じゃあ紹介も済んだことだし、早速出発と行こうか。荷物はどこ?」
「それならこちらに」
オレリアの問いかけにマリアが慌てたようにして、先ほど纏めていた私の荷物を差し出した。それを受け取ったオレリアはそのまま私を引っ張ってドアへと向かっていく。その少しばかり強引にも感じる態度に圧倒されつつ、私も遅れをとらないように足を動かした。
あ、でも。
そう思ったと同時に、私たちの背中に向かって慌てて追うようにマリアから声がかけられた。
「もう行かれるんですか?」
「うん。急ぐ道だっていう話だからね。少しでも早く出発した方がいいと思ったんだけど、早すぎた?」
私に顔を向けて確認してきたオレリアに、私は「ううん」と首を振る。ここまで来たら、早く行きたいのは同感だもの。
「……そうですか。ではお見送りいたしますわ」
そうして結局、マリアだけでなくランベールとアンジェリーナ様にも見送られることになった私はお屋敷の裏門付近に繋がれていた荷馬車の前に佇んでいた。
「また馬……」
「大丈夫ですか? エリカ様」
私は引き攣った笑いを浮かべて、ゆっさゆっさと尾を振り回している馬を見る。ついさっき、折角解放されたと思ったのに、何でまた……。そんな焦燥が私を襲った。
確かアルフレッドだってアブレンまでは徒歩だと言っていたはずなのに、これは何?
「心配しなくても大丈夫だよ。馬が苦手だってちゃんと聞いてるし、こいつは荷物を運ぶための馬だから別にアタシたちが乗るものじゃない。それに途中でこいつも手放すことになるから少しの間の辛抱だしね」
「そう、なの……?」
私の荷物を荷台に積みこみながら私に向かって頷いたオレリアの言葉に私は“なんだ”と安堵しつつ、それと同時にでも、とも思う。
「それは、私が馬に乗れないせい?」
もしかして、普段は馬に乗って各国を行き来しているのだろうか。それなら労力的にも申し訳ないなと訊ねてみれば、オレリアは軽い調子で首を横に振った。
「違う違う。馬だって生き物だからね。長期間歩かせるつもりならあんまり無理させられないんだよ。馬を交換しながらって手もあるにはあるんだけど。だからこれはいつものこと。とは言っても……」
そう言って私をじっと見つめるオレリアに、私が首を傾げて“なに?”と問えば彼女は意地悪くニヤリと口角を上げてみせる。
「ううん。なんでもない」
なんだか表情と答えが一致してないのだけれど。それはとても意味ありげで、どういうことか詳しく訊ねたかったけれどオレリアはすぐにその場を離れて馬の元へと行ってしまって、私はマリアの方へ振り返り、いよいよ別れの挨拶をすることにする。
「じゃあ、行ってくるから。今までどうもありがとう。元気でね、マリア」
「エリカ様こそお元気で。お気をつけて、そして絶対にご無事で帰っていらしてくださいね」
「ええ。必ず」
手に手をとって別れを惜しんでいると割り込むように、優しく「大丈夫よ」という言葉が横のほうからかけられた。
「きっと上手くいくから何も心配いらないわ。だからどんな状況に陥っても信じることを止めては駄目よ」
私たちを安心させるような、そんな声音で、けれどしっかりとした面持ちのアンジェリーナ様が私にそう伝えてくる。
――信じることを止めては駄目。
「アンジェの助言は聞いておくに越したことはないよ。きっと君の役に立つ。アンジェにはそういうのを読み取る不思議な力のようなものがあるからね。尤も、アンジェ自身も感じ取っているだけらしくて、その深い意味を知るのは僕らもアンジェ自身もずっと後になってからだったりするのだけれども」
「ランベール様……」
アンジェリーナ様の後ろから彼女の肩に両手をぽんと乗せたランベールが自信ありげに、そして楽しげに請け負ってみせる。それはどこまで信用していいものかよく分からないけれど、それでも先ほどからの脈絡のないアンジェリーナ様の発言を思い返せばなんとなく納得できないこともなくて私はそれに頷いた。
「大丈夫。私の諦めの悪さは人一倍なんだから」
「まったくですわ。それにはわたくしも大概苦労させられましたしね」
「そうね。マリアにはたくさんお世話になったわね」
今までの王城での生活を思い起こしてマリアと私はクスクスと笑い声をあげる。
「また会えることを祈っているよ、姫」
「ありがとう。折角貴方にも力を貸してもらったんだもの。また会える日が来るよう精いっぱい頑張ってくるわ」
「頼んだよ」
差し出された手に、私も手を差し出して同志であるように握手を交わす。
「それじゃあ、行ってきます」
3人に手を振って、私を待っていたオレリアたちの元へと向かう。
「もういいのかい?」と訊ねてきたオレリアに「ええ」と頷いて、そして私の旅は始まった。
オレリアたちの話によると此処からアブレンのお城まで徒歩でおよそ4、5か月はかかると言う。
レストアを出るまで1か月。そこからさらに3、4か月ほど。
初日であるその日は日が暮れるまで歩いて夜は宿屋に泊った。昔読んだ冒険記では野宿だったのにと話したらオレリアに「それはまたいずれね。最初はまず徐々に旅に慣れることから始めないと」と笑われてお金が入っているらしい袋を鳴らしながら彼女は「それに今回は王サマに奮発して貰ったし。人目を気にしなくていいレストアを出るまでは、特に不自由することはないと思うよ。なんで側妃サマがこんな形でアブレンなんかに行くことになったのかは知らないけど、王サマも過保護なもんだ」となんだか呆れたような顔を向けられた。
実際のところ彼女たちは王家に仕えている人たちで、いつもはどの程度の報酬を貰って密偵業をしているのか知らないから私には何とも言えないけれど。違和感のある言葉は置いておいても確かにかなりの高額を貰っていることは間違いないようだった。
出来る限り危険なんて負いたくないし不自由がないのならそれは私にとってもとてもありがたい。
そう思ったのだけど。
けれど、お金ではどうにもならなかったことが一つ。
「イッタっ……」
町と町の相中を行く途中、私はそれまで堪えていた声をとうとう口に出してしまった。歩き始めて3日目、ずっと動かし続けてきた足首がズキズキと痛んで仕方がない。
そんな私を振り返ったオレリアが歩を止めて「やっぱりか」と何か心得たように一つ頷いてからロドリグに呼びかける。
「父さんいい?」
「ああ」
それが何に対する問いで返事なのか分からぬままロドリグを見ていると彼は何故か荷馬車の荷台に積んでいた荷物を全て手に取って抱えだした。
どうしたんだろう。
そう思っていると、オレリアに「さあ、乗って」と促される。乗るって、どういうことだろう。嫌な予感が私に襲い掛かった。
「な、に?」
「普段歩かない人間がここ3日、歩き通しで足を痛めないわけがないんだ。かといって休憩ばかりもしていられないし。だから荷台に乗って休みなよってこと」
「いや、でも。私、馬の引く荷台になんて乗るのはちょっと……。ロドリグさんに荷物持たせて迷惑かけちゃうし、それなら頑張って歩くわ」
出来れば避けたい。出来る限りそれは回避したい。そんな思いで首を思いっきり横に振るけれど、それはあっさりと却下されてしまった。
「我が儘言わない。怖がってるのに可哀想だとも思うけど、覚悟しといてって言ったでしょう? ここで無理して足をもっと痛められる方がよっぽど迷惑だから諦めて」
「でも……。っていうか覚悟しとけなんて言われた覚えないし、全然私が馬恐怖症なの分かってないじゃない」
強引なオレリアの態度に私は声を引き攣らせその場で後ずさる。けれど、
「それなら父さんに背負って貰う?」
「それは、ちょっと……」
代わりに示された妥協案は申し訳なさ過ぎてもっと嫌だ。
そう答えるとオレリアはからりと笑って私をもう一度荷台へと促した。
どうしようもない状況に、私はしぶしぶだけれどきっと善意である提案に甘えることにして痛む足を庇いながら荷台へと乗り込む。
けれど、
「いーやーーーー!!」
手綱をひかれ再び動き出した馬のもたらす揺れと恐怖に、私はやっぱり叫び声を上げながら荷台の囲いを力強く握りしめた。旅立ちの日の馬車よりも下手に景色が見えるから余計に怖い。そんな私にオレリアはあっさりと「頑張って慣れてね」なんて無茶なことを言ってのける。それが出来たら苦労しないのに。大体、逆にまた危ない目に遭って更に馬が怖くなったらどうしてくれるんだ。
勝ち逃げ、したはずだったのにどうやらもう一度私と馬の勝負が始まったらしい。