六、国王陛下と幸運な私
オルスの手によってゆっくりと、小さく軋む音を鳴らしながら謁見の間の重い扉が開かれる。
徐々に開けてくる視界。
昨日の大広間より少しだけ狭くて、あまり変わらない造り。ただ大きく違うのは、昨日は絨毯敷きだった床が磨かれた白い大理石だということ。真っ赤な絨毯が入り口から奥の一段高くなっているところに置かれた立派な玉座に向かってまっすぐ一直線に引かれている。
「ほら、入れよ」
さっさと赤い絨毯を踏み、前を行くオルスが私をそう促した。
私は一瞬戸惑ってしまった。
もっと畏まった場だと思っていたけれどオルスの態度を見るとそうではなさそうだ。
よく見るとこの部屋に居るのは玉座に座っている国王陛下とその傍らにもう一人の2人だけ。
礼儀も作法も何もなく、オルスはどかどかと歩いていく。
私はどうしようか迷ったけれど、とりあえず作法を重んじることにした。
粗相がないように、脳をフル回転させて前世で父に謁見するときにした作法を思い出す。
少し俯き加減に、でも姿勢よく。大股になりすぎないよう上品にゆっくりと歩を進める。
本来ならば裾を踏みつけないように手でドレスのスカートを掴み持ち上げて歩くのだけど、生憎今着ているのは丈の短いワンピースなため手の置き場に困ってしまう。とりあえずその薄い生地を軽くつまむ。
こんなことなら昨日さっさとあのオレンジ色のドレスを売ってしまわなければよかった。でもあれを売らないと昨日の夕食代もなかったし。
せめてオルスに頼んで着替えだけでも用意してもらうんだったわ。
玉座から数歩離れたところでオルスが歩を止め、私もその後ろで立ち止まった。俯いたまま腰を低く落として跪く。
「エリカ・チェスリーさんですね?」
どこかで聞いた声が私の名を確認した。
「はい」
まだ陛下から顔を上げていい許可が下りていないから俯いたまま私は返事を返す。
わずかに衣擦れの音がした。
「面を上げろ」
凛とした、威厳のある低い声が私の頭上から聞こえた。
きっとこれが国王陛下の声。深みがあってなかなかいい声だ。
私は指示に従いゆっくりと顔を上げる。
そして目の前の玉座に座る国王陛下の顔に視線を向けた。
吃驚した。
こんなに美しい男がいるなんて。
陶器のような白い肌によく似合う、輝くプラチナブロンドの髪がさらさらと流れるようで。
その髪に縁どられた顔には、形の良い少々吊り上った眉、暗闇だと黒にも見えそうな深い深い青の瞳は切れ長で、スッと通った高い鼻に薄い唇。その一つ一つが絶妙な位置にあって、より美しさを際立たせている。
まるで、それは作り物の彫刻のようで私はぼぉーっとその姿に魅入ってしまった。
―――きれい
思わず口からこぼれそうになったその言葉を寸でのところで堰き止める。
前世の自分も、私が言うのもなんだが相当美しかった。会う人全てが私を賛美してくれた。その前世の私と血のつながりがあった父や兄の顔立ちも決して悪いものではなかった。
でも、男の人で美しいと思ったのはこれが初めてだ。
あまりにも私が見つめすぎたためか国王陛下は片方の眉をピクリと上げた。
不快に思われてしまったかもしれない。
「どうだ、一目惚れしたか?」
オルスが私の方を振り返って、にやにやしながらそう尋ねてきた。
どうだ、これがオレの国王陛下だぞと言わんばかりだ。
いやいや、自慢じゃないけど私、今まで恋心や乙女心と言われるものには全く縁なく生きてきたのよ。一目惚れだなんて
「冗談じゃない」
一瞬、自分が言ったのかと思って慌てて口を押さえかけたけれど、声が違う。
それは紛れもなく陛下の声だった。
私も同じ感想を抱いていたとはいえ、相手にそう言われるととても不愉快だ。
面には出せないから、心の中で顔を顰める。
「こらこら、陛下。エリカ嬢に失礼ですよ」
玉座の傍らに立っていた男がそう陛下を窘めるのが聞こえた。
その男の顔を見て、私は「あっ」と小さく声を漏らしてしまった。
昨日の文官だ。ぼさぼさだったこげ茶の髪はそれなりに整えられて、装いも変わっていたけれど愉快そうに細められたこの青の瞳は間違いない、あの人だ。
私の視線を感じたのか「昨日はどうも」とにっこり笑いかけてくる。
「私は宰相のアルフレッド・オードランです。側室選定試験の責任者をさせていただきました。合格おめでとうございます。エリカ嬢」
「どうもありがとうございます。光栄なお役目、しっかりと務めさせていただきます」
私は彼に深々と頭を下げる。
なるほど。彼は宰相様だったのか。まだ若いから下っ端の文官かと思っていたけれど、確かにただの文官にしては漂う雰囲気が違う。
顔を上げた私に「クッ」と陛下が喉の奥で笑う声がした。
「結果の発表直後、自ら城にやってくるとはな。随分と張り切っているじゃないか」
「陛下!」
アルフレッドが慌てて陛下を諌めている。
もしかして不況を買ってしまったのだろうか。それはまずい。
「あの、突然来てご迷惑でしたか?」
私はしおらしくそんな事を訊ねてみる。
「いや」
陛下はゆるりと首を横に振った。
それを見て私はほっと息を吐く。
けれど、陛下の顔はとてもご機嫌麗しいと言えるものではなく、面倒くさそうに肘掛けに頬杖をつき、大きく息を吐き出した。
そして、冷めた目で私を見つめる。
顔が綺麗なだけにそれはなかなか冷ややかな迫力がある。
私は唾をゴクリと飲み込んで陛下の次の言葉を待った。
陛下はまるでけん制するように硬い声で話し出す。
「エリカ・チェスリー。お前を俺の側妃として迎え入れることとする。
だが、勘違いするなよ。俺は側室を望んだわけではない。大臣どもがうるさいから仕方がなく娶るだけのことだ。
お前は側妃として自由にこの城で過ごすといい。その代り俺に愛だのなんだのは一切求めるな。俺はお前と一切関わる気はないからな。お前はただ城に居るだけでいい」
うそ?
虚を衝かれて固まってしまった私の横を、徐に玉座から立ち上がった陛下が擦り抜けていく。
「あとは、アルフレッド、お前が案内しろ。俺は執務に戻る。オルスは来い」
「はっ」と勢いよく返事をしたオルスを引き連れて陛下は部屋から出て行ってしまった。
「まったく、困った人だ」
アルフレッドがやれやれと息を吐き出した。
「申し訳ありませんね、エリカ嬢」
「いいえ」
私はにっこりとアルフレッドに答えながら立ち上がる。
これは願ってもいないことだった。
勢いで側室志願なんてしたものの、今まで深く男の人とかかわったことのない私。
どんなにお金がなくても娼婦にだけはならないと決めていた。
だからこそ、冷静になると疑問に思うことがあった。
側室として王城に上がることと娼婦になること、一体何が違うんだろうって。
いくら王城での暮らしのためで相手が国王陛下だとはいえ、あーだこーだされるのに耐えられるのかって。
それなのに、『お前はただ城に居るだけでいい』ですって? 『お前は側妃として自由にこの城で過ごすといい』ですって? なんという好条件!!
私って、なんてラッキーなの?
私は舞い上がる気持ちを抑えるのに必死だった。
後から思う。この時の私は何も分かっていない大ばか者だったと。