五八、別れ
数日後のレストアを発つ日の朝、私はいつものように鏡台の前の椅子に腰かけてマリアに髪を梳いてもらっていた。
手持無沙汰な私はなんとなく鏡に映る自分の姿を眺めながら、ドレスのスカートを軽く持ち上げる。
ピンクを基調とした春物のドレス。昨年の秋の、シーラ様のことがあったとき、このお城を出て行かないのだという意思を込めて私がデザインから携わっていたもの。全てが丸く収まった後も暇つぶしをかねて熱心に取り組み、きちんと完成までこぎつけたそれは我ながら大満足の出来栄えとなった。けれど、
「せっかく素敵に仕上がってきたばかりだったのに、もう着納めだなんて残念だわ」
私はこれから病気を装い、療養の名目でマリアを引き連れてオードラン邸へと向かうこととなっている。私には実家と呼べる場所がないからその代わりに王家とのつながりの強いオードラン家が受け入れる、という格好だ。そうして私の側妃という立場を守りつつ、実際の私はマリアとも別れてランベールが手配した人間と共にアブレンへと向かう。それはもちろん公式な訪問などではなく命がけの密入国の旅だ。こんな動きにくい恰好なんて無縁な道のり。
まだまだ袖を通していないドレスだってあるというのに、まさか自らこのお城を出て行く選択をするとは。ハァと落胆のため息を吐き出す私にマリアは苦笑を漏らした。
「また来年、戻ってこられてからお召しになればよろしいではないですか」
その言葉に私は一瞬胸を詰まらせて、けれど慌てて言い訳を口にしてそれを誤魔化す。
「駄目よ。抑えたはずの流行が来年にはもうずれているわ」
「そんなに心配されるほど変わりませんから大丈夫ですわ」
やれやれとマリアが言うのを確認して、私はそっと瞳を伏せた。
“来年”、その時私はどうなっているのだろうか。
私だって現実が見えていないわけじゃない。自分が選んだ道がいかに危険なのかくらい分かっている。上手くいかないことが充分有り得ることも、もちろん“来年”なんてものが保障されていないことだって重々承知だ。それでも、これしか方法がないと思ったから、だからこそ決めたこと。
そのはずだったのに、この期に及んで、後戻りできない段階になって、そのしたはずの決意が揺らぎ、少し怯んでしまっている。
本当に、これで良かった? 他に互いにとって良い手立てはなかったの?
兄上に会いたい、そしてなんとかしたいと思う反面、ここから離れたくもないという哀愁のようなものが、私の心にそう問いかけてくる。
「ねえ、マリア」
「はい?」
考えれば考えるほど分からなくなる心に、結局私は耐え切れなくなって気が付けばマリアに声をかけていた。
けれど、いざ返事が返って来てからまた迷う。
それを口に出すべきか、出さぬべきか。でも、やっぱり確認せずにはいられなくて、私は恐る恐るその不安を口にした。
「私は、間違えてはいない?」
それを訊ねてどんな答えを望んでいるのか、自分でも分からない。
ただギュッと膝に置いた手を組み合わせて祈るように、私の髪を梳く手を止めたマリアのその答えを待つ。
そっと伏せていた瞳を開けると、鏡越しに不思議そうに首を傾げるマリアが見えた。
「……いつになく弱気ですのね。迷われているのですか?」
「少し、ね。今更何を言ってるんだって感じだけど」
ハハと乾いた苦笑を漏らせば、マリアは少し逡巡するように目線を下に泳がせた後、にっこりと完璧な笑み作った。
「確かに今更ですわね。そのようなこと、わたくしに訊ねられましてもこの件はアル様が支持されているんですもの。わたくしがそれを否定るするような言葉を口にするはずがないではありませんか。アル様の意に反してしまいます」
「……そう」
そうだった。マリアにはそれが一番重要だったのだわ。
数日前、初めて知ったマリアの一面に最初こそ驚いたものの、変わらず侍女としてきちんと私に仕えてくれていたからうっかりしていた。
でもまさかこんな突き放すような冷たい答えが返ってくるとは。
まあいいか。どうせ一時の気の迷いだもの。
そう思って気持ちを立て直すことに決めた。そのとき、
「なんて……」
頭上から静かに、「冗談ですわ」と笑う声が聞こえてもう一度視線を上げてみると、マリアが困ったように眉を下げて小さく首を傾げていた。
「わたくしには分からないのです。何が正しく何が間違いであるのか。大丈夫だと安易に請け負ってしまって良いのかさえ、この時点でわたくしにはまだ」
ああ、そうか。
マリアの言葉を聞いて思う。
それが正しかったのかどうかなんて結局はその答えが出て初めて判断できることなのに。
なのに、私ったら。
「……いけませんわね。侍女たるもの、主が迷っておられるのならその背中を正しい方向に押してさしあげることも役目であるはずですのに」
申し訳なさそうにそう謝罪するマリアに私はふるふると首を左右に振る。
「いいえ。私が悪かったの。ごめんなさい、マリア。私の選択の責任を貴女に押し付けるような真似をしてしまったわ。そうね。すべては私の頑張り次第よね。私がこの選択を正しいものにしていかなきゃならないんだわ。迷っている場合じゃないのに。しっかりしないとね」
「誰だって迷うものですわ。現にわたくしだって、今、ここでエリカ様を引き留めるべきではないかと迷っていますもの。ですが、」
そこで言葉を切ったマリアが、優しく、そして力強く微笑んで言った。
「わたくしは知っておりますわ。本当はエリカ様がアブレン行きをお決めになる以前から、アル様がそれを望んでいらしたこと。そして、アル様は必要もなく無謀なことをされる方ではありません。ですから、これからエリカ様が進んでいかれるその道はきっと、エリカ様が思っていらっしゃる以上に何かしらの意味のあるものですわ。何もできないわたくしが言うのはあまりに無責任ですが、それでもエリカ様のこの選択はきっと間違えたものではないと、わたくしは信じております」
アルフレッドが望む? それはどういうことだろう。そんな疑問が浮かんだけれど、それでもマリアの言うとおりだといいなと思う。決して意味のないものにしたくない。例え、どんな結末を迎えるにしろ何かを遺せるように。
「ありがとう、マリア。私も信じて頑張るわ。この国のためにも」
「……その先に続く未来が明るいものだと良いですわね」
「そうね」
その言葉に私も願いを込めて深く頷く。
戦を防いで、レストアにもアブレンにも平和で明るい未来をつくれますように。
「さあ、手を止めている場合ではありませんわね。急ぎませんとお見送りのために陛下がお待ちですわ」
「ええ」
そう返事をしてぎゅっと膝の上の掌を握りしめる。
だから、
平和な未来を得るためにも私はお別れをしなければいけない。
*-*-*
それにしても……。
「おや、エリカ嬢。これはまた素晴らしい顔色ですね。“療養”という名目に相応しい。信憑性が増すというものですね」
にっこりと満足そうに微笑むアルフレッドに、私は青ざめさせた顔に無理やり笑みを浮かべてそれに応える。
私の目の前には王家の紋章の入った二頭立ての立派な馬車。
勿論分かっていたわよ。ランベールのお屋敷に徒歩で行けるわけないってことくらい。療養しないといけないくらいの重病人が元気にお城から出て行くわけにはいかないし、きっとそれなりの距離があるはずだし。
けれど、いざ目の前にすると過去二回の恐怖が思い出されてクラリと血の気が引いて行くのは抑えようがない。
そんな私の後ろで人の気配がして、私は馬から目を逸らすためにもくるりとそちらに振り返る。
「直接乗るわけでなくとも駄目だったか」
そこには難しそうな顔をして腕を組む陛下がいて、私はその問いかけに誤魔化すような苦笑いを浮かべた。
「多少は大丈夫だと思うけれど……。それでもいつ暴れだすんじゃないかって恐怖がね」
長いこと厩舎に通い詰めた甲斐あって普通に触れることも世話をすることも出来るけれど、結局何度挑戦しても馬に乗ろうとする度、体が震えてどうしようもなくなってしまった。馬車は乗馬とはまた違う。けれど、馬が暴れる可能性がないわけじゃなくて、そしてそんな彼らに身を委ねるという行為は同じで、たとえ私が手綱を握るわけではないとしてもやっぱり怖いのは変わらない。
「馬や御者を信用してないわけではないつもりなんだけど」
「それでも頑張ってもらうほかありませんしね。ですがうちの屋敷からアブレンまでは大変ですが徒歩での移動になりますし、此処だけの辛抱です。マリアもいることですししがみついていてはいかがですか? 恐怖も和らぐのではないかと」
「ええ、エリカ様。わたくしがお守りしますからご安心ください」
「ありがとう」
アルフレッドの提案と、お任せくださいと胸を張るマリアに小さく頷く。本当に大丈夫だといいんだけど。それでも陰鬱な気持ちはぬぐえない。
ややもすれば震えそうになる己の体を軽く抱きしめて上腕を撫でつけていると、そこでマリアがふと気が付いたように声を上げた。
「あら、そういえばオルス様はお見送りに見えられないのですか?」
そういえば、いつもならこのあたりで私をバカにしてくるはずの声が聞こえない。辺りを見回してみたけれど、やはりマリアの言うとおりそれらしき人影はなかった。
どうかしたのだろうか? そう思ってアルフレッドの方を見ると、彼はマリアと私に応えるように微笑む。
「オルスはもう餞の言葉は差し上げたので面倒だから来ないそうですよ。どうせまた戻ってきたらしょっちゅう顔を合わせる羽目になるんだからとかなんとか」
「そう……、ですか」
私は返事しながら、そこにオルスなりの真意がこめられているように感じて、少し後ろめたいような気がして軽く視線を地に落とした。
戻ってこいと言っているのだろうか。
だから、敢えてお別れなんてする必要はないのだと言いたいのか。どうやらあの餞は本気なのかもしれない。
けれど……。
私は、その時胸に過った考えを振り払うように顔を上げて言った。
「じゃあ、元気でとお伝えください」
「ええ」
私の言葉にアルフレッドが快く頷く。
最後に直接言いたかったけれど、仕方がない。
「エリカ」
そこでかけられた声に、私はもう一度陛下の方へと向きなおる。
けれど軽く首を傾げてみせても陛下は呼びかけただけで何も言葉を発さない。
ただ、私をじっと見ているだけ。
私は一歩前に踏み出してそんな陛下に笑いかけた。
「貴方も元気でね。陛下」
「ああ」
瞳を伏せてそれに頷き、私の髪へと指を差し入れた陛下に、私はくすぐったくて笑いながら心の中でさようならと呟く。
もしかしたら、もうこれで最後かもしれないから。
だから、ちゃんとしなくちゃ。
「私、頑張ってくる」
信じたとおり精一杯、私は頑張ろう。
でも、
「でもね、もし、それが」
“上手くいかなかったらね”
そう続けるはずだったのに。
「お前がここに戻ったら」
突然、私の言葉を遮るように被せられた陛下の声に、私は思わず口を閉ざした。
折角、もしもの時のためにけじめをつけておこうとしたのにそれをくじかれてしまった。
言わなければならなかった言葉。
“もし上手くいかなかったならその時は決して私のこの決断を無駄にしては駄目よ。私の守りたかったものを覚えておいてね”
悪い結果を前提に考えるのは好みじゃない。その分良い結果が遠のいていきそうな気がするから。けれど、私は命が簡単になくなってしまうことを知っている。だからやっぱり曖昧な別れをするわけにはいかないと思って。この人の負担になって、足を引っ張るようなことをしないためにもちゃんと道筋を作っておかなくては。
そう思っていたのに。
私はそれでもよくない話は後回しにしようと、陛下の言葉の続きを促すべくなに? と少し逸らし気味だった視線を陛下のものと合わせた。濃い青の瞳が真剣な眼差しが私を射抜く。
陛下がそっと私を抱き寄せた。
「無事に戻ったら、俺の正妃になれ。エリカ」
せいひ?
聞こえてきたその思ってもみなかった言葉に私は息をつめて両手で陛下の胸を押して陛下の顔を見上げる。
「正妃って……」
何を言っているのだろう。
それは側妃なんかとは全然立場が違う、唯一陛下の隣に並べる人。
陛下の隣。
それは私が欲しい場所。
なんで? 未練になるようなことは極力残したくなんかなかったのに。
例えよくない結果になったとしても、ちゃんと大丈夫なようにしておかないとって思っていたのに。何故、陛下はそんな未来を私に見せるのだろう。アブレン行きを申し出たあの日、あれだけ危険性を説いてきたくせに。分かっていないはずはないのに。それなのに。
「いやだ、なぁ。そんなこと言われると、私、意地でも戻ってこなきゃいけないじゃない」
もうこれでお別れかもしれないのに。
あまりにもその誘惑は強すぎる。
「戻ってこないつもりだったのか?」
訝しむように私を覗き込む陛下に私は自分をこらえきれなくてとっさに首を左右に振ってそれを否定した。
「ううん。そんな事ない」
戻ってきたい。その未来を手にしたい。だから、
「そうね。必ず、戻ってくるわ。例え何かあってもまた生まれ変わってでも私はここに戻ってくる」
そうだ。もし上手くいかなくてもそこで終わりじゃないかもしれない。きっと、また会えるわ。そう心に強く思ってしまった。
「だから、私がもし失敗しても貴方が必ずこの国を守ってね。滅ぼされたりなんかしないで待っててね」
絶対よと言う私に、けれど陛下はなぜか不満げに顔を顰める。
「それは困る。今度はもう人間ですらないかもしれないお前なんか待つ気はない」
いや、こういうときは待つと言ってくれてもいいじゃないかと思いつつその陛下の発言に私は初めて次は虫だとか獣になる可能性もあることに気が付いた。
有り得なくなんてない。
そう考えて、心底現世はエリカで良かったなんて感激さえ覚えてきた。虫や獣がいけないなんて言わないけどそれでも。
ぐるぐるとそんなことを思う私を陛下が「エリカ」と呼びかける。
「俺は“エリカ・チェスリー”以外を妃にするつもりはない」
念を押すようにそう言われて、私はもう観念するしかない。陛下がそう言ってくれるのなら拒めるわけがない。
「でもまた貴族たちにうるさく言われるわ」
待たせている間もそうだし、身分のことだって。けれど陛下は面倒くさそうに顔をしかめながらも「別に構わない」とそれに答えた。
私はクスクス笑ってそのまま陛下に抱きつく。
――好きよ。
その想いをこめて。
してはいけないはずの無責任な約束。
でも、だからこそ私は自分のためにも、この人を無駄に縛りつけないためにも必ずここに戻ってこなければとも思える。
この戒めはきっと私の力になると信じて。
「行ってきます」
「ああ」
「いいですわねぇ。アル様も、わたくしがお城にいない間に浮気なんてしたら許しませんわよ。たまにはわたくしに会いにお屋敷にもお戻りくださいね」
きつく抱きしめあう私たちの後ろからそんな声が聞こえてくる。
「嫌ですよ」
「あら、冷たい。それなら仕方がありませんわね。アンジェリーナ様にお願いして」
「それは面倒なことになるような気がするのでやめてください」
「ではやはりアル様がお戻りになるしか。そうですわ。それならいっそのことわたくし花嫁修業をいたしますわ」
「無駄なことをする必要はありません」
「ですが万が一ということも」
「あのー」
陛下から離れた私は、何やら二人で盛り上がってる中邪魔していいのか迷いながらも割り込むようにそう声をかけた。
「そろそろ発とうと思うのですが」
「そうですね。こちらも時間が押しているんでした」
そう答えたアルフレッドに私は「それでは」と軽く礼をする。
するとアルフレッドは腕にしがみついていたマリアを引きはがして「エリカ嬢」と去ろうとする私を引き留めた。
「ちょっとよろしいですか?」
「? はい」
なんだろうと振り返った私を引き寄せてアルフレッドが耳元に口を寄せる。
「いいですか? 貴女は…――――――てくださいね」
「それは……?」
秘め事のように囁かれたそれをよく理解できていない私に、アルフレッドがさらに念押しをするように確認する。
「よろしいですね?」
「……ええ」
「それではまた」
なんでわざわざそんなことを、と思いつつ私はマリアと共に馬車に乗り込む。
御者に扉を閉められてゆっくりと馬車が動き出した。私は最後に窓から陛下たちに手を振る。
そしてガタンと揺れた馬車に、私は恐怖の悲鳴を上げつつマリアにしがみつきながらレストアの王城を後にした。




